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「新幹線」は、日本そのものだ。

 過密ダイヤの中、時間をたがわず運行される「正確性」、50年間、車内の乗客に死者を出していない「安全性」、島国の複雑な地形を猛スピードで駆け抜ける「高性能」。新幹線には、経済大国・ニッポンの知恵と精神のすべてが、詰まっている。

 1964年10月1日、1番列車が走り出した東京駅には、こんな言葉が刻まれた記念碑が残されている。

 「この鉄道は日本国民の叡智(えいち)と努力によって完成された」

 あれから50年、日本人と新幹線は何を見て、そして、どんな未来を駆け抜けていくのか? 読売新聞のこれまでの取材記録などとともにしばし、夢の超特急をめぐる旅に出よう。

胎動 記念写真
~1964 

第1章

胎動

十河信二・国鉄総裁(前列中央)らを囲み記念撮影する国鉄マンたち(1962年頃、神奈川県小田原市で)=久保敏さん 提供
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「弾丸列車」

 東京―新大阪間・総延長約515キロを高速鉄道で結ぶ。そんな国家プロジェクトの源泉を探ると、戦前に計画された幻の超特急にたどり着く。

 1938年に鉄道省が実地調査を開始した「弾丸列車」構想だ。

背景紙面:1938年12月28日 読売新聞朝刊

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 構想の柱は、東京を起点に大阪経由で下関までの区間を最高時速200キロで結ぶ高速鉄道の建設。37年に始まった日中戦争の拡大によって、東海道線による人や物の輸送は増える一方で、計画は対馬海峡をトンネルで結び、中国大陸へとつなぐ壮大なものへと変わっていった。

 戦局の悪化で1943年を最後に建設がストップしたこの構想はしかし、ルートや中間駅のプラン、買収済みの用地など数々の遺産を、東海道新幹線に残すこととなる。

参考記事:2012年2月11日 読売新聞東京版朝刊 昭和時代

新幹線 その名の由来 紙面イメージ
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超特急 その開発者たち

 弾丸列車の頓挫で一度はストップした超特急構想だったが、技術者らによる研究は続けられた。そして、一つの講演会を機に再び大きく注目を浴びるようになる。

 「超特急列車東京―大阪間3時間への可能性」。そう題された講演会は1957年5月30日、東京・銀座の山葉ホールで開かれた。

 国鉄の「鉄道技術研究所」の技術者4人が、最高時速250キロの鉄道が出来れば東京と大阪は3時間で結べると発表。当時、東京―大阪間は7時間半を要しただけに、会場はどよめき、最後は盛大な拍手に変わった。

公益財団法人 鉄道総合技術研究所 提供

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 実は、登壇した技術者4人のうち3人は旧陸海軍の技術者だった。研究所には、敗戦によって行き場を失った優秀な軍事技術研究者が集まり、超特急の開発に携わっていた。0系新幹線の団子鼻の形状も、高速鉄道では世界初となる自動列車制御装置(ATC)も彼らの手で生み出された。

参考記事:1999年9月6日 読売新聞東京版朝刊 20世紀 どんな時代だったのか  2000年9月28日 読売新聞大阪版朝刊 新幹線物語

河辺一 世界初のワザ「ATC」 松平精 空気バネで振動対策 三木忠直 団子鼻の開発

公益財団法人 鉄道総合技術研究所 提供

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新幹線の生みの親

 新幹線の「生みの親」と呼ばれる2人の人物がいる。1955年に第4代国鉄総裁に就任した十河信二と、国鉄技術畑のトップとして十河とタッグを組んだ技師長・島秀雄だ。

十河総裁の「突破力」 父子の夢 実現 島技師長
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発祥の地

 夢の超特急・東海道新幹線の起工式は1959年4月20日、最大の難所と言われた新丹那トンネル(熱海―三島駅間)で行われた。

 当時の記事によると、国鉄総裁の十河信二は起工式で、気合をかけながら、金色のクワで3度土を起こし、こうあいさつしたという。

 「全世界が実現しようとして、いまだなしえなかった最高能率の鉄道として実現させたい。新時代の国民の鉄道として、ご期待にそい得るような立派なものを作り上げる決意をここに誓う」

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 車両の開発も急ピッチで進められた。

 1962年、神奈川県綾瀬市~小田原市鴨宮に走行試験ができるモデル線が作られ、試運転が始まった。まさに新幹線発祥の地と言えるこの場所では、2年間で25万キロという徹底的な「走り込み」が行われた。1962年10月には時速200キロ、翌年3月には、電車方式としては当時の世界記録・時速256キロが打ち立てられた。

参考記事:1999年9月6日 読売新聞東京版 朝刊 20世紀どんな時代だったのか  1959年4月20日 読売新聞朝刊 伸びゆく国鉄 新東海道線クワ入れ式

モデル線助役 当時を語る

第2章

開業

開業 テキスト BG

そのとき

 1964年10月1日

 午前6時、東京駅から「ひかり1号」、新大阪駅から「ひかり2号」が発車して、東海道新幹線は正式に営業を開始した。当時のダイヤは「ひかり」と「こだま」が1時間に1本ずつ、というシンプルなものだった。

 今も残る東京駅19番ホームから出発した12両編成の「ひかり1号」の様子を、この日の読売新聞夕刊は以下のように報じている。

参考記事:1964年10月1日 読売新聞夕刊

紙面イメージ

背景紙面:1964年10月1日 読売新聞夕刊

 定刻六時、拍手とバンザイと興奮のどよめきのなかを「フォーン」という特徴のある警笛を鳴らして、秋冷の薄い朝モヤを破るように「ひかり一号」は、満員の乗客の笑顔を、窓という窓にうつしながら、営業列車としては世界最高の時速二百キロ、東京―大阪四時間のスタートを切った。

開業 テキスト BG

「ひかり1号」走る

 東京駅19番ホームを埋め尽くした人々の歓声を背に走り出した東海道新幹線「ひかり一号」。その車内の様子はどのようなものだったのか?

 1964年10月1日読売新聞夕刊には、記者によるコミカルなルポルタージュが掲載されている。

記者が見た 「ひかり一号」

早朝6時、東京駅をすべり出した新幹線一番列車「ひかり1号」

開業 テキスト BG

運転台 男のプライド

 新幹線の運転士の養成は開業2年前から急ピッチで進められた。国鉄では経験年数が2年以上の運転士を選抜、さらに適性検査や学力試験でふるいにかけた精鋭を鍛え上げた。

 1964年10月1日。開業その日を精鋭運転士たちはどう迎えたのか。新大阪から東京に向かう最初の「ひかり」を運転した大石和太郎さんに聞いた。

意外な検査? 予定になかった? 210キロ
開業 テキスト BG

東京―大阪3時間時代

 開業時は東京―新大阪間を4時間で結んでいた東海道新幹線。「夢」と言われた「東京―新大阪間3時間」をほぼ実現したのは、開業から1年余りたった1965年11月のことだった。

 開業1年を目前に控えた65年9月28日の朝刊では、この1年の新幹線をデータで振り返っている。

1965年11月1日 読売新聞夕刊

開業 テキスト BG

 9月26日までの利用者数は2324万人。日本人の4人に1人が利用した計算だ。利用目的は70%が会社の出張などの業務だった。新幹線が日本の経済発展に深く関わっていた様子がうかがわれる。

 開業以来、26日までの事故は363件。台風の連続襲来で豊橋―名古屋間の築堤がくずれるなどし、「雨に弱い」との不評もあったという。

参考記事:1965年9月28日 読売新聞朝刊 1周年迎える新幹線

雪との戦い

背景紙面:1965年9月28日 読売新聞朝刊

第3章

世相

新幹線は大きな時代のうねりの中を走り続けた。

高度経済成長があり、バブル景気とその崩壊があった。

スーパースターがいた。未曽有の大災害があった。

時代は、昭和から平成へ。

新幹線と日本の激動の半世紀を、

読売新聞社の写真とともに振り返る。

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 東海道新幹線開業に合わせて運行が始まった初代新幹線。最高速度は時速210キロで、東京―大阪間を3時間10分(開業時は4時間)で結んだ。「新しい」「速い」というイメージから白と青を組み合わせた車体カラーが特徴で、丸っこい先頭部の形から「団子鼻」の愛称で親しまれた。
(1964年10月〜1999年9月)

図面はJR西日本所蔵

東京五輪
1964年10月
ビートルズ来日
1966年6月
大阪万博
1970年3月

 大阪万博には183日の期間中、約6400万人が来場し、そのうち約1000万人が、交通手段として新幹線を使った。国鉄は輸送力強化のため、12両編成だった「ひかり」を増強。いまも残る16両編成の始まりである。

 経営が悪化していた国鉄は、万博には小規模な出展しかできなかった。だが、須田寛・元JR東海会長が「新幹線に乗りたいから万博に行こう、と懇願した子どもたちも多かったようだ」とのちに語ったように、ひかりは「動くパビリオン」として、万博の年に大きな存在感を残したのだ。

参考記事:
2000年8月7日 読売新聞東京版朝刊
 わたしの道
2004年10月9日 読売新聞中部版朝刊
 この人に聞く
2012年7月21日 読売新聞東京版朝刊
 昭和時代 大阪万博(下)

札幌五輪
1972年2月
長嶋茂雄 現役引退
1974年10月
新幹線 岡山~博多間開業
1975年3月

 山陽新幹線の岡山―博多間が開業し、東京と博多は6時間56分で結ばれた。

 石油ショックの影響を引きずる不景気のさなかだったが、九州では長崎・佐世保の温泉街などで観光客がどっと増えた。

 「行楽シーズンにはホテル業者が驚くほどの宿泊客、この一か月、どの旅館も満室が続き、笑いが止まらないという」。当時の読売新聞は、開業後の地元の熱気をこう伝えている。

 だが、祝福ムードばかりではなく、公害拡大を懸念する抗議集会も開かれた。みんなが手放しで新幹線を歓迎していたわけではなかったのだ。

新幹線「黒船」論

参考記事:
1975年3月10日 読売新聞東京版夕刊
 新幹線、博多まで開業
1975年4月10日 読売新聞東京版夕刊
 笑いも止まらぬ博多新幹線 開業1か月

王貞治 世界記録756号
1977年9月
東北新幹線開業
1982年6月
上越新幹線開業
1982年11月
100

 初代新幹線の「0系」の後継として1985年に登場したのが、「100系」新幹線。0系をベースにしながらも、旅客サービスの向上を目指し、2階建ての車両が導入された。グリーン車や食堂車などとして利用され、人気となった。0系よりもシャープなデザインが特徴で、先頭部のとがった形から「シャークノーズ」(サメの鼻)と呼ばれた。
(1985年10月〜2003年9月)

ハレー彗星大接近
1986年4月
株価2万円台 バブル経済
1987年1月
国鉄からJRへ
1987年4月

 37兆5000億円。

 途方もない長期債務を抱えて、国鉄は破産状態に陥った。

 政治の事情と予算に縛られ、経営陣に自主性がなかったこと。職員にもコスト意識が薄かったこと――。原因は様々に指摘されたが、いずれにせよ、元凶は公社という形態にあり、民営化は当然とされた。

 東海道新幹線の運営を引き継いだのはJR東海。ドル箱路線の東海道新幹線で、経営は安定化していった。

参考記事:
1987年3月18日
 読売新聞東京版朝刊 新生JR黒字、民間手法動員で
1987年3月31日
 読売新聞東京版朝刊 社説
2000年8月21日
 読売新聞東京版朝刊 わたしの道

東京ドーム開場
1988年3月
昭和から平成へ
1989年1月
東西ドイツ統一
1990年10月
「ジュリアナ東京」オープン
1991年5月
山形新幹線開業
1992年7月
300

 300系「のぞみ」は、東海道新幹線の開業以来、初めてのフルモデルチェンジ車両だった。

 アルミ合金製の車体は従来よりおよそ25%軽量化され、最高時速は50キロアップして時速270キロに。東京―大阪間の所要時間は2時間半となった。

 分割・民営化から5年。バブルが崩壊し、新幹線のビジネス客が思うように伸びないなかではあったが、飛行機と新幹線が競争相手となる「高速鉄道時代」は確かに幕を開けたのだ。
(1992年3月〜2012年3月)

名古屋とばし

参考記事:
1992年3月15日
 読売新聞東京版朝刊
 JR東海 飛行機射程内の「のぞみ」
1992年3月30日
 読売新聞東京版朝刊
 JRあさって1日に“満5歳”

Jリーグ開幕
1993年5月
皇太子さまご成婚
1993年6月
阪神・淡路大震災
1995年1月
地下鉄サリン事件
1995年3月
秋田新幹線開業
1997年3月
長野新幹線開業
1997年10月
500

 JR西日本が開発した500系の運行が始まった。国内初の時速300キロで営業運転し、新大阪―小倉間を最速1時間59分で結んだ。鉄道では初めて大阪―九州間が2時間を切った。先端がとがった「ロングノーズ」が特徴で、車体は明るいグレー、側面には青色ストライプ。飛行機のような先頭形状が根強い人気を誇ったが、2010年に「のぞみ」を引退し、東海道新幹線から姿を消した。今は「こだま」として山陽を走る。
(東海道新幹線区間:1997年11月〜2010年2月)

長野五輪
1998年2月
700

 新幹線のさらなる高速化をめざし、1999年に700系の運行が始まった。空気力学を考えて設計された先頭車両は「エアロストリーム型」と呼ばれ、カモノハシに似た独特の形状で知られる。また、車体の振動を制御する新システムも採用され、乗り心地が飛躍的に向上した。
(1999年3月〜)

2000円札発行
2000年7月
東京ディズニーシー開園
2001年9月
アメリカ同時テロ
2001年9月
サッカーW杯日韓大会
2002年5月
六本木ヒルズオープン
2003年4月
愛知万博(愛・地球博)
2005年3月
荒川静香 トリノ五輪で金
2006年2月
悠仁さま誕生
2006年9月
東京マラソンスタート
2007年2月
N700

 700系を基に製作されたN700系の営業運転が始まった。鳥が羽を広げたような「エアロ・ダブルウイング形」と呼ばれる先頭部が特徴で、電力消費量や騒音を抑えるなど、環境に配慮しながら、乗り心地の良さを向上させた。
(2007年7月〜)

リーマンショック 株価暴落
2008年9月
小惑星探査機はやぶさ帰還
2010年6月
東日本大震災
2011年3月
東京スカイツリー開業
2012年5月
長嶋、松井 国民栄誉賞
2013年5月
富士山 世界遺産
2013年6月
2020年東京五輪 決定
2013年9月
N700A

 N700系をさらに進化させたN700Aが登場。区間の制限速度を自動的に維持できる速度制御装置があるほか、大災害の発生時にはより早く止まれるようにブレーキ性能をアップさせた。

 これまでは「より速く」を目指し続けた新幹線だったが、国を挙げて東日本大震災からの復興を目指すなか、安全性を向上させた新車両の投入となった。
(2013年2月〜)

輸送人員の推移 新幹線車両

終章

エピローグ

 新幹線の登場は、日本をどれだけ小さくしただろう。東京―大阪の日帰りが可能になった。所要時間はどんどん短くなり、開業当初の4時間から2時間25分にまで縮まった。会いたい人に、今すぐ会いに行ける。新幹線は、それを当たり前にしてくれたのだ。

国土交通省などのデータをもとに作成

 JR東海が開発するリニア中央新幹線は、東京―大阪間を67分、東京―名古屋間を40分に短縮しようとしている。超電導リニアが、時速500キロの運行を可能にした。

 東京―名古屋間の開業予定は2027年。ずいぶん先の話にも感じる。だが、新幹線が駆け抜けてきた半世紀を思えば、13年後は近い将来のことにも思えてこないだろうか。

東海道・中央新幹線
1964年10月1日(東京〜新大阪)

国交省の資料などを基に作成

 日本の新幹線が培った技術は、すでに海を越えている。07年1月、新幹線システムを海外で初採用した台湾高速鉄道(台湾新幹線)が営業を開始した。JR東海はさらに、米国でもSHINKANSENや超電導リニアを開業させようと、営業活動を展開している。

世界を走り、未来へ駆ける。

夢の超特急の旅路は、始まったばかりだ。

論説委員 清水純一 あっ、新幹線だ 編集委員 知野恵子 新時代を感じた
今回取り上げた新幹線写真の一部は、「よみうり報知写真館」で購入できます
 
協力
公益財団法人 鉄道総合技術研究所  JR東海  JR西日本  久保敏さん  かけやまさん(新幹線側面写真提供)
 
製作
[編集] 東京本社社会部・編成部・校閲部 大阪本社社会部 中部支社社会G 東京本社メディア局企画開発部・川嶋路大 武田潤 同編集部・田口栄一
[デザイン] 東京本社メディア局企画開発部・雨宮健雄 藤垣円 荒木田美咲  [イラストレーション] 荒木田美咲  [フロントエンド開発] 雨宮健雄 西川一格
[写真] 東京本社写真部 中部支社写真G 大阪本社写真部  [動画] 蓑輪潤 西山修平
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