東京モーターショー 60年の轍 戦後日本のモータリゼーション

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プロローグ

第6回全日本自動車ショーの開幕を伝える読売新聞紙面
(1959年10月23日付)

 全国二百四十社の自動車関係業者がウデによりをかけたこの一大ショウは、はじめての試みでもあるところから終日にぎわい、“こんなのほしいわネ”と彼氏にささやくアベックも一台百万円と聞いてホッとため息をついていた。(1954年4月22日・読売新聞朝刊「国産を一台いかが?世界的水準誇る自動車ショウ」より)

「東京モーターショー」は、前身の「全日本モーターショウ(ショー)」の初開催以来、60年を超える歴史を刻んできた。東京モーターショーは鏡のように、自動車産業を通じ、戦後日本の復興を映し出してきた。アベックがため息をついて見つめた自家用車は、やがて「マイカー」という呼び名に変わり、高速道路網の発達とともに、日本中を走り回るようになった。そして今、高い環境性能や安全性能を備えたマイカーが登場している。

 読売新聞は、これまでの紙面で、戦後日本のモータリゼーションを見つめ続けてきた。東京モーターショーの歴史が60年を超えた今、過去の紙面と、新たな取材から、改めて、自動車と日本経済・人々の暮らしの関わりについて振り返りたい。

 米国で1908年、世界初の量産自動車「T型フォード」の発売で車社会化が幕を開けた。

 日本では第2次世界大戦後、安価で小回りも利くスクーターや三輪トラックが車社会化の道筋をつけたが、その後、生産活動が上向くとともにトラック製造が本格化した。

 トヨタは1959(昭和34)年に国内初の乗用車専用の組み立て工場を建設してクラウンの乗用車の量産に乗り出す。他メーカーも次々に乗用車の専用工場建設を進め、国内生産が飛躍的に伸びたことがマイカー普及を後押しした。

 昭和40年代にはモータリゼーション(車社会化)が一気に開花し、車の大衆化で「マイカー」という言葉も生まれた。車の普及に合わせて、高速道路網など道路整備も急ピッチで進み、国土の姿も一気に様変わりする。今日の世界に冠たる「自動車王国」日本の礎は、昭和30~40年代にできあがった。

「戦後日本のモータリゼーション」は、2011年12月3日読売新聞掲載の「昭和時代 モータリゼーション 自動車王国へ」を再構成しています。 文中敬称略、肩書・車名・記録等は掲載当時のものです。

参考文献は次の通り。

  • トヨタ自動車『トヨタをつくった技術者たち』
  • 日本自動車工業会『十年の歩み』
  • 自動車工業振興会『自動車工業振興会30年史』
  • 富士重工業『富士重工業三十年史』
  • 徳大寺有恒『ぼくの日本自動車史』
  • 桂木洋二『てんとう虫が走った日 スバル360開発物語』
  • 日本道路公団『名神高速道路建設誌』
  • 阿川弘之『阿川弘之全集第十六巻』

「日本に乗用車工業はいらない」

 1950(昭和25)年、当時の日銀総裁・一万田(いちまだ)尚登は「日本に乗用車工業はいらない」と主張した。米欧が圧倒的優位を誇る分野には勝ち目がないからというのが、その理由だった。

 しかし、官僚の中には、日本の車社会化を見据え、自動車産業の育成を重視する考えもあった。通産省が1955年5月に打ち出した「国民車構想」は、国内の自動車メーカーに、「大衆車」の開発を求める内容だった。

 構想に掲げられた条件は、〈1〉最高速度は時速100キロ以上〈2〉4人乗り〈3〉燃費は時速60キロ走行時で1リットルあたり30キロ〈4〉最終販売価格は25万円以下――だった。

 メーカー側も、考えは同じだった。構想が公表される前から開発を始めていた富士重工業の「スバル360」は、1958年3月、東京・日本橋の白木屋でお披露目された。丸みを帯びた独特のボディーから「てんとう虫」の愛称で親しまれたこの車は、価格以外は「国民車」の要素をほとんど兼ね備えていた。

1964年の第2回日本グランプリでポルシェに挑むスカイラインGT。日産自動車提供

 スバル360の当時の販売価格は42万5000円。富士重工は社史で、発売当時の総理大臣の給料は15万円、大卒初任給は1万3000円と紹介。「小型車に比べて格段に安価だったものの、一般大衆にはまだ手が届かない価格だった」と記している。

 しかし、米欧の最新の小型車にも負けない独創的な設計から、熱狂的な支持を集めた。発売から10年間にわたって、軽自動車販売でトップを守り続け、累計販売台数は約39万台。国産車でも屈指のロングセラーとなった。

スバル360。富士重工業が1958年3月に発表した軽自動車。富士重工業提供(1959年10月23日付)

〈スバル360〉

 富士重工業が1958(昭和33)年3月に発表した軽自動車。全長2990ミリ、全幅1300ミリ。極めて小さなボディーサイズにもかかわらず、かさばるエンジンを後輪より後ろに搭載する方式を導入するなど、様々な工夫で車内スペースを確保し、4人乗りを実現した。前身の中島飛行機時代の航空機製造で培った、軽量設計のノウハウが、惜しみなくつぎ込まれたのも大きな特徴。エンジンの排気量は360ccだったが、車体の軽さを生かして、小型車に劣らない性能が自慢だった。

「あえてイバラの道を」

トヨタ自動車のカローラ初代誕生記念式典。1966年撮影

 終戦間もない頃、日本の自動車業界は、壊滅的な状況にあった。連合国軍総司令部(GHQ)からは生産停止を命じられ、停滞を余儀なくされていた。

 転機は、朝鮮戦争による特需だった。トラック生産が上向きに転じ、そこで体力を取り戻した各自動車メーカーは、1952(昭和27)年から乗用車の本格的な量産に乗り出した。しかし、当時の国内メーカーには、まだ独力で車を開発できる力はなかった。

1952年12月3日の読売新聞

 同年12月には、日産自動車が英オースティンと提携して乗用車の国内生産を開始。いすゞなど各社も、相次いで海外メーカーと提携した。当時の主流は、欧州メーカーから技術供与を受けて組み立てるだけというレベルだった。

 ただ、トヨタは、別の道を歩もうとしていた。1952(昭和27)年1月、「外国の技術援助を受けることなく本格的乗用車を独力で開発する」ことを基本方針に掲げた。

1958年頃のトヨタの組み立て工場。トヨタ自動車提供

 もっとも、トヨタも、トラックの車台に乗用車の格好をしたボディーを載せるだけの車しか量産したことがなかった。高速道路が整備された欧州、米国産の車と比べると、格好は同じでも走行性能などは雲泥の差だった。

 トヨタが社史の中で、「外国自動車会社との技術提携という安易な道を避け、純国産車開発のイバラの道をあえて選んだ」(『トヨタ自動車30年史』)と胸を張る“純国産車”は、1955(昭和30)年に発表された。

都電とタクシーが走る銀座6丁目松坂屋付近。1959年撮影

 その名も「トヨペット・クラウン」。トヨタが自力で開発した専用の車台を使用し、当時の欧米の車と肩を並べる最新設計が自慢だった。しかし、品質や性能がまだ劣っていたことは、トヨタ自身も気付いていた。トヨタは1957(昭和32)年に初の対米輸出も試みたが、「パワー不足」などと現地の評判は芳しくなく、販売は伸び悩んだ。

 それでも、国内では、タクシー業界をはじめ法人需要が好評だった。当時のクラウン開発責任者だったトヨタの中村健也は、発売後に小さなトラブルが多発したものの、「国中を挙げてクラウンの尻押しをしてくれたという感じだった」と述べていた。

 自動車評論家の徳大寺有恒は、自著で、初代クラウンの特徴について、運転のしやすさ、豪華な装備、耐久性など、その後、世界中で歓迎された「メード・イン・ジャパン」の美質を最初から兼ね備えていたと評価している。

初代トヨペット・クラウン。トヨタ自動車提供

〈トヨペット・クラウン〉

 トヨタが1955(昭和30)年1月に発表した乗用車。全長4285ミリ、全幅1680ミリの4ドアセダンで、排気量1.5リットルクラスのエンジンを搭載、最高速度は時速100キロ。現在、発売されているクラウンと比べると、ボディーサイズは二回りほど小さく、排気量も半分以下だ。

大衆車が作った日本モータリゼーション

昭和時代に活躍した家電製品

 昭和30年代の自動車産業を支えていたのは、主にタクシーやハイヤーなど法人ユーザーだった。個人の所有は一部の富裕層に限られていた。国民所得の増加と、車の量産効果で価格が引き下げられたこともあって、40年代に入ると、個人ユーザーが飛躍的に増える。「マイカー」という言葉が使われるようになるのも40年代だ。

 これに伴い、「テレビ、冷蔵庫、洗濯機」だった〈三種の神器〉は、「カー(車)、クーラー、カラーテレビ」の頭文字をとった〈3C〉に代わる。

 各メーカー間で一般大衆向けの車の開発競争が進んだ。1966(昭和41)年、相次いで発売された「日産サニー」と「トヨタカローラ」は、旧来の軽自動車より一回り大きい1リットルクラスのエンジンを搭載していた。今日のファミリーカーの先駆けであり、いずれも爆発的にヒットした。

1966年10月21日の読売新聞

 とりわけカローラは、1969(昭和44)年に国内年間販売台数でトップに立ち、その後2001年まで33年の間、トップの座を守り続けた。トヨタ会長だった豊田英二は、インタビューの中で、「私は、カローラで『モータリゼーション』をつくったと思っている」と語っていた。

 カローラなどの「大衆車」が販売の底上げに貢献し、国内の登録台数は、1964(昭和39)年の東京五輪後、順調に伸び続けた。同年に約500万台だった登録数は、わずか3年後の1967年には、その2倍の1000万台を突破した。本格的なマイカー時代が到来し、これを機に自動車産業は、一気に日本の主要産業に躍り出る。

 政府は、自動車メーカーに様々な優遇措置を導入し、官民を挙げて車の輸出強化に着手した。

神奈川県横須賀市で船積みを待つ輸出用自動車。1971年撮影

 この結果、1960(昭和35)年には392億円だった車の輸出額は、1964(昭和39)年には932億円と、2倍以上に膨らんだ。昭和40年代に入ると、対米輸出が大幅に伸びて、「自動車」は輸出産業の第1位に躍進した。

 その後も、国内の自動車メーカーは主要輸出産業として成長を続け、1980(昭和55)年には、日本の自動車生産台数がついに米国を抜いて世界一になる。

「スカG」神話

1968年の第5回日本グランプリで富士スピードウェイを疾走するスカイライン2000GT。日産自動車提供

 「日本に高速道路ができても、力を発揮するのは、フォード、シボレー、ベンツなどだ。国産車はわき道ばかり(を走る)という哀れな姿になる」「日本は小さいから、小さい自動車でいいという考えは捨てていただきたい」

 プリンス自動車のトップ、団伊能は、1955年7月の衆院商工委員会で、参考人として訴えた。

レースでの活躍もマイカーの浸透にひと役買った

 欧米の車に追いつき、追い越したい――そんなメーカーの熱い思いは、1964(昭和39)年5月、鈴鹿サーキット(三重)で結実する。

 第2回日本グランプリに出場したプリンスの「スカイラインGT」は、ドイツのスポーツカー、ポルシェと対決。レース中に一時、トップを快走した。結局、2位に終わったものの、当時の新聞などで、「ポルシェに打ち勝った国産車」と大きく報じられ、神格化されていった。

 プリンスは、1966(昭和41)年に日産自動車に吸収合併されたが、スカイラインはその後も国内レースを席巻。日本のモータリゼーションの牽引(けんいん)役と言える「団塊の世代」を中心に、「スカG」の愛称で圧倒的に支持された。その絶大な人気は、昭和40年代にピークを迎え、その後も看板車種として1980年代まで日産を支え続けた。

スカイラインGT。プリンス自動車が第2回日本グランプリの必勝を期して開発した。日産自動車提供

〈スカイラインGT〉

 プリンス自動車が第2回日本グランプリの必勝を期して開発した当時のモデルは、排気量1.5リットルクラスの当時のスカイラインの車体前部を引き伸ばして、1クラス上の車種に搭載する2リットルエンジンを押し込んだ特別なモデル。当時の欧州メーカーが高性能車に好んで使用した「GT(グランツーリスモ)」の称号が与えられた。

 さらに高性能なエンジンを搭載した「スカイラインGT-R」は、国内レースで通算50勝をあげた。その称号は、ポルシェやフェラーリなどの高性能欧州車と同等の性能を誇るスポーツカー「日産GT-R」(2007年)に受け継がれている。

「F1」への挑戦

ホンダのF1マシンと本田宗一郎氏(左)。1966年撮影、ホンダ提供

 二輪車メーカーとして成功を収めていたホンダは、自動車メーカーに転身したのを機に、いきなりとんでもない決断をする。

 1964(昭和39)年、モータースポーツの世界最高峰、F1世界選手権への出場を決めたのだ。無謀ともいえる決断は、創業者で当時社長の本田宗一郎が「頂点で王座を目指せ」と社内で号令を発したことがきっかけだったという。

 初めて手がける本格的な車が、世界の舞台で戦う究極のレーシングカー。四輪車のノウハウも少なく、当初は苦戦続きだったが、純白のスリムな車体、前部に日の丸を大きくあしらったホンダのマシンは、レーシングバイク開発で蓄積したエンジン開発技術で、底力を発揮するようになる。

1967年に読売新聞に掲載されたホンダの広告。日の丸が世界に通用した喜びを伝える

 初勝利は、1965年10月のメキシコGP。トップでチェッカーフラッグを受けた。68年のシーズンを最後に活動を停止するまで、ホンダの勝利は2勝にとどまった。

 だが、その後、国内で次々に発売された「S600」「N360」などのホンダ車は、他メーカーを圧倒する高性能エンジンを搭載し、F1のイメージと重ね合わせた若者たちのあこがれの的となった。

60年代に活躍したホンダF1。1998年10月撮影

〈F1〉

 四つのタイヤが露出した単座の専用車を使用したレース。自動車レースとしては最高の格式を誇る。国際自動車連盟(FIA)の手で世界選手権となったのは1950(昭和25)年から。ホンダが挑戦した時の車両の規定は「排気量1.5リットル以下」。当時は8気筒エンジンが主流だったが、ホンダはレーシングバイクの開発で培った高度な技術を投入し、高回転高出力型のV型12気筒エンジンをひっさげ、フェラーリなど欧州の強豪チームと渡り合った。

「酷道」克服の道のり

駅伝大会で未舗装の道路を走る選手。1959年撮影

 1955(昭和30)年以前の国内の幹線道路は、未舗装路がほとんどだった。

 建設省は、高速道路網の整備費用を世界銀行からの融資で賄おうと、外国から調査団を受け入れることとした。元米国統計学会会長のラルフ・J・ワトキンスが来日し、わが国の道路事情を調査、1956年8月に報告書「ワトキンス・レポート」をまとめている。

「日本の道路は信じがたいほど悪い」。こう書き起こされた報告書は「工業国にして、これほど完全に道路網を無視してきた国は、日本のほかにない」と切り捨てた。当時、1級国道の舗装率は23%にすぎず、地方道にいたっては9割超が未舗装であり、報告書は「路線は不当に狭く、かつ危険なもの」と断じ、高速道路の早期整備が必要と結んでいた。

都市部では渋滞が慢性化するようになっていった。大阪市で1962年撮影

 元国土次官の下河辺淳は、読売新聞の「時代の証言者」で、このレポートの背景について「日本としては、『日本の道路は信じがたいほど悪い』という宣伝文句を作り、世銀の人に報告書をみせた。裏話を言えば、我々が作成した統計表をワトキンス氏に押しつけた」と打ち明けている。

 しかし、わざわざ誇張をしなくても、当時の道路事情の実態は報告書とさほど変わらなかったようだ。

 乗り物に通暁していた作家の阿川弘之は、1958(昭和33)年10月、日本の道路事情を自らの目で確かめようと、2年前のトヨペット・クラウンを駆って、東北一周の自動車旅行に出かけた。

 その時のエッセー「東北国道二千キロ」で阿川は、ワトキンス・レポートにも触れつつ、その悪路ぶりを<泥色のすさまじい起伏が、波濤(はとう)のやうに向ふから向ふから迫り来つて、自動車は時化にもまれる機帆船のやうに…はげしく動揺する>と形容。巷間(こうかん)の冗談で、<酷道(国道)、険道(県道)、死道(市道)、懲道(町道)、損道(村道)>と言われている、と書いた。

高速化する国内交通路

多くの車が走る東名高速。1979年撮影

 ワトキンス・レポートの「劣悪な道路事情」という分析も手伝って、世銀から約288億円の融資を引き出すことに成功した。高速道路建設は、まず、58年に名古屋と神戸を結ぶ名神高速道路の工事が始まった。

 その後、東京と名古屋を結ぶ東名高速道路、中央自動車道が相次いで着工。難工事が続いたが、東名高速は1969(昭和44)年、開通にこぎ着けた。

 道路整備が急がれる中で、それを“錦の御旗”に、1953(昭和28)年、議員立法で道路特定財源を生み出したのが、後に首相となる田中角栄だ。

 自動車に使うガソリンから税金をとって道路財源に充てる揮発油税が始まりだった。道路整備が進むと、車とガソリンの使用量も増え、税収も伸びていった。70年度からの道路整備計画で財源不足が生じると、新たに自動車重量税も創設された。

建設中の名神高速・豊中インター。1962年撮影

 この仕組みは、日本の道路整備に大きな役割を果たした。しかし一方で、道路だけに使われる巨額の予算は、「道路族」と呼ばれる国会議員や土建業者らの既得権益と化していった。さほど必要でない道路も建設されることになった。道路特定財源制度そのものは、2009年度から廃止された。

クルマが目指した未来