(7)戦後日本と12人抜きの牧場主…服部誠(東農大、48〜51回大会)ジョゼフ・オツオリをケニアから連れてきた山梨学院大学の秋山勉顧問は、東京農大のOBである。第35回大会から4年間箱根を走り、最後の年の第10区の区間9位が最高だった。 箱根駅伝は大正9年に東京高師、早稲田、慶応、明治の4校によってスタートし、翌年から7校になった。加わったのは中大と日大、そして東農大である。いまの大学生に、当時の農大の勢いがどこまで理解できるのだろう。戦前の日本は、食糧自給率ほぼ100%であり、農業、とりわけ稲作を中心とした国家体制の下で、その後継者の育成はきわめて重要な意味を持っていた。日本全国の大地主、造り酒屋、醸造家の息子たちが東農大に集ってきた時代があり、さながらボンボン養成所と言ってもよかったかもしれない。第2回大会からの参加は、当然の時代風景だった。 確かに長い伝統ではあるが、東農大に総合優勝の経験はない。ただ一つだけ、いまなお燦然と輝く記録が残っている。1974年、第50回大会の2区で服部誠が刻んだ12人抜きの大記録だ。 12人抜きということは、そもそも1区が情けなかったということにもなるわけだが、1区を走った岩瀬哲治はその後、びわ湖毎日マラソンでも優勝した実力の持ち主。1年生ならではのブレーキで、だからこそ服部も頑張ったと言えるかもしれなかった。区間13位、トップから1分53秒遅れでタスキを受けると、服部は3度目の2区に決意を込めて走り出した――。 神奈川に服部あり、高校時代からそう言われた存在だった。 相原高校時代、1、2年とも全国高校駅伝に出場しているが、圧巻は高校3年のシーズンだ。インターハイの5千mで優勝。さらに国体の5千mも制し、全国高校駅伝も花の1区を区間賞で突っ走って、優勝旗が初めて箱根を越えた。いわゆる、高校生3冠王というエースが東農大に入ったのだ。そもそも、そうした運命を背負って走っていたと言えるかもしれない。 服部の実家は、横浜市内で牧場を経営していた。横浜にも、ついこの前まではそんなのどかな光景が広がっていたのだ。神奈川は横浜高校と相原高校の2強時代で、中学から健脚で鳴らした服部はどちらに行く選択肢もあったが、相原高校には酪農科があった。そうなれば、東農大に行くのも必然だったかといえば、それは違うだろう。高校生3冠王に、選択肢は無限にあった。 親は服部を牧場の後継者と見込んでいた。当時の東農大の中村実監督は、横浜市の農事課に勤務していた。そこから口説きにかかったのだから、話はとんとん拍子だったのだ。1年から約束されたエースの座ではあったが、ここにも宿命の罠があった。東農大陸上部の目標はあくまでも箱根駅伝。ところが、服部が入るまで、この古豪は6年間も予選会で沈んでいた。陸上部のここまでの弱体は、日本の大学経営の端境期を反映したものだった。 敗戦後、GHQ(連合国軍最高司令官司令部)の指導によって、1947年に農地改革、あるいは農地解放が実施された。それまでの大地主は土地を一夜にして没収され没落した。この影響はもろに大学経営に跳ね返り、その結果としての6年間の空白をたった一人のエースで埋めることは無理な相談だった。だが、無理とは知りつつも、伝統校ゆえに、その期待は小さくはなかった。 1年生から2区を走り、3人抜きのデビュー。2年目も6位から2位に引き上げ、3年目に大記録が待っていた。13位でタスキを受けた服部は、東洋、専修、国士舘、青山学院、法政と5チームを一気に抜いてたちまち8位に浮上。次に東京教育大と大東大を抜いて6位に上がると、16km地点でダンゴになっていた中大、東海大、日体大、順天大をごぼう抜きして2位。18km過ぎには残す日大を通過してトップに躍り出て、ゴール地点では2位にさらに1分24秒の差をつけ、母校を初の往路優勝に導いた。 服部の強さは、その足跡に明らかだ。3年の冬に別府大分マラソンを走って2位になっている。卒業する75年のびわ湖毎日でも2位になってモントリオール・オリンピックのプレ大会に派遣されると、ここも宗茂に次いでの2位。卒業後、彼は1年間だけ家業に就かず、オリンピック浪人として過ごしている。暮れの福岡国際マラソンで日本選手の2位になったが、最終選考会のびわ湖毎日で惨敗すると、きっぱりとシューズを脱いだ。脱がざるを得なかった。服部が12人抜きを演じた1974年、実家の服部牧場は丹沢山塊の東端、宮ヶ瀬ダム近くに移転拡張し、後継者の帰りを、首を長くして待っていた。 服部の時代に、チームは総合4位まで上がった。そして、東農大の伝統に相応しい輝きが戻ったのは服部が卒業した翌年からである。76年に総合3位、そして77年には準優勝している。そのときのアンカーは、12人抜きの〈陰の立役者〉だった岩瀬哲治で、区間賞を取っている。 タスキは伝わっていくようだ。そして東農大の歩みを、日本の戦後史からも服部誠の人生からも辿ることができるところに、箱根駅伝の魅力もあるだろう。いまは母校の総監督の肩書きを貰っているが、その後一度も走っていないところに、東農大の心意気が伝わってくる。(おわり) (スポーツライター・武田薫) (2007年12月27日 読売新聞)
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