研究・翻訳賞 谷沢永一さん 74
引用排し 人間像浮き彫りに

「積年の宿題をやっと果たしたのがこの本。それで賞をいただけるとは……」と満面の笑みを浮かべる。
「永ちゃん、近代文学論争史を書け。おれが読みたいんや」と言ったのが、共に無名時代、同人誌「えんぴつ」を出していた作家の開高健だった。
文芸誌「新潮」で1981年から連載したが、10回で書けなくなった。中断中の89年、開高は死去。ようやく一昨年、書き継いだ原稿が「文豪たちの大喧嘩―鴎外・逍遥・樗牛」(新潮社)として結実した。
引用なしの評論研究というほとんど前例のないスタイル。それは「今の評論は引用が多すぎ。読者は引用部分を飛ばしてしまう」という反省から。原文の論旨をかみ砕いて圧縮、地の文に埋め込んだのだ。
「志賀直哉が『小林秀雄の評論は、引用がないから読みやすい』と言ったのが、頭の隅に残っていた」
論旨の要約なら、全集を読めばできる。しかし、論争する文豪の胸の内、息づかいまでも浮かび上がらせるには、初出の雑誌に当たることが不可欠だった。
見出しの大きさや活字の組み方、発行年月日などを調べ、文章だけではつかめない駆け引きの妙を探った。
「当初思っていたよりしんどい仕事。途中で気力が続かなくなった」と長い中断の理由を明かす。
時代は明治中期。森鴎外と坪内逍遥が批評の基準を論じた「没理想論争」、逍遥と高山樗牛が史実と芸術性の関係について火花を散らした「史劇論争」や「歴史画論争」――。
鴎外は、ドイツ留学帰りの権威で論敵を圧倒し、逍遥は、主宰誌「早稲田文学」が月2回刊行だったことに乗じ、論考を集中的に発表する。樗牛は、自ら編集する総合誌「太陽」誌上で逍遥の論文を2回に分け、センテンスの途中で分断して掲載するという“禁じ手”に出る……。
「論争では相手の論議にすぐ反論するか、言葉に詰まって間隙(かんげき)を置くか、タイミングが殊に重要。初出の雑誌を調べれば、雰囲気が分かる。それが形態を見て本質に迫る書誌学の方法論なのです」
初出の雑誌は、ほとんど自宅書庫にある。長年教授を務めた関西大学の図書館で、「太陽」を閲覧したのが数少ない例外だ。
蔵書は阪神大震災の後、約3分の1を処分したが、その後も本はどんどん増え続ける。「今は10万冊あるのか、15万冊か、自分でも分からない」という。
「論争を通じて両者が議論を高められれば、それが何より。でも残念ながら、人間は、そんなに理性的にはできていない。私は論争を通じ、文豪たちの際だった人間像を浮き彫りにしたかった。論争自体に関心があったのではない」
しかし、谷沢さん自身、論争をしたことがあったのでは。
「学界の権威を、徹底的に批判しました。本格的な論争にはならなかったが」と大きく破顔。やはり論争好きは体質のようだ。(浪川 知子記者)(おわり)