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ブラジル移民 100年の思い

広大なオレンジ畑(後方)などを所有する迫田一家。4世代、4世帯が農園の敷地内で暮らす。中央が迫田オトミさん、その後ろが三男・弘さん夫妻と長女・ユミさん(29)(ブラジル・サンパウロ州コンシャウ市で)
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1912年、第3回移民としてブラジルに渡った大原綾子さん(サンパウロ市内で)

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移民船が出航する神戸に向かう前の1961年2月、宮崎県日向市の自宅近くで記念撮影に納まる迫田一家8人ら。左から6人目の後ろがオトミさん。左端は弘さん、右端は利通さん

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かつて日本や各国からの移民船が到着したサントス。港近くの海岸は夏のバカンスを楽しむ人たちでにぎわっていた

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迫田利通さんの二女・千恵さん(34)=左=は、長年日本での出稼ぎ生活を続けている。日曜日、弘さんの長女の夫(39)=右=が訪れ、一家と夕食を共にする(群馬県伊勢崎市で)

 「みんなで一緒に日本に帰ろうね」。神戸港からブラジルに向かう移民船の甲板で、迫田オトミさん(88)は20歳だった長男・利通さんに言われた。夫と6人の子供と一緒に、パナマ運河を通り、病死者も出る過酷な43日間の長旅の末、農業移民として1961年4月、ブラジル・サントス港に降り立った。

 それから47年、サンパウロ市の北200キロにある160ヘクタールの広大なオレンジとマンゴー畑で、オトミさんの息子や孫が汗を流す。

 宮崎県日向市の開拓農家だったオトミさんが移住を決意したのは、農作物が毎年台風にやられたためだ。移住当時17歳だった三男の弘さん(63)は「4、5年で儲(もう)けて帰るつもりだった」と日に焼けた顔で話す。一家は74年に念願の農園を取得、トマトの生産が軌道に乗った。利通さんの交通事故死という悲劇もあったが、「自分の農園を持てた。来て良かったと今は思う」と弘さん。しかし一方で、「今度はブラジルの治安や給料の悪さで、子供らが日本へ出稼ぎに行く。家族がばらばらになってしまった」と嘆く。

 実際、弘さんの長女の夫は単身前橋市の工場で働き、めいも「故国を見たい」と来日。日系3世と結婚し、「ブラジルで店を開きたい」と将来の夢を持ちながら、群馬県伊勢崎市で共働きの日々だ。しかし、「まじめにやっていても、犯罪者のような冷たい視線を感じる時もある」とも。

 初の移民から100年。日系ブラジル人は6世まで150万人、世界最大の日系人社会をサンパウロ中心に作り上げている。日系1世の大原綾子さん(101)は「親の背中を追ってきただけ。つらかったとは感じません」と戦前の日本人気質を見せる。しかしその陰には異国の地での想像を絶する苦労があったはずだ。長男の大原毅さん(71)は、農業を手伝った後、弁護士の道を歩み、今は法曹界の重鎮だ。「ブラジル人の寛大さのおかげでここまで日系人が発展したのでしょう」と話す。

 文化や習慣の違いを乗り越え、懸け橋となった先人たちの思いが、100年の歴史を築き上げてきた。

 カメラとペン 秋山哲也(1月7日〜2月2日撮影)

ブラジルへの日本人移住の歴史
 1908年6月18日、第1回移民781人が笠戸丸でサントス港に着いた。戦争による中断を経て1953年に再開。1973年に最後の移民船がサントスに入港するまでの約65年間に、農業を中心に約25万人(戦前18万人、戦後7万人)が移住した。

2008年2月27日  読売新聞)


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