生成AIの進化をはじめとする社会の急速な変化を背景に、大学教育に求められるものも変わりつつある。そんな中で注目されている、大学・大学院修士課程を5年で卒業・修了できる「5年一貫教育プログラム」をめぐるシンポジウム「その1年が、未来を変える。~学部・大学院を5年で結ぶ一貫教育プログラム~」(主催:一橋大学、共催:慶應義塾大学、東京外国語大学)が、6月6日に一橋大学の一橋講堂(東京・千代田区)で行われた。オンラインでも配信され、中高生やその保護者、教育関係者を中心に多くの視聴者が参加した。その模様をレポートする。
学びを深め可能性を広げる教育環境を
◆開会挨拶 中野 聡(一橋大学 学長)
大学の学部と大学院修士課程を5年間で結び、より高度な専門性と深い思考力を身につける5年間の教育プログラムが広がろうとしています。大学4年間にプラスされる「1年」は、単なる学部の延長ではありません。学びを深め、自分の可能性と向き合い、将来の選択肢を広げる、皆さんの未来を変える1年です。
日本では、大学は4年で卒業するものという考え方が、いわゆる文系を中心に非常に強く共有されています。しかし世界に目を向ければ、学士課程の後に大学院で専門性を高めることは決して特別なことではなく、大学院教育はキャリア形成の重要な一部になっています。私たちは「大学は4年」という固定観念そのものを見直し、学部と大学院を一体として捉えた新しい高度な大学院教育を広げていきたいと考えています。
私たちが目指しているのは、大学自身が変わり、学生の皆さんがさらに学びたいと思える環境を作ること、その学びが社会の中で正当に評価される仕組みを、企業や行政、地域社会とともに築いていくことです。本日のシンポジウムが、5年一貫教育プログラムという取り組みを通じて、皆さんの未来、日本の未来を変えていくために、私たちに今何が求められているかを考える出発点として、豊かな議論を交わす場となることを大いに期待しています。
能力を徹底的に磨く場、制度改正が後押しに
◆来賓挨拶 石橋 晶(文部科学省 高等教育局 大学振興課 課長)
私たちは急速な少子高齢化の進行、気候変動、国際情勢の不安定化、生成AIの進化といった変化に直面しています。これからの社会で様々な課題に対処するためには、時間的・横断的な視野、AIをはじめとする最先端技術を適切に利活用する能力、多様性や異文化を尊重する姿勢などが求められています。
人文社会系の学部に進学した場合、4年で就職する方が多いのが現状ですが、一部の大企業ではすでに採用方針が「量より質」に変化しています。このシンポジウムに参加されている皆さまには、自分の能力を徹底的に磨く場としての大学院というものを感じていただけたらありがたいです。
文部科学省は2026年2月に、大臣の認定を受けた大学が、5年で修士を取得できる課程を編成できることとする制度改正を行いました。これまでも一部の成績優秀者が合計5年で修了するケースはありましたが、新制度では教育課程そのものに着目しており、認定を受ける課程には、5年という短い期間で修士レベルに到達するために、学士課程の段階から高密度の学びを実現することが求められます。今後この制度を利用してどういう新しい動きが出てくるか、われわれも楽しみにしています。
時間を与え、生涯学び続ける力を高める
◆基調講演 伊藤 公平(慶應義塾 塾長)
私のメッセージはシンプルで、「人生100年時代に何をそんなに焦っているのか」というものです。20~30歳はまだまだ徹底的に自分探しをする中で、どうやって社会に役立っていくかをひたすら考える年齢層です。
産業革命の時代とAIの時代という違いはありますが、いずれにおいても主要国から遅れをとっているという意味で、今の日本が置かれている状況は明治時代と似ています。当時の日本の政治家は若い時から世界に出て、日本をどうしていくかを考えていました。一方の私たちは、高校で受験勉強して入学した大学を4年間で終わらせ、その後半はどうやっていい会社に就職するかということに閉じている。こうしたことで、これからの若者は幸せになれるのでしょうか。日本は豊かになっていくのでしょうか。
私は2024年に文部科学省の諮問機関である中央教育審議会で、大学の学部と修士課程をセットにした5年制のディプロマコースを国レベルで系統的に導入することを提案しました。学生たちに時間を与えて、もっと考え、生涯学び続ける力を高めなければいけないというのが趣旨です。高校でしっかり受験勉強してきたはずの大学生の学習時間が低水準であることが調査で明らかになっています。学び続ける力がつくどころか、そぎ落としている状況です。
5年制のディプロマコースの導入という挑戦は、人文社会系学部の新しいカリキュラムのあり方を大学が考えるいい機会になると考えています。学生は就職活動に煩わされることなく学問に集中し、5年一貫の修士においても高度な修了要件が課されることによって、学び続ける力を身につけることができます。往々にして大学教育では、最初に基礎的な知識を身につける「筋トレ」的なものから始めて、なかなかその知識を活用する「試合」をさせてもらえませんが、3年くらいまでに基礎学力をつけながら本物の学問に触れ、学ぶおもしろさを感じられるようにすることが大きなポイントです。
好きなことを見つけて徹底的に深め、世界に出ていくことが大切です。みんなが考えている道をそのまま行くことは、全体としては後退だと考えています。
社会が急速に変化、「試合」を経験して自信につなげたい
◆パネルディスカッション第一部「なぜ今、5年一貫教育なのか」
中野 聡(一橋大学 学長)
伊藤 公平(慶應義塾 塾長)
春名 展生(東京外国語大学 学長)
司会:西野 和美(一橋大学 副学長)
西野 5年で育てていくべき学生の能力とはどのようなものでしょう。
伊藤 独立心や志は若い時に育てないといけないと感じます。自分はどういう人間になりたいのか、何が好きなのかということは好奇心に基づいています。好奇心を育てて志を高めるほど、自分はまだ小さい存在だと感じて、もっとがんばらないといけないと考えるようになる。そのことが、人が言うレールに乗るのではなくて、自分なりの考えで主体的に生きていくことにつながるのではないでしょうか。
春名 海外では修士号が必要な仕事がたくさんあります。東京外国語大学は海外に向かう学生が多く、修士号を取得した方が可能性が広がります。企業に入って現場を踏みながら研修して社員を育てていく体制が日本社会の主流ですが、今後維持していけるのかが問われています。教育機関の中で、社会が担っていた研修を取り込んでいくことも考えられます。
中野 人文社会系の大学院に進学する人はアカデミアに進むと考えられがちですが、一橋大学では大学院修士課程修了者のほとんどが社会に出ていきます。自らが得た知識や専門性を社会に実装していく、「社会実装力」を持った人材を育てていきたい。また、そうした流れを日本中で作っていきたいと思っています。
西野 理系の大学院は、大学の一段階上の専門能力を身につける場ととらえられていますが、文系の大学院では何を身につけられるのだろうと思っている方もいらっしゃいます。5年一貫教育ではどのようなカリキュラムを考えていますか。
伊藤 「筋トレ」をやっただけの段階で就職活動してもアピールできるものがありません。「試合」を経験してから就職活動にのぞむのが望ましい形です。そのために「試合」を経験する時間を作ることを重視しています。
春名 東京外国語大学では70%の学生が留学しますが、その結果、学生の60%以上が実は5年以上かけて卒業しています。3年秋から4年の初夏まで留学し、残り2年近くで、単位は取り終えて卒業論文と就職活動だけが残っているケースが多い。この2年を有効に使えないかと考えています。例えば他大学と連携して実践的な課題に向き合うことで、言語のスキルや地域の知、海外で得た見識など、身につけたものを総合する力などが養えると思っています。
中野 一橋大学には大きなMBAのコースがあります。そこでは社会の課題に取り組み、その解決プロセスを通じて知識やスキルを学ぶプロジェクトベースドラーニングなど、大学の一方通行の授業では得られないチームワークを必要とする授業を行っています。こうした学びの中で、マネジメント力が身につくと考えています。
伊藤 学ぶ力の定義が変わってきています。今年の大学入学共通テストの15科目のうち9科目でチャットGPTが満点をとりました。今後は人間が指揮台に立って生成AIを部下として使うというような形になるのではないかと思います。大学が作って与えるのではなく、学びの力とは何か、学生さんと一緒に模索していく時代になるのではないでしょうか。
西野 社会が大きく変化している中で、大学は学生にどのような力を与えられるかを考えなければいけないタイミングなのかもしれません。学生や中高生、その保護者の方々に向けて、大学院で学ぶ価値や意義についてお話いただけますか。
伊藤 大学院はもともと自分の好奇心を徹底的に深める場所です。私自身、海外大学の大学院で学ぶ中で、様々な仲間と出会い、枠を超えた様々な議論ができました。大学院にはそういう場も用意されています。
春名 時間を得て「試合」を経験する中で視野が広がることで将来の選択肢も広がります。大学院での学びは、自分に何が向いているのかを考え、自信をもって社会に出ていくことにつながると思います。
中野 学部では真理を探究するおもしろさのとば口にしか立っていません。本来の学問のおもしろさを感じられるのが5年一貫教育プログラムの魅力です。プログラムを通じて身につけたものを使って、社会を変えていく人材に育ってほしいと思います。
好奇心を深掘りする楽しさが、社会で役立つ力に
◆パネルディスカッション第二部「大学院進学で、未来はもっと広がる」
郷原 陸(一橋大学学部・修士5年一貫教育プログラム 2018年3月修了)
三浦 碧美(一橋大学学部・修士5年一貫教育プログラム 2026年3月修了)
宮阪 元子(洗足学園中学校・高等学校 校長)
鈴木 純平(三井不動産株式会社 人事部 人材開発グループ長)
司会:屋敷 二郎(一橋大学 副学長)
屋敷 郷原さんと三浦さんは、一橋大学の学部・修士5年一貫教育プログラムを修了しました。
郷原 MBAコースを修了後に日本総合研究所に就職しました。現在は経営コンサルタントとして上場企業の経営者の方々に対して、ポートフォリオ変革や組織変革などの提言を行っています。
三浦 この3月に大学院を修了し、4月から日本経済団体連合会で働き始めています。日本企業がグローバルを含めて事業展開する上での課題を特定して、環境整備を進めるための政策提言を行うことなどが事業内容です。
屋敷 学部と大学院の違いや、大学院で学ぶメリットとは何でしょう。
郷原 学部はインプットが中心、大学院ではインプットもしますがアウトプットが増えます。経営理論を学ぶ時、理解が深まるに従い「わかる」「説明できる」「実務で使える」「現実に即して自分で磨く」になります。学部では「わかる」までできれば上出来ですが、大学院では「実際のケースではどうなるか」「修士論文でつきつめて考える」を経験してさらに能力を伸ばします。今、大学院で学んだすべてを使って仕事をしていますが、仕事で必要な知識は5年間では学びきれません。実践しながら学んでいかないといけない。そのための「自分で能力を広げていく方法」を大学院で教えてもらったと感じています。
三浦 大学院は自分の関心分野を深掘りして研究する場所で、修士論文でも、学士論文より高いレベルが求められます。自分の研究が既存の知に対して何が新しいかを調べ、その分野で解明されていることと解明されていないことを把握したうえで研究テーマを決めて、問いを立てます。大変でしたが、勉強になりました。問いを立てて解決する力は、そのまま社会で役立つと感じています。
郷原 MBAコースに進もうと思ったのは経営学を学ぶことが楽しかったからです。「5年」は両親を説得する上で好材料でしたが、5年で修了できることより、5年間勉強できることに惹かれました。学びを深める楽しさは、学部の3年くらいでようやく気づくもの。そこからまた2年間学べることは魅力でした。
三浦 5年プログラムに進むことを決めたのは、大学3年で海外留学する中で出会った学生のほとんどが大学院進学を検討していることに触発されたからです。学部の卒業を1年遅らせることも考えましたが、同じ5年なら修士までがんばってみようと思いました。自分の専門性をつきつめるためには幅広い知識が必要です。私は基礎的な教養を学んだ後、文化が違う人たちと交流し、見識を深めたうえで専門性を磨きましたが、そういう道を選んでよかったと感じています。
屋敷 生徒を送り出す高校としては、人文社会系の大学院についてどのように感じていますか。
宮阪 理系とは異なり、文系の大学院の場合、進学後のライフプランの知見があまりないのが現状です。就職への不安や、洗足学園は女子校なので、結婚や出産といったライフイベントが後ろ倒しになることへの不安もあります。ただ、これは日本特有の心理的ハードルで、今後変えていかなければいけないと思います。
屋敷 学生を採用する企業の立場からはどうでしょう。
鈴木 私が入社した約30年前と比べると、当社でも大学院修了者を採用する割合は大きく増えています。思考力や実践力を高めないとビジネスの現場では通用しません。大学院で学びを深めた方は歓迎されます。学士か修士かという切り口よりも、企業にとって重要なのは優秀な人材を採用することです。実際に当社でも多くの大学院修了者が活躍しています。安心して大学院に進んでいただければと思います。
宮阪 答えのない問いに向き合っていく時代に、自分で問いを立てて考える力が必要になっています。その力を身につけるには自分の興味を深掘りすることが大事になってくる。大学院はそういう時間だと思います。5年という歳月を大事にすることが、社会で直面する問題を解決する力につながるのではないかと考えています。
鈴木 就職ランキングの高い会社をとりあえず受けるという方が多いと感じます。そんな中、修士の方は、自分の好きなことを掘り下げて学んでいるので、主体的にキャリアを築いていけるという特長があると思います。人生のプランも思い描ける方が多いのではないでしょうか。
屋敷 時間的な余裕がある中で関心を深める経験を通じて、社会課題を解決するための能力が培われていく、そういう密度の濃い時間としての5年間というものの可能性が見えてきたと思います。
5年一貫教育、社会的に意義あるものに
◆閉会挨拶 加藤 俊彦(一橋大学 理事・副学長/次期学長)
一橋大学では「学部・修士5年一貫教育プログラム」を、2000年に商学部で開設して以来、段階的に拡大し、これまでに400名を超える修了者が幅広い領域で活躍しています。文部科学省の「未来を先導する世界トップレベル大学院教育拠点創出事業(FLAGs)」に採択されたことを受け、このプログラムの強化を掲げています。その方向性は国内の有力大学とも共有されていることと理解していますが、社会的に意義のあるものとして結実していくには、大学側が努力するだけでなく、修了者を受け入れる企業の皆さま、受験生や学生の皆さま、そのご家族など、幅広い方々にその意義を実感していただくことが必要だと考えています。これからの人文社会科学領域の大学院教育がどのような能力を育み、どのような未来のキャリアにつながるのかといったことを考えていただき、大学院教育に関する理解を深めていただければ幸いです。