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碓井 みちこ(うすい・みちこ)早稲田大学坪内博士記念演劇博物館助手 略歴はこちらから

演劇博物館コレクションにみる、日本映像史の源流

碓井 みちこ/早稲田大学坪内博士記念演劇博物館助手

資料から辿る、日本映像文化の黎明期

 演劇博物館では、8月3日(日)まで、企画展「ニッポンの映像—写し絵・活動写真・弁士—」が開催されている。西洋から伝わった技術や装置を出発点としながら日本で独自の発展を見せた、写し絵・活動写真と呼ばれた時代の映画を取り上げたものだ。

活動写真ポスター『二人道成寺』

 写し絵とは、西洋の幻灯を参考にして作られた、江戸後期から明治・大正にわたり庶民に親しまれた和製の幻灯(げんとう)のこと。フロ(木製の幻灯機)とタネ板(スライド)、和紙のスクリーンが用いられ、語りや鳴物に合わせて、スクリーン上に投影された絵が動く。この写し絵は、寄席などで、芝居仕立てで演じられた。そして1897(明治30)年、今度は西洋から投影式の映画装置が輸入される。しかし日本では、写し絵のように話芸と鳴物で映画を楽しむため「弁士」という職業が生まれた。

企画展では、写し絵の道具、弁士が実際に使用した品々などを通して、初期の映像文化を辿っていく。展示の中心となるのは演劇博物館のコレクションだ。

戦火から守り抜いた最初期の資料

 じつは日本では、初期の映像・映画に関する資料は僅かしか残っていない。写し絵は、昭和に入りいったん上演が途絶え、そのあいだに上演の技法や道具の多くが散逸した。そして初期の映画、とりわけ日本映画史の最初期のものは、フィルムも関連資料もほとんど残っていない。フィルムが失われたのは、当時のフィルム素材が可燃性のニトロセルロースだったから、そして、興行終了後のフィルム保存が徹底していなかったからだ。さらには、のちに発生した関東大震災や第二次世界大戦などにより、フィルムだけでなく、製作・興行の場で使用された品々や当時の記録に至るまで、多くのものが失われてしまった。

 演劇博物館は第二次大戦前から映像・映画資料を蒐集しており、戦中には資料を疎開させ焼失から守った。東京国立近代美術館フィルムセンターなどの映画専門機関が設立されるまでは、映像・映画資料の主な収蔵先だった。当館が古くから活動していたので、国内で他にはない初期の映像・映画資料の一部が奇跡的に残されることになった。しかし残念ながら、可燃性フィルムについては、当時可燃性の保存方法が十分に理解されていなかったので、館内でフィルムが復元不能なほど傷んでしまうなど、その散逸を完全に防げなかった。とはいえ、これを除けば、写し絵については、計37演目のタネ板と、フロ、紙スクリーンなどの道具がまとまって保存されているし、また、初期の映画についても、最古の日本映画に関する資料など、重要なものが残されている。当館が、初期の映像・映画資料の保存に対して果たした役割は極めて大きいのだ。

『ニッポンの映像—写し絵・活動写真・弁士—展』

 企画展では、普段あまり目にすることのない珍しい資料の数々が紹介されている。まずは、写し絵フロ、「勧進帳」などのタネ板、和紙のスクリーンなどを是非ご覧いただきたい。基本的に庶民の芸能なので、タネ板はどれも素朴な絵柄で、板の作りも簡素なものだが、その一方で、小さなガラスには非常に緻密な彩色が施されていて、手間がかかっていて驚かされる。館蔵品以外では、写し絵と西洋式幻灯との中間的な形態のスライド(早稲田大学文学学術院草原真知子教授所蔵)、写し絵の上演台本(日本カメラ博物館所蔵)などもお勧めだ。会場内のテレビモニターでは、劇団みんわ座による写し絵公演の記録映像が上映されている。

写し絵フロとタネ板

 写し絵のあとは、いよいよ本企画展のメイン、弁士駒田好洋(こうよう)のコーナーとなる。今はその名に馴染みのない方々が多いと思うが、駒田好洋(1877—1935)は、西洋から映画装置が輸入された直後から活躍した弁士で、弁士の人気華やかなりしころは非常に有名な人物だった。駒田の資料は、彼の死後、「映画法実施記念 映画文化展覧会」(1939)「映画法実施記念 映画報国展覧会」(1940)に相次いで出品され、そのころ当館に寄贈された。当時、軍国主義政策を推し進めていた日本は、1939年に「映画法」を施行、展覧会はこの映画法への理解を促すためのものだった。これら展覧会には多数の映画遺産が集められたが、それらはその後戦時体制に入る中で少なからず散逸してしまった。一方、当館に無事残された駒田資料は、これまで何度も展示に供されてきたが、近年は出品の機会が減少していた。今回の公開は約12年ぶりだ。

弁士駒田好洋、その貴重なるコレクション

 展示室の中で、まず目を惹くのは、駒田がその興行で使用したポスター類だ。どのポスターにも非常に鮮やかな色が用いられ、駒田の名や写真、さらには彼を西欧風の偉人に喩えたイラスト入りのものまで、そのデザインは多岐に亘る。彼はこのような派手なポスターと「頗(すこぶ)る非常」という誇張を効かせた説明文句を引っ提げ、各地をくまなく巡業した。地方では駒田の巡業ではじめて映画に触れた人が多く、彼は、映画を日本の社会に根付かせるのに大きく貢献した。

ヴァイタスコープにより「日本写真」興行の辻ビラ

そして必見資料として是非お勧めしたいのは、最古の日本映画「芸者の手踊り」に関して駒田が残した品々だ。

 1897年にはじめて日本で一般公開された投影式映写機の一つがエディソン社の映写機「ヴァイタスコープ」で、駒田はヴァイタスコープ興行からそのキャリアを開始した。当初は輸入フィルムだけが上映されていた。だが、このヴァイタスコープ公開と同年には、写真商の小西商店(後に小西六写真工業、現コニカミノルタ)により撮影機が輸入される。小西本店店員の浅野四郎、そして嘱託の柴田常吉が、この撮影機を用いて、日本人で初めて、映画の撮影~現像~焼付の各工程に取り組み、成功したと伝えられる。駒田は、浅野、柴田らのこの成功を聞きつけ、日本映画の公開に着手する。客に受けるものをということでまず選ばれたのが、東京の花柳界の一流芸者たちによる踊りだった。これら一連の「芸者の手踊り」こそ、撮影から公開までのすべてが日本人の手によってはじめて行われたという意味で、最古の日本映画と考えられている。

 展示資料のうち、「ヴァイタスコープによる「日本写真」興行の辻ビラ」は、駒田が日本映画の公開に着手したまさにその年(1899年)に製作されたものだ。辻ビラの左端には駒田の口上が、そして中央には、踊る芸者たちの様々なイラストと彼女らの名前、それぞれの手踊りのタイトルなどが記載されている。「芸者の手踊り」のフィルムが現存しないため、この辻ビラが、現在では、最古の日本映画の内容を知るための手掛かりとなっている。さらに、これら日本映画にどのような輸入映画が合わせて上映されていたのか、そして個々のフィルムがどのように関連付けられていたのかといったことも、この辻ビラから窺い知ることが出来る。

和製映画の誕生——発見された幻のコマ

『勢獅子』コマ

『お兼さらし』コマ

 続いて、『お兼さらし』『勢獅子』フィルムコマ(上映プリントの断片)も合わせて紹介したい。1899年8月11日~25日、東京本郷にある春木座(後の本郷座)の興行では、「芸者の手踊り」のラインナップに、『お兼さらし』(『布晒し』)、『勢獅子』、『薩摩踊』の3タイトルのフィルムが新たに加えられたことが分かっている。当館には、その春木座ポスターにあわせ、『お兼さらし』『勢獅子』2タイトルのフィルムコマが残されている。「芸者の手踊り」フィルムコマは、戦前の「映画文化展覧会」「映画報国展覧会」では、駒田ではなく他の出品者のものが展示されていた。関東大震災や経年劣化により、「芸者の手踊り」は当時すでにコマの状態になっていて、このとき展示されたコマから取られたと思われる写真が、今も映画史文献では「最古の日本映画」として載っている。だが現在、コマの現物が国内にどれだけ残っているのかよく分からない。当館のコマは、戦前の展覧会の展示品とはコマの残存数などが違うためその由来に不明な点は多いが、最古の日本映画の画面を記録する数少ないフィルム素材なのはおそらく間違いないだろう。

 他にも、和製プロジェクティング・キネトスコープ(現存する最古の国産映写機)、活動写真ポスター『二人道成寺』など、駒田が残した貴重な資料の数々を紹介したいところだが、あとは実際にご覧いただくとしよう。

 西洋の発明品である幻灯や映画を、日本人は単に輸入したのではなく、それを基礎にして独自のものを作っていったのだ。企画展では、「コレ本邦映像事始ナリ」のキャッチフレーズのもと、その日本独自の工夫が具体的に分かる資料ばかりを集めた。是非企画展に足を運んでいただきたい。

演劇博物館「ニッポンの映像展—写し絵・活動写真・弁士—」
http://www.waseda.jp/enpaku/special/2008eizou.html

碓井 みちこ(うすい・みちこ)/早稲田大学坪内博士記念演劇博物館助手

1973年生まれ。専門:映像学。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。京都大学博士(文学)。共著に『入門・現代ハリウッド映画講義』(人文書院)、『ナイトメア叢書4 映画の恐怖』(青弓社)など。