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文化

『1943年晩秋 最後の早慶戦』刊行
—早稲田と慶応、初めての共同研究—

望月 雅士

 大学史資料センターと慶應義塾福沢研究センターの共編による『1943年晩秋 最後の早慶戦』(教育評論社)が、この程刊行された。本書は、1943年10月16日に開かれた、いわゆる「最後の早慶戦」を早慶両校それぞれの歴史的角度から検証したものである。

近藤清捕手(近藤幸義氏提供)

 本書の発端は、2005年度春季展で大学史資料センターが主催した「一九四三年晩秋 最後の早慶戦」展にある。戦後60年の節目にあたるこの年、アジア太平洋戦争の時代をテーマに企画展を開催することになり、その第一弾が「最後の早慶戦」展であった。1年半近くの時間をかけて関係者を訪ねて資料を収集し、ごく小さい展示ではあったが、その年の入学時期に合わせて催した。展示が始まると、連日新聞各紙に取り上げられ、大きな反響を呼んだ。展示終了後には、NHKが「その時歴史が動いた」で番組を制作することとなり、翌2006年10月に放映された。さらに今夏には、映画「ラストゲーム 最後の早慶戦」が公開となり、話題を呼んだことは記憶に新しい。またNHKやTBSなどでも関連の報道が相次いだ。本書は展示を観覧された一人の編集者の目にとまり、昨秋から出版の企画がすすみ、一年をかけて慶應義塾福沢研究センターと共同で研究した成果である。

「最後の早慶戦」と「海ゆかば」

 「最後の早慶戦」とは、1943年10月16日に、早稲田大学の戸塚球場(当時は戸塚道場。戦後、安部球場となり、現在は総合学術情報センター)で開催された早慶壮行野球試合のことである。早慶戦とは言っても、通常のそれとは性格が違う。学徒出陣を目前にし、「あれもこれも皆最後となって行く」(森武雄日記「学徒出陣」)中で開かれた壮行試合である。したがって本書ではこの早慶戦を、「野球部員だけではなく、学徒出陣を控え、集った両校の学生たちが主役の異例の早慶戦」と意義付けた。開催に至るまでの早大当局の対応がしばしば話題になるが、現在考えられるその経緯を本書第2章で検証したのでご一読いただきたい。 

本書をまとめるにあたり、早慶両校ともに新たに写真や資料を発掘し、また早稲田だけでも10人をこえる関係者に取材を行なった。試合に出場し、早稲田のトップバッターとなった主力選手、ベンチから試合の行方を見守った部員、混雑の中を入場整理にあたった下級生部員、カメラを手にした応援席の学生、そして彼に写された友人、スコアブックをつけながら試合を観戦した中学生……。「最後の早慶戦」から65年が経つが、それぞれの方が今なお、この試合に深い感慨をもたれていた。

「最後の早慶戦」当日撮影された早大メンバーと応援席(大学史資料センター)

 とくにどの方も鮮明に記憶している場面が、試合終了後、早慶両校が互いの校歌、応援歌を歌いあった後の「海ゆかば」の大合唱である。「どこからともなく歌はれる『海行かば』の厳粛な歌声、それがやがて球場を圧する大合唱と変った」とは、翌日付の『毎日新聞』の記事である。この光景は「最後の早慶戦」の象徴的な場面だが、映画「最後の早慶戦 ラストゲーム」に、このシーンはなかった。

 この場面を、戦争を知らない世代の者としてどのように描いたらよいか悩んだ。結果として補注で、ひとつの新聞紙面を紹介することにした。それは他でもない「最後の早慶戦」を報じた10月17日付の『朝日新聞』の3面である。この紙面には偶然ではあろうが、「海ゆかば」に関する記事が「最後の早慶戦」の他に二つ見ることができる。ひとつは「軍国の遺族」のための演芸会の最後に歌われた「海ゆかば」であり、もうひとつは、ニューギニア戦線のある戦場で、アメリカ軍に向かって突撃していく際に小隊長が歌いはじめた「海ゆかば」である。この二つの「海ゆかば」は、前者が「鎮魂」を、後者は「玉砕」を意味している。「海ゆかば」のもつこうした時代的な意味合いを踏まえることで、今日「最後の早慶戦」に迫ることができるのではないだろうか。

戦死、そして敗戦

 「最後の早慶戦」に選手として、また観戦者として集った早慶の学生たちは、その1年10ヵ月後の敗戦をどのように迎えたのだろうか。試合開始前に記念写真に収まった早慶の選手たちのうち、戦死した学生は早稲田の5人。近藤清、壷井重治、吉江一行、永谷利幸、桜内一である。このうち近藤については、2005年の企画展で1コーナーを設けたが、その後遺族のもとから新たな遺品が見つかり、本書に使わせていただいた。

早大野球部時代の近藤清(近藤幸義氏提供)

 近藤は、現在の夏の甲子園大会にあたる全国中等学校野球大会での優勝経験をもち、早稲田に入学してからも六大学リーグ戦で活躍した主力選手の一人だった。「最後の早慶戦」には3番レフトで出場し、2安打を放って勝利に貢献した。「最後の早慶戦」後の1943年12月、海軍に入隊した近藤は、沖縄戦最中の1945年4月28日、鹿児島の第二国分基地から特攻出撃した。早稲田の学費を出してくれていた姉に、「永い間、随分可愛がって戴いて本当に感謝して居ります。……では、元気で往きます」と書き遺して。

 控えの選手だった壷井の遺品も、鹿児島県南さつま市の万世特攻平和祈念館に所蔵されていることがわかった。今夏、祈念館を訪れて調べていく中で、いくつかの新たな事実が判明した(この調査にはNHK「おはよう日本」の取材班が同行し、「今語られる最後の早慶戦」として9月18日に放映された)。そのひとつに、壷井が9月末頃に両親へ送った手紙がある。そこには「最後の早慶戦」開催に関する記述があり、「一度自分の野球姿を見てもらいたかったが、遂に機会はなかった。何より残念です」とあった。

 壷井の遺族の方とも、連絡をとることができた。壷井は1945年5月4日、万世基地から特攻出撃するが、その直前、戦後義姉となる女性と会っていた。壷井は彼女に、両親をよろしく頼むと伝えていた。壷井は実家だけでなく、早大野球部の合宿所にも来ていた。その時、合宿所で面会した野球部員に壷井は、「帰って来ない」と告げたという。

 「最後の早慶戦」で戸塚に集った学生たちのその後を追うことではじめて、この試合のもつ歴史的意味が明らかになるように思われる。本書で取り上げた方々に限っても、彼らが敗戦を迎えた場所は、中国、南方、満州などアジア全域に広がり、内地にいる場合でも、特攻出撃が決定していたり、米軍上陸戦の準備などにあたっていた。1943年10月16日の戸塚を基点に、その1年10ヵ月後の8月15日を放射線状に結び合わせる時、「最後の早慶戦」は早慶両校間の一エピソードではなく、はたまた戦時下の一美談としてでもなく、アジア太平洋戦争の歴史過程に明確なポジションを占め、後世へ語り継がれていく歴史的意味をもつことになると私は考える。

 来る2009年3月25日より、大学史資料センターでは、春季企画展「最後の早慶戦—3番レフト近藤清24年の生涯—」(仮題)を開催する予定である。ぜひ、ご来場いただきたい。

望月 雅士(もちづき・まさし)

早稲田大学大学史資料センター研究員 早稲田大学教育学部非常勤講師。早稲田大学文学研究科博士後期課程退学。共編に『風見章日記・関係資料』(みすず書房)、『佐佐木高行日記』(北泉社)。共著に『枢密院の研究』(吉川弘文館)など。