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花のひと 六世中村歌右衛門

金子 健/早稲田大学演劇博物館助手

金子 健(かねこ・たけし) 早稲田大学演劇博物館助手 略歴はこちらから

一、演劇博物館との縁 −父五世と坪内逍遙−

 歌舞伎の女形、六世中村歌右衛門(1917~2001)は20世紀を代表する名優である。晩年におよび、早稲田大学演劇博物館は歌右衛門が愛蔵していた貴重な演劇資料の寄贈をうけ、現在春ごとに「六世中村歌右衛門展」と題した展示を開催している。これは命日である3月31日を中心に企画がたてられ、演劇博物館としても主要な行事となっているが、卒業式や入学式とも日程が重なり、また桜が満開となる陽春の季節ということもあって、華やかな雰囲気のなか多くの方に歌右衛門の偉業に触れて頂く機会となっている。

羽子板『沓手鳥孤城落月』淀の方(若き日の歌右衛門が父五世の舞台姿を描いたもの)

 中村歌右衛門家と演劇博物館とは、父である五世歌右衛門(1865~1940)の時代から長きにわたって、きわめてゆかりが深い。演劇博物館の創設者坪内逍遙は、明治中期にあって新たな日本演劇のあり方を模索し、舞踊劇のほか多くの歴史劇をも発表していた。そのなかで、五世歌右衛門の芸を得て成功したのが『桐一葉』(明治27~28年発表)、『沓手鳥孤城落月』(明治30年発表)である。両作ともに豊臣家の滅亡を題材としているが、ヒロインの淀の方(淀君)はこれまでの歌舞伎にはなかった性格の役であり、心理表現に長け、気品と貫禄を備えていた五世歌右衛門にぴたりとはまり、生涯最高の当り役となった。

 その提携から約四半世紀を経た昭和3年(1928)、演劇博物館が誕生した。開会式は健康上の理由から欠席したものの、式上の祝辞は五世歌右衛門によるものであった。歌右衛門も以前から演劇を学ぶ場として演劇図書館の創設を切望し、私財を投じて実現させるべく意欲を燃やしていたが、不幸にも関東大震災によって断念せざるを得なかった経緯がある。よって演劇博物館の落成は、歌右衛門にとっても賛同を惜しまぬものであった。自身も貴重な資料を寄贈し、晩年には病躯をおして来館している。このとき若き青年であった当時の六世中村福助こと、のちの六世歌右衛門も同行していた。

 戦後、父の名を継承した六世歌右衛門は、常に時代の先頭をきって活躍する名女形となったが、生涯を通じて演劇博物館との縁故を大事にされ、開館25周年、50周年と節目ごとに記念の絵を揮毫したほか、記念行事の講演も度々引き受けられた。また創立50周年記念では『桐一葉』(昭和53年12月)を、逍遙没後50年記念では『牧の方』(昭和60年10月)を国立劇場で上演している。父譲りの淀君は生涯にわたって度々演じ、逍遙と父五世歌右衛門の仕事を後世に伝えている。

二、歌右衛門の人と舞台

鈴木皎三画 歌右衛門の「娘道成寺」

 歌右衛門は名門の御曹司として生まれたが、歌舞伎界を代表する名優となったのは、ひとえに自身の実力と努力ゆえであった。父や兄(五世中村福助、昭和8年に早世)と同じく女形の道に進み、太平洋戦争や戦後の混乱期にあって価値観も揺れ動くなか、歌右衛門は新興の映画やテレビには目もくれず、歌舞伎ひとすじに生きた。日本の伝統が軽視されがちであった当時、男が女を演じる女形の必要性も疑問視され、特に女形を専門とする“真女形”であった歌右衛門の歩む道は困難をともなうものであった。しかし歌右衛門はその芸術性を信じ、実力と美貌とで女形芸の素晴らしさを体現し続けた。昭和35年の第一回アメリカ公演を皮切りに、海外公演にも計10回参加し、歌右衛門の舞台は世界的に評価されるようになった。もしも歌右衛門がいなかったならば、海外での歌舞伎、そして女形芸の評価は違ったものになっていたであろう。むろん国内での評価も高く、数々の栄誉を受けたなかでも芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)に史上最年少で認定されている。

 歌右衛門は常に全力投球の人であった。美しく、華奢で繊細な身体にもかかわらず、常人ならざる体力と意欲をもって邁進を続けた。古典の名作を練り上げるいっぽうで、廃絶した古典作品の復活や、三島由紀夫など気鋭の作家による新作にも情熱を燃やした。昭和29年37歳の折には、発表の場として研究公演「莟会」(つぼみかい)を立ち上げている。これは毎月25日間続く舞台の合間を縫っての自主公演であったが、歌右衛門は舞台づくりに妥協せず、徹夜を重ねて準備を進めた。歌右衛門はインタビューのなかで、その活力源について尋ねられたとき「やはり、舞台が好きなのでしょうね」と答えている。

 そして歌右衛門の舞台の素晴らしさは身体表現とともに、心情表現の深さにあった。役の心を観客の心に伝え、かつ気品高く、大きな芸であった。凄艶、という言葉が似つかわしく、三島由紀夫はその特徴を“冷たい情熱”と表現している。孤高の人であるが、しかしその舞台は決して取り澄ましたものではなかった。例えば客席からの「かけ声」は歌舞伎独特のものであるが、歌右衛門の気迫が客席に熱気を与え、声援のかけ声によって舞台が更に白熱していた。客席を席捲しての一体感と高揚感は、歌右衛門ならではの演劇空間ではなかったか。

 壮年期以後、歌右衛門は歌舞伎界のリーダーとしての重責を担うようになる。歌舞伎を「世界に誇る演劇」だという自負を忘れず、常に「歌舞伎の現在と将来に何が大切か」を考えて行動していた。古典歌舞伎の伝統を守る立場を貫きつつ、歌舞伎が現代に生き続けるべく、時代の変化に非常に敏感であった。そして頂点に立ったのちまで舞台への恐れや謙虚さを忘れず、常に真剣で精一杯の舞台を見せ続けた。「芸は終わりのないもの」であることを、身をもって伝えた人である。襲名時より「天が歌舞伎に与えた使わしめ」という評価があったが、まさにその通りであろう。

三、六世中村歌右衛門展−遺愛の品々と鬱金桜−

モナコ公国妃グレース・ケリーから贈られた切手帳(昭和56年4月)
英語とカタカナでサインがある。

 平成8年を最後に、歌右衛門は療養に専念のため舞台に立たなくなる。こののち亡くなるまでの5年間、公の場に姿を現すことはなかったが、平成10年の70周年を機に、演劇博物館1階「六世中村歌右衛門記念特別展示室」が完成した。父五世以来の縁故と、演劇の振興発展を思う歌右衛門の篤志により、演劇博物館の大規模なリニューアルも実現し、資料保全の環境が整った展示室がはじめて設置されたのである。ちなみにこの展示室は、リニューアル前の平成6年、第一回坪内逍遙大賞授賞のため来館した歌右衛門が休憩室として用いたゆかりの部屋であった。さらに歌右衛門は、これまで自身が愛蔵してきた数々の資料を惜しみなく演劇博物館に寄贈された。膨大な記録写真のほか、代表作『娘道成寺』特注の小道具や『籠釣瓶』八ツ橋の衣裳、舞台で実際に演奏した『阿古屋』の楽器、谷崎潤一郎や三島由紀夫の書簡、そしてアメリカ公演の際に伝説の名女優グレタ・ガルボから送られた「LOVE LOVE LOVE」電報など。その比類ない貢献に対し、早稲田大学は歌右衛門に芸術功労者の称号を贈っている。

 やがて平成13年3月31日、桜に雪が舞い、夜半には月が見えるという奇跡的な雪月花の日に、歌右衛門は旅立った。

演劇博物館 六世中村歌右衛門記念特別展示室

 翌年、自宅の庭に咲いていた一本の桜が早稲田キャンパス14号館前に移植される。四月半ばに白みがかった花が咲く珍しい品種「鬱金桜」で、歌右衛門はその淡い花色を愛していた。思えば歌右衛門の座右の銘は「花と夢をわすれぬこと」であり、その当り役は桜に彩られる舞台が多かった。自ら桜の精を演じた『関の扉』、不夜城吉原でヒロイン八ツ橋が微笑む『籠釣瓶』、そして桜花爛漫の『娘道成寺』。生前、歌右衛門は「まことの花」と題されたテレビ番組で「散りましてもね、花でありたいと思います」と述べたことがある(1986年テレビ東京“極める”)。亡くなった今、改めてこの言葉が思い出されてならない。

 今年も、演劇博物館では「六世中村歌右衛門展」を開催する。そして鬱金桜も花を咲かせることであろう。ぜひ早稲田に足を運び、この上ない愛情と信念をもって歌舞伎に生涯を捧げた歌右衛門に、思いを馳せて頂きたい。

演劇博物館企画展「六世中村歌右衛門展—新作と復活狂言—」

2009年3月25日~4月28日(入館無料)

演劇講座「六世中村歌右衛門を語る」

2009年4月24日(金)14:00~15:30(13:30開場予定)
講師:織田紘ニ(独立行政法人日本芸術文化振興会 国立劇場理事)
会場:早稲田大学小野記念講堂
定員:200名(定員に達した場合、ご入場いただけない場合がございます。あらかじめご了承下さい。)
入場無料・予約不要

早稲田大学坪内博士記念演劇博物館
http://www.waseda.jp/enpaku/index.html

金子 健(かねこ・たけし)/早稲田大学演劇博物館助手

1977年東京生まれ、早稲田大学大学院文学研究科芸術学(演劇映像)専攻修了。専門は歌舞伎。