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鈴木 直子/早稲田大学演劇博物館助手 略歴はこちらから

上海演劇の精華

鈴木 直子/早稲田大学演劇博物館助手

都市上海と演劇

 かつて「魔都」とも称された都市上海。そのイメージは、外灘(バンド)と呼ばれる黄浦江沿いの近代的な建築や人々で賑わう南京路に代表されるのではないだろうか。上海イメージを形成する建築物や租界などはみな近代になってから作り出されたものである。アヘン戦争後の1842年、南京条約によって開港した上海は、近代化を余儀なくされモダンな都市を形成した。上海のモダンさは近代化によってもたらされたのであり、現在でも街にはその面影を残す。

 今回の上海市文化芸術档案館の来日展示「上海演劇の精華」展で謳われているのは、文化と都市との共存共栄であり、上海という都市で生み出された文化芸術の中でも、特に演劇に焦点を当てている。

 東西文化の交差点として発展した上海の都市文化は「海派(かいは)」文化とも呼ばれ、北京の「京派(けいは)」文化と対比して語られる。「海派」文化を表現するのに使用される「海納百川」という言葉があるが、「海」は「百の川」を納める(Ocean never resists a little stream)というこの言葉は、つまり「海」である上海があらゆる物を吸収して成立してきたことを表している。

 上海文化が以上のような多様性を持つため、「上海演劇」というと特定の演劇を指すものではなく、「滬劇 Hu ju」「淮劇 Huai ju」「越劇 Yue ju」「話劇 Hua ju」といった地方劇や伝統劇、現代劇までを網羅するのも、「海」である上海が「百川」としてのあらゆる劇種を含んでいるためだ。

上海と梅蘭芳(Mei Lanfang,1894.10.22-1961.8.8)

 上海演劇が様々な劇種を取り込んだ多様性のため、「北京」を代表する演劇である「京劇」も上海の中で溶け込んでいった。京劇が上海での上演を開始したのが1867年であり、その後「海派」京劇として発展を続け、上海京劇を代表する周信芳(Zhou Xinfang, 1895−1975)等が活躍した。周信芳は芸名を麒麟童(Qi lin tong)といい、その芸風は麒派(qi pai)と呼ばれ現在でも受け継がれている。

梅蘭芳と周信芳(演劇博物館蔵)

 一方京劇の拠点北京で活躍したのが梅蘭芳である。京劇俳優梅蘭芳が初めて上海を訪れたのは1913年19歳の時であった。この年11月4日から丹桂第一台(Dan gui di yi tai)で上演を開始し、最初は一ヶ月の公演契約であったが、上海の観客に大変な人気であったため、さらに半月公演を延長したのだった。当地の新聞『申報』(Shen bao)に大々的に広告宣伝を行い、45日間の初の上海公演を成功させた。梅蘭芳の演技がこれほど観客に評判となったのは、本人が後に自伝で語るところでは、演技の技術ではなく感情を巧みに表現した点であった。「感情部分では、小さなころから少しはよく理解していた。どの芝居であれ、私は劇中人物の性格や身分を追及して謳い上げるのが好きで、できるだけそれを表現できるよう務めた。この(感情)方面へのこだわりが私の個性であるのだ。」(『舞台生活四十年』※1より)

 当時の北京の京劇では「唱 chang」(歌唱)に重点が置かれ、観客も「聴戯 ting xi」(耳で歌唱を聴く)のが常であったが、梅蘭芳はそこに感情、情感の豊かさを取り込み、「看戯 kan xi」(目で芝居を見る)を楽しむ上海の観客たちの心を掴んだ。

梅蘭芳周信芳舞台生活五十年紀念(演劇博物館蔵)

 その後梅蘭芳が公演で上海を訪れたのは3回(1914年11月30日~1915年1月15日、1916年10月~12月、1920年5月)である。このうち1920年5月には、舞台以外で初めての映画の撮影も行った。明代の昆曲『牡丹亭』(Mu dan ting)(湯顕祖作)の一節『春香鬧学』(Chun xiang nao xue)を無声映画として撮影したのだ。撮影は当時上海の北宝山路にあった商務印書館に付設された写真部で行われた。上海は演劇だけではなく、映画産業も発展した地であった。梅蘭芳はその後1924年の秋にも映画撮影を行っている。この時は上海の映画会社明星影片公司(Ming xing ying pian gong si)が華北電影公司(Hua bei dian ying gong si)に委託して撮影を行った。『西施』(Xi shi)『覇王別姫』(Ba wang bie ji)『上元夫人』(Shang yuan fu ren)『木蘭従軍』(Mu lan cong jun)『戴玉葬花』(Dai yu zang hua)といった演目の、舞や劇中の一部を無声モノクロ映画として撮影したのだった。残念なことにこの2作は1932年の上海事変の折、商務印書館印刷所が日本の爆撃を受け映画収蔵庫も破壊された際に消失したという。

 梅蘭芳が北京から上海へ移住した時期は、日中戦争時期であった。1932年から1938年まで上海で災禍を逃れ、1938年から1942年までさらに香港に逃れるが、1942年再び上海へ戻り、戦争後中華人民共和国成立を迎え1951年に北京へと戻った。1951年7月に一家で居を構えたのが護国寺街(Hu guo si jie)1号であり、現在は梅蘭芳記念館として保存されている。

※1)『舞台生活四十年』(梅蘭芳述、許姫伝、許源来記、『梅蘭芳全集』第一巻収録 p.132 河北教育出版社)

近代劇誕生の地

 梅蘭芳が上海を訪れた際に、北京とは違う上海の劇場の新しさに感心している。上海の劇場に初登場した時、舞台に出た途端、眼前の明るさに驚いた。北京から呼んだ新しい役者を観客に印象付けるため、劇場主が舞台の前面に電灯を並べ、梅蘭芳が登場した瞬間にそれを点灯したからだ。当時はまだ珍しかった電灯を上海の舞台では使用していた。劇場の絨毯や半円形の新式の舞台にも新鮮さを覚えた。

梅蘭芳舞台写真『一縷麻 Yi lü ma』(演劇博物館蔵)

 当時の新式の劇場として夏月潤、月珊(Xia Yue run, Xia Yue shan)兄弟の経営する新舞台(Xin wu tai)や謀得利劇場(Mo de li ju chang)が挙げられる。ちょうど1910年代というのは、伝統劇以外に、時事的な事柄を上演する新劇が勃興した時期であった。新舞台では『茶花女(Cha hua nü)』(椿姫)や『黒奴吁天録(Hei nu yu tian lu)』(アンクルトムの小屋)のように外国の翻案劇を上演した。謀得利劇場は、楽器店(一説にはレコード会社)に付設されたホールであった。この劇場を拠点に活動したのが、春柳社(Chun liu she)である。春柳社は1907年に東京で成立した芸術団体で、中国人留学生をメンバーとしていた。中国の話劇は、この春柳社を嚆矢とするのが定説であり、2007年には春柳社誕生から百年を数え、数々のイベントが行われた。春柳社の中心人物であった欧陽予倩(Ou yang Yu qian)等が帰国後に上記の謀得利劇場で新劇(当時は文明戯 Wen ming xiと呼んだ)を上演したのだった。

 その後文明戯は衰退するが、話劇は上海に根付き、1924年の上海戯劇協社による『若奥様の扇』(オスカー・ワイルド『ウィンダミア夫人の扇』の翻案、洪深作・演出)の成功を中国の話劇の指標としている。

「海派」文化の特性

梅蘭芳寄贈の京劇衣装(演劇博物館蔵)

 上海では伝統劇や地方劇、話劇といったさまざまな劇種が並存したが、今回の展示でも伝統戯曲(「京劇」「昆劇 kun ju」「越劇」「滬劇」「淮劇」)、芸能(「評弾 Ping tan」「滑稽戯 Hua ji xi」)、現代劇(「話劇」)、人形劇(「木偶戯 Mu ou xi」)、影絵芝居(「皮影戯 Pi ying xi」)といった中国演劇の様々な劇種が一堂に会する。これだけ多くの劇種を集めた中国演劇に関する展示は日本でも初めてではないだろうか。「海納百川」という通りの盛り沢山の展示内容である。

 上海演劇というのは、これだけ多くの劇種を内包しながら現在まで発展を続けているのであり、その多様性こそが上海演劇の特徴ともいえる。「海派」文化の特徴を『戯出海上——海派戯劇的前世今生』(胡暁軍、蘇毅謹著 2007年 文匯出版社)では以下の5点で表している。

一.開放性
二.(新しいものを作り出す)創造性
三.放棄性
四.多元性
五.商業性 ※2

 一.開放性は保守的ではなく、先進的であること、三.放棄性というのは、あらゆるものの中から取捨選択をすることを指す。最も「海派」的といえるのは、五.の商業性であろう。上海が国内国外の市場に敏感であり、娯楽もまた商業性を重視し、競争を繰り返しながら発展してきた。

 今回の展示により、今日までの上海演劇の精華を知り、「海派」文化の多様性を体験して頂ければ幸いである。

※2)『戯出海上——海派戯劇的前世今生』(胡暁軍、蘇毅謹著 2007年 文匯出版社)総序(p.6)。

演劇博物館企画展 日中文化交流「上海演劇の精華」展

(上海市文化芸術档案館 早稲田大学坪内博士記念演劇博物館共催)

会場:早稲田大学坪内博士記念演劇博物館 六世中村歌右衛門記念特別展示室、企画展示室 I、企画展示室 II
会期:2009年6月1日(月)~6月30日(火)

早稲田大学坪内博士記念演劇博物館
http://www.waseda.jp/enpaku/index.html

鈴木 直子(すずき・なおこ)/早稲田大学演劇博物館助手

1974年生まれ。お茶の水女子大学大学院人間文化研究科博士後期課程単位取得退学。専門は中国近現代文学、演劇。