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三宮 千佳/早稲田大学會津八一記念博物館助手

明珍コレクションについて
—日本中世の武士たちの「もののあはれ」—

三宮 千佳/早稲田大学會津八一記念博物館助手

 會津八一記念博物館では、平成19年(2007)3月に、甲冑師明珍宗恭氏から日本の甲冑資料計132件(甲冑資料四42件、復元に関する資料23件、甲冑研究図書など67件)の寄贈を受け、それらを「明珍コレクション」と命名し、調査研究を進めてきました。それらは日本甲冑研究の発展の一助となる、貴重な作品群であります。そこで、甲冑師明珍宗恭氏の業績を紹介する初披露の展覧会を、平成21年度(2009年度)の企画展として開催し、寄贈資料のほか、機関および個人が所蔵する明珍宗恭氏復元大鎧3領(平安時代様式赤糸威大鎧(あかいとおどしおおよろい)、白糸威鎧(しろいとおどしよろい)、小桜威大鎧(こざくらおどしおおよろい)を特別展示いたします。本稿では、明珍宗恭氏の経歴と展示するコレクションについて紹介したいと思います。

明珍宗恭氏について

 明珍宗恭(みょうちんむねゆき)氏は、室町時代末期から続く甲冑師の宗家明珍家の当主です。明珍氏は、大正6年(1917)に甲冑師・明珍宗美氏の次男として東京牛込に生まれました。10歳のころより、その類まれなる手の器用さから、父宗美氏のもとで鎧の小札の掃除を手伝い、以来七十余年、甲冑師の道をひたすらに歩んできました。

 明珍宗恭氏が、甲冑師として技術を磨き、経験を積むきっかけになったのは、やはり山上八郎博士との出会いです。

 山上氏は日本甲冑研究の碩学であり、末永雅雄氏とともに、この分野の草分け的存在の人物です。幼少時より、わが国中世の甲冑に興味を持ち、18才より本格的に甲冑研究に明け暮れ、早稲田大学政治経済学部を卒業後、昭和3年に若干27歳にして『日本甲冑の新研究』上下(歴史図書社)という大著をまとめ、昭和4年の春には最年少で帝国学士院賞を授賞した早熟の俊英でした。

 明珍氏は、山上八郎氏とともに全国の神社仏閣を訪れ、その宝物の甲冑を調査研究しました。そして七十余年の制作活動の中で、国宝重要文化財指定を含む甲冑の復元を10領、そして修理に関しては1000領以上携わることになります。

 初仕事は、昭和7年(1932)15歳の頃、父の宗美氏と共に手がけた御嶽神社赤糸威大鎧の復元でした。また昭和12年(1937)からは、先代宗美氏の名代で名古屋市の徳川美術館所蔵の徳川家甲冑の修理に携わり、1~2年の間、名古屋に滞在しました。さらに昭和13年には、満州重工業総裁の鮎川義介氏より、満州国皇帝(愛新覚羅溥儀)のための献上大鎧の制作の依頼を受け、父宗美氏と共に、1年5ヶ月を掛けて制作に打ち込みました。昭和14年に献上しましたが、残念ながらその鎧は現在行方不明のようです。

 ちょうどこのころ、堀英吉氏という人物の依頼で、広島県の厳島神社の小桜韋黄返威大鎧(小桜威大鎧)の三分の一の復元作品を制作しました。戦後には、堀英吉氏より再び、平安時代の大鎧を制作したいという依頼を受け、昭和25年ごろより堀氏と明珍氏は、武蔵御嶽神社(東京都青梅市)、島根県の甘南備寺(重文・黄櫨匂威大鎧、平安時代後期)、栃木県の唐沢山神社(重文・大鎧残欠、平安時代後期)、福島県の都都古別神社(重文・赤糸威大鎧残欠)など、各地の神社仏閣の平安時代の大鎧を調査研究するために、2~3年の間旅をしたといいます。その調査研究の成果として完成したのが平安時代様式赤糸威大鎧でありました。この大鎧は、他の復元大鎧と異なり、特定の平安時代の大鎧の復元ではなく、あくまで数少ない平安時代の大鎧の様式を参考にして創作した作品です。明珍氏は、あらゆる甲冑の中でも、平安時代の大鎧が最も好きだといいます。それは、時代や源平の兵の「もののあはれ」が感じられるからなのだといいます。

 そして明珍氏は、昭和29年には、故黒澤明監督の映画『七人の侍』『蜘蛛の巣城』の甲冑指導と制作にもあたりました。明珍氏によると、「黒澤さんの家は立派で、廊下に船徳利がどーっと飾ってあったよ。酒が強くて、肉が大好き。泊まっていけと言われて、風呂に入ったら背中を流してくれた。翌朝、帰るといったら、今、電話で車を呼ぶから待ってろと言われた。電話が終わると車が来た。運転席を見るとそこにいたのは、なんと世界のミフネだった」と当時を振り返り、黒澤監督から篤い信頼を受けていたことがうかがえます。

 明珍氏の最後の大仕事は、平成8年(1996)69歳の出雲日御碕神社の国宝白糸威大鎧の復元でした。3年の歳月を費やした大作は現在出雲市立出雲文化伝承館に収蔵されています。この小桜威大鎧、平安時代様式赤糸威大鎧、白糸威大鎧の復元作品は、この度の展覧会にて特別展示いたします。

 このように明珍宗恭氏の人生は、甲冑の修理復元という使命とともに展開してきました。その甲冑は、戦争による混乱など幾多の危機を経てもなお、自分の道を信じてたゆまなく歩んできた一人の名工の闘いの記録なのです。

コレクション紹介

 この度の展覧会では、主要な寄贈資料はすべて公開いたします。まず、(1)明珍氏の制作の過程で蒐集された甲冑部位資料、すなわち威毛(おどしげ)、小札(こざね)、金物、絵韋(えがわ)などの甲冑の主要構成要素の残欠資料、また草摺(くさずり)、袖、脇立、前立、肩当、杏葉(ぎょうよう)、家地(いえぢ)、佩楯(はいだて)、旗を展示します。さらに、(2)甲冑の修理復元に関する資料として、習作、押形(拓本)、型紙、型染摺型、(3)甲冑以外のコレクションとして酒井抱一の扇面菊図、杉本健吉書簡、神楽面などを展示いたします。以下はその展示資料の一部です。

図1 威毛 平安時代~室町時代

図2 小札 平安時代~室町時代

 日本の中世以降の鎧は、札(さね)、威毛、金具廻、革所、緒所、板所、家地、鎖、金物、化粧板・水引の十要素からできており、そのうち最も重要なのが、札、威毛、金具廻(かなぐまわり)です。この小札を連結する緒を威毛(図1)といい、組糸(絹糸・麻糸・木綿糸)、韋緒(かわお)(鹿韋)、布帛(綾・絹・練貫・麻布)のものがあります。この威毛の色目や文様、色の配置や紋柄によって名称が付与されています。たとえば「白糸威(しろいとおどし)大鎧」であれば、白い絹糸の組糸を使用して小札を連結し構成した大鎧ということになります。文献上に表れる威毛の種類は、八十種以上にものぼります。

図3 白糸威鎧星兜鉢 明珍宗恭復元  直径 26.0 × 高 14.4cm 平成八年

 小札(図2)は、甲冑の最も基本的な構成要素であり、その素材は牛革や鉄を用います。小札の小穴は威毛を通すための穴です。小札の表面は、錆を防ぎ、補強するために、黒漆を厚塗りします。形状や材質、穴の数や配置は甲冑の様式の変遷にしたがって変化していきます。寸法は、平安時代後期では札足(高さ)6・7~8・0センチ、札幅3・0~4・7センチであり、時代と共に小さくなっていきます。その総数は、平安時代後期の大鎧で約1500枚、鎌倉時代後期で約2000枚、室町後期の胴丸で約3500枚ほどです。

 出雲市立出雲文化伝承館所蔵の白糸威鎧(明珍宗恭復元)の兜(図3)を制作する際の習作です。しころ部分はなく、鉄製の兜鉢のみです。平安時代中期から室町時代初期まで、このような星兜鉢が多数制作されました。この鉄製の鉢は、数枚から数十枚の鉄板をはぎ合わせています。この兜鉢は「三十六間四方白(さんじゅうろっけんしほうじろ)」といい、表面を黒漆塗した三十六枚の鉄板を繋いで鉢を形成し、四方白すなわちその前後左右の矧ぎ板に鍍金が施されたものです。また星兜とは、鉄板の留め金具である鋲の頭のことで、装飾的な役割も果たしています。この兜では鉄板一行に十六点打っています。この留め金具は、時代が下ると鉄板の数とともに増加します。眉庇の絵韋には、中央の宝珠に向かう二匹の龍が表されています。

 明珍氏の蒐集資料また復元作品は、わが国の中世武士の「もののあわれ」を、現代によみがえらせるようです。明珍コレクションを通して、多くの方々にその足跡をご覧いただければ幸いです。

参考文献

石田謙司『江戸明珍家の研究 謎の甲冑師明珍宗保を捜して』(ルーツの会、1986年)、石田謙司『黒澤明が愛した最後の職人 甲冑師・明珍宗恭と語る』(小学館スクウェア、2007年)