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上田 洋子(うえだ・ようこ)/早稲田大学演劇博物館助手 略歴はこちらから

演劇を展示する
—メイエルホリドの演劇と生涯展

上田 洋子/早稲田大学演劇博物館助手

メイエルホリド展へのプレリュード

 メイエルホリド展がオープンした。

 かき集められた写真の山、演博の収蔵庫に眠っていた1920年代のモノたち、そしてあたかもそれらを投影しているのは俺だと言わんばかりの、新メイエルホリド劇場の再現模型。プロコフィエフのオペラ『三つのオレンジへの恋』 —神経の琴線を直接奏でているかのような表現主義の音楽が展示室に鳴り響いたとき、インスタレーションが機能しはじめた。《三つのオレンジへの恋》とは、メイエルホリドが革命前のペトログラード(現在のサンクトペテルブルグ)で刊行していた雑誌の名であり、この雑誌の創刊号に掲載されたメイエルホリド、V. ソロヴィヨフ、K. ヴォガクによるカルロ・ゴッツィの戯曲『三つのオレンジへの恋』の改作脚本でもある。1918年、ロシアから日本を経由してアメリカへ渡ろうとしていたプロコフィエフに、メイエルホリドはこの脚本の載ったこの雑誌のこの号を贈り、これを用いてオペラを作曲するよう促した。オペラは翌年に完成。1921年にシカゴで初演された。

新メイエルホリド劇場の再現模型と展覧会会場

 音楽を劇のアクティヴな要素として周到に用いるのは、メイエルホリドの演出の特徴である。メイエルホリドはプロコフィエフのオペラ『賭博者』(1916)を高く評価し、何度もその上演を試みた。上演はさまざまな障害に阻まれて実現しなかったが、たとえば『ブブス先生』(1925)の初演パンフレットには、劇の積極的要素となる音楽の代表的な例としてプロコフィエフの『賭博者』が挙げられており、メイエルホリドがその方法を演劇に導入していることがわかる。欧米を活動拠点とするプロコフィエフとロシア/ソヴィエトのメイエルホリドはしばしば書簡を取り交わし、メイエルホリドが欧州に出た折には旧交を温めていた。プロコフィエフがソヴィエトに戻った1936年、メイエルホリドはプーシキンの『ボリス・ゴドゥノフ』の上演を試み、ふたたびこの作曲家に音楽を依頼している。『ボリス・ゴドゥノフ』もやはり実現することはなかったが、プロコフィエフの音楽は残った。プロコフィエフの劇音楽『ボリス・ゴドゥノフ』は、長年にわたるメイエルホリドとのコラボレーションの関係を証明するものとなった。現在展示室に響いているオペラ『三つのオレンジへの恋』はこのコラボレーションの最初の重要な成果である。この原稿を書き終え、少し落ち着いたら、『ボリス・ゴドゥノフ』、そしてショスタコーヴィチの『南京虫』など、メイエルホリドのために作曲された作品をまとめて、もう少し多彩な音楽構成を試みるつもりである。

ヴィジュアルで蘇る、演劇の前線(アヴァンギャルド)

『南京虫』1929年 初演招待状

 演博にはわが目を疑うほど貴重な資料が山ほどあった。同時代のポスター、プログラム、サイン入りの写真やパンフレット、雑誌などなど。歴史の重みに黄いろくなりながら情報を守り続けているそれぞれの資料を手に取るにつけ、溜息と胸のドキドキ、興奮と高揚感を抑えることができない。ロシア語の表記は、西ヨーロッパ言語におけるようなラテン文字ではない。 《ж》《д》《я》といった、義務教育で英語を勉強してきた者にとってはちんぷんかんぷんなキリル文字を判読できる人間が演博に常にいるわけはなく、多くの資料が未整理のまま残されていた。実は、はじめはアルバイトとして、のちに助手として私が演博で働くきっかけになったのも、これら未整理のロシア語資料の山だった。ほこりの下で発見者を待っていたこれらの資料との幸福な出会いが、今回のメイエルホリド展へとつながったのだ。

 もっとも、館蔵品だけでは大きな展示室をいっぱいにするための量も、メイエルホリドの多彩な活動を明らかにするための種類も不足しているという現実を悟るのに時間はかからなかった。さらに、写真に関しては演博が所有しているのは20枚足らずと、意外に少ない。いつの頃からか、ロシアから複製資料の使用権を借りて、写真を中心に各作品をヴィジュアルに再現してみようというコンセプトが浮かんできた。3度の出張で集めた資料は約170点。さらに、東京大学の浦雅春先生が、野崎韶夫先生旧蔵の約150枚の写真コレクションをお貸し下さった。これらの写真を仕分けして、眺めて・眺めて・眺めて、プログラムや研究書、オリジナルの戯曲などと突き合わせ、作品、場面、俳優を判別してゆく。舞台写真から作品を判別するのにさほど苦労はないが、場面や俳優はわからなくなっているものも少なくない。研究書には「芝居『○○(たとえば、堂々たるコキュ)』の一場面」といった掲載方法を用いているものもある。メイエルホリド劇場のメイクは凝ったものが多く、俳優の容姿は七変化する。演博ではかなり網羅的に所蔵しているメイエルホリド関連の研究書を助手室いっぱいに散らかして行う判別の作業は、歯がゆくも楽しいものだ。だが、展示が近づいて、余裕がなくなってくると、書物を相手に一喜一憂する感情の起伏がより激しくなってゆく。もちろん、自宅でも同じ作業が続く。

『検察官』舞台写真(1926年12月9日初演)エピソード7《太鼓腹の瓶を囲んで》

 なお、モスクワ芸術座時代から1930年代までの写真を見渡してみると、写真技術がいかに急速に改良されていったかがよくわかる。革命前にはまだ舞台写真がきちんと撮れるだけの技術はなかったようだ。舞台写真のような形態を取っているものは、動きの中で撮影されたのではなく、俳優たちがひとつの場面のひとつの瞬間の構図とポーズで静止した状態で撮影されたものである。それが1926年にはもう、クローズアップの写真(『検察官』)や逆光の写真(『吼えろ中国』)が撮影できるようになっている。革命後の多くの写真を撮影したのはメイエルホリド劇場の俳優アレクセイ・テメーリンだ。メイエルホリド劇場では稽古の様子などを壁新聞にして告知していた。このように、劇団内部での情報の記録と発信のシステムが整備されていたこと、アーカイヴ化された資料を教え子のエイゼンシテインが守り抜いたことは、現代のわれわれにとって大きな意味を持っている。

日本におけるメイエルホリドの未来

 今回の展示には、偶然がたくさん重なった。まず、2009年の2月10日、メイエルホリドの誕生日にたまたまモスクワ出張中で、記念の会に参加することができ、そこで多くの方々と出会ったこと。そして、そこで出会ったフランスのメイエルホリド研究の大家ベアトリス・ピコン=ヴァラン氏が、偶然にも2009年春から夏に演博GCOEの上級研究員として着任され、招へいのイニシエーターである藤井慎太郎准教授のご協力のもと、メイエルホリドに関する一連の講義を開催することができたこと。また、2009年度の後期から演博に演劇映像学連携研究拠点という(舌をかみそうな名前の)新しい研究センターが立ち上がり、その公募研究を機会としてメイエルホリド研究会が立ち上がったこと。今回の展示で披露されている、実現しなかったメイエルホリド劇場の再現模型は、この研究会で集められた知識と知恵をもとに製作されたものである。また、メイエルホリドが考案した俳優身体訓練《ビオメハニカ》の継承者アレクセイ・レヴィンスキー氏をお迎えして、日本で初めての《本物の》ビオメハニカのワークショップを開催することができたのも、この公募研究のおかげである。

アレクセイ・レヴィンスキー氏 《ビオメハニカ》ワークショップ

 メイエルホリドが生きたのは1874年から1940年。1859年生まれの演博の創設者坪内逍遥と、だいたいひとまわり年下の同時代人にあたる。メイエルホリドの活動は実は演博設立(1928年)と時期を同じくしており、モダンで古めかしい建物と今回の展示は思った以上にマッチしている。身体訓練ビオメハニカは、師匠が見せる身体の型をひとつずつ模倣してゆく、日本の伝統演劇のような形態で伝達されており、こちらも日本人の身体にマッチするようだ。しかもレヴィンスキー氏のアシスタントはなんと日本人である。東洋と西洋の演劇の融合を試みたメイエルホリド、その日本でのリヴァイヴァルが今、着々と進んでいる。

メイエルホリドの演劇と生涯 —没後70年・復権55年
会場:
早稲田大学坪内博士記念演劇博物館 企画展示室 I
日程:
2010年3月1日(月)~4月28日(水)

早稲田大学坪内博士記念演劇博物館

上田 洋子(うえだ・ようこ)/早稲田大学演劇博物館助手(西洋演劇)

早稲田大学文学博士(「シギズムンド・クルジジャノフスキイ研究」2009年)。
専門は20世紀ロシア演劇、文学。