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高木 理久夫(たかぎ・りくお)/早稲田大学図書館資料管理課 略歴はこちらから

自由闊達!−清国末期の外交家銭恂とWASEDA

高木 理久夫/早稲田大学図書館資料管理課

はじめに

  「早稲田大学は自由闊達、アメリカの学校と相通じるものがある」

外交家銭恂

 冒頭の言葉は、清国末期の外交家である銭恂 (Qian Xun せんじゅん。1853ー1927)が、明治36年(1903)に残したものである。銭恂は、中国浙江省湖州府帰安県(現在の湖州市)に生まれ、38歳の時、外交使節の随員としてヨーロッパに赴任、およそ3年間の海外経験をかわれ、清末政界きっての実力者、張之洞 (1837ー1909) の幕下に招かれ、のちに出使荷国(オランダ)大臣、出使義国(イタリア)大臣を歴任した人物である。

早稲田初の清国留学生

銭恂(右)

 明治32年(1899)初めには、銭恂は、湖北から日本へ派遣される留学生の監督官として、日本の地を踏んだ。同年6月12日、大隈重信じきじきの案内により、東京専門学校(当時)及び早稲田中学校を参観した。天野為之、坪内逍遥の授業、柔道、剣道及び中学の授業、兵式操練等を見てまわり、その後、大隈邸で饗応にあずかったという。同年9月19日には、銭恂が帯同してきた留学生のうち3名が東京専門学校に入学し、これが本校が受け入れた清国留学生の初めとされる。

東西奔走

張之洞

 銭恂が日本を活動の場とした期間は、1907年、出使荷国大臣に任命されるまで、およそ7年に及ぶ。その間、単なる学生監督官としてだけではなく、張之洞の名代として、銭恂は、昼夜を分かたず中国から送られてくる電信による指令に基づき、湖北への武器調達や新たな学校設立に向けて奔走する。すなわち、軍靴製造のため、日本人技術者を招聘しようと西村勝三(1836ー1907。日本で初めて皮革製靴業を起こした人物)と交渉した際、「少し俸給を負けてくれないか」と言い出したばっかりに、西村を、「こちらの好意も知らずに、いろいろケチをつけてくるとは失敬至極!」と激怒させ、いったんは話をはねつけられたが、間をとりもつ人がいて、何とか交渉は成立した。また、当時、大本営陸軍参謀であった宇都宮太郎大尉 (1861ー1922)のもとを訪問し、日本から湖北(この場合、湖北=張之洞)への武器供与の申し入れをしたのであるが、話ついでに、「今回の義和団の騒乱により皇帝が北京を離れ、無政府状態になれば、張之洞等南部の総督たちは連合して南京に政府をつくるだろう」と、聞き様によっては、清朝に対するクーデター計画があるかのようなことを、初対面の人に対してペラペラしゃべってしまうなど、何かとお騒がせな話題が、当時の記録として残されている。

毀誉褒貶

清国留学生(明治36年当時)*
*大学史資料センター提供

 もともと銭恂は、自らの思うところを、歯に衣着せず言う人物で、まわりから顰蹙をかうことが多々、あったようである。北京にいた当時、「中国は分裂し、長江一帯は日本のものになる、日本の家来になることはいいことだ」と吹聴し、それを聞いた官吏たちを「今度会ったらぶんなぐってやる!」と憤慨させたりした。また、魯迅には、異母弟である銭玄同(古文学者。1887ー1939)ともども、「銭玄同は、わたしの見るところでは、彼の兄、銭恂と同じ性質で、空談をこのんで実事をやらず、きわめてうまく立ち回れる人間です」と書簡に書き付けられたりしている。きわめつけは、光緒26年(1900)に起きた反清クーデター未遂事件(自立軍事件)に連座した元日本留学生に、処刑間際、「銭恂監督のせいで身を誤った」と言われ、ボスである張之洞には、留学生のコントロールが全くできていない、「銭恂は力不足だ」と嘆かれる始末である。それでも銭恂が必要とされたのは、交渉における押しの強さ、欧州の数ヶ国語に通じているといった、外交家として優れた資質を備えていたことによるのだろう。一方、魯迅と並び称される文豪・茅盾は、中学生の時、外交官を退いた後の銭恂から教えを受けている(わずか1ヶ月ほどではあるが)。作文の授業において、銭恂に「将来、文章で身を立てる人物になるだろう」と賞賛されたことを、自伝に記している。おそらく茅盾は、自分の未来を予見してくれた初めての人物として、銭恂のことを永く記憶に留めていたのだろう。

図書館の礎

銭恂自筆の寄贈図書目録(巻頭)

 銭恂が日本を活動の場としている間、我が学園にとって大きな出来事は、明治35年 (1902)、東京専門学校から早稲田大学への改称、すなわち新たに大学部と専門部が設立されたことである。大学開校にあたり、それにふさわしい学術研究のインフラ整備の目玉として、図書館の拡充が緊急の課題となった。すでに明治33年(1900)10月には、学園は、早稲田学報誌上(第46号)において「篤学の士この広告一覧を乞う!!!」と、感嘆符を3つもつけて(!)、図書の寄贈を大々的に呼びかけていた。それに応えるかたちで、銭恂は、自らの蔵書およそ3千8百冊を、光緒27年(1901)と翌年の2回に分けて、東京専門学校に寄贈した。もともと、自らが日本行きの世話をした留学生たちのために、勉学の一助として、自分の蔵書を日本に送ることを計画していたようである。すなわち、寄贈図書中、ある書物の表紙裏には、光緒25年(1899)2月、鼎芬なる人物の署名で、「銭監督官は、日本に遊学する学生たちの出立にあたり、この書を贈る。この日に固く約束をかわした。いつの日かこの書き付けを見て監督官のご厚意を知ってほしい」という記述がある。いくつかある学校の中で、我が学園を選んだ理由は、銭恂自身が、かなりの大隈びいきだったことも、そのひとつだったと思われる。すなわち、中国の親しい友人への書簡の中で、「日本は伊藤博文の政権となり、山縣有朋よりは中国にとっていいことになるだろう、ただ残念なのは大隈が政権にあずかることができないことである」と、述べているほどである。到着後、すぐに図書館の蔵書として収められた書籍は、たいへん良質な史料を数多く含み、現在、9万冊をこえるまでになった当館漢籍コレクションの礎となっている。その威容は、当時、上海から日本の学校を視察にきた中国人を、「銭恂が寄贈した書籍は、4つの書架いっぱいにある」と、驚かせているほどである。

銭恂研究

 以上、清末外交家銭恂と我が学園との関わりを追って見た。これまで銭恂に関する本格的な研究は、国内外を問わず、管見ではあるが見当たらず、人名辞典の類いにおいては、記事の出典を確認することに、たいへんな労力を要した。そこで、図書館資料管理課として、銭恂に関する研究の一助として、2010年4月、4年の歳月をかけて、『銭恂資料集年譜、著述・寄贈図書目録』を作成した。この資料集は、3部構成になっている。第1部は、「年譜」であり、銭恂が記したり、また銭恂に関して同時代人が記した文章で、現在公刊されている図書に収録されている記事を、年代順にならべ整理した。第2部は、「著述図書目録」であり、銭恂が著した書籍について、日本国内において閲覧できるものについて、現物調査をおこない、その調査結果をまとめた。第3部は、前述の寄贈図書について、銭恂が自筆で記した寄贈目録の影印とその翻刻で、解説および寄贈図書の現況報告を加えたものである。本文は、A4用紙で222頁に及ぶものであり、巻頭に図版4頁と巻末に人名索引24頁を附した。このたいへん興味深い人物について、中国近代史、外交史、日中関係史等、多方面からの研究における基礎資料として、当館作成の資料集が活用されることを願ってやまない。

家族

 なお、銭恂は夫人と子供たち、娘夫婦を連れて来日した。夫人の単士厘(1858ー1945) は後妻で、そのいくつかの著作や夫と共にした行動により、近代的な識見をそなえた女性のさきがけとして、中国においては今なお評価の高い人物であり、多くの研究が発表されている。長男の銭稲孫(1887ー1966)と次男の銭穟孫(1890ー1936)は、ともに慶應義塾普通部(小学校)に入学した。銭稲孫は、その後、父の赴任に従い、ローマ大学を卒業し、中華民国成立後、各大学講師を歴任し、北京大学本部秘書長にまで任じられた。現在では、『源氏物語』の中国語訳を中国で初めて手がけたことで知られているが、その原稿は、未刊のまま、文化大革命の渦中で失われてしまったという。次女の夫である董鴻禕(1878ー1916) は、明治37年 (1904)、早稲田大学邦語政治科を卒業し、民国政府では教育部の要職を歴任した。さらに、異母弟の銭玄同 (1887ー1939) は、明治39年 (1906)、来日、早稲田大学に入学し、当時、日本に亡命していた思想家、章太炎(1869ー1936) に師事し、その後、文学、文字学、音韻学の大家となった。

おしまいに

 冒頭で、我が校の気風に対する銭恂の言葉を掲げたが、ちなみに、東京帝国大学に対しては、「緻密で冷静(「細密沈摯」)」だと述べている。現代にまでつながる大学イメージを、すでに百年以上前の外国人が感じていたとは、たいへん興味深いことである。えっ、今では逆? そんなことないでしょう!!!

高木 理久夫(たかぎ・りくお)/早稲田大学図書館資料管理課

静岡県磐田郡水窪町(みさくぼちょう。現浜松市)出身。昭和61年、早稲田大学職員(司書職)として奉職。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学(東洋史)。現職場では主に中国、ハングル資料の収集・整理を担当。寺山修司、ボブ・ディラン、イビチャ・オシムの大ファン。趣味は、トレッキング、スキー。