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上田 学(うえだ・まなぶ)早稲田大学坪内博士記念演劇博物館助手 略歴はこちらから

京都が生み出した時代劇映画

上田 学/早稲田大学坪内博士記念演劇博物館助手

 時代劇映画は、日本映画の歴史のなかで、その多くが京都の撮影所において製作されてきた。京都が時代劇映画の中心地となったことには、いくつかの要因が考えられる。まずは、三方を山に囲まれ、鴨川や桂川が流れる豊かな自然や、1200年以上にわたる都市の歴史で築かれた、寺社仏閣をはじめとする名所旧跡など、多彩なロケーション撮影の素材に恵まれていた点である。また、日本で初めて映画を輸入した稲畑勝太郎や、彼に草創期の映画興行を託され、のちに日活関西の中心人物として、日活社長も務めた横田永之助、さらに横田に見出され、尾上松之助や阪東妻三郎、月形龍之介、市川右太衛門、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵らスターを発掘し、日本映画を支える多くの脚本家や監督を育て、自らも膨大な本数の時代劇映画を製作した、「日本映画の父」牧野省三など、京都出身の人材に恵まれた点も挙げられる。さらに、染色や工芸などで伝統的に培われてきた技術が、ポストプロダクションの東洋現像所(現・IMAGICA)や、小道具の高津商会を生み出す背景にあったとの指摘もある。こうしたさまざまな条件のもとで、時代劇映画の製作は、東京遷都後に衰退しつつあった京都を支える、新興産業の一つに成長していくのである。

初期映画の中の歌舞伎役者

『紅葉狩』ポスター

 ここで、時代劇映画を生み出した、京都という都市の土壌について、演劇との関わりという観点から、あらためて考えてみたい。その糸口に取り上げるのは、日本に映画が輸入されてから二年後に撮影された、最初期の映画、『紅葉狩』(柴田常吉撮影、1899年)である。この映画で、九代目市川団十郎と五代目尾上菊五郎は、それぞれ更科姫(鬼女)と平維茂を演じている。『紅葉狩』が最初に公開されたのは1903(明治36)年、大阪の大劇場である中座で、翌年には、東京の歌舞伎座でも公開されている。ここで注目したいのは、団菊という明治を代表する東京の歌舞伎役者が、映画に出演している点である。当時、記録としての性格が強かった映画に、大芝居の役者が出演することは特殊ではなく、たとえば映画が輸入された1897(明治30)年に、あわせてフランスのリュミエール社から派遣された、コンスタン・ジレル撮影のシネマトグラフにも、初代市川左団次や初代中村鴈治郎らが出演している。

 ところがその後、明治40年代(1907‐12年)の東京で、それまで劇場で上映されていた映画が、新たに出現した映画館で上映されるようになると、観客を奪われた劇場組合は、映画への俳優の出演を禁止するようになる。映画界と引き離された東京の歌舞伎役者が、時代劇映画に主演し、スターとして活躍した例は、戦前には澤村四郎五郎など数少なく、戦後の中村錦之助(のちの萬屋錦之介)や大川橋蔵らを待たなければならなかった。

時代劇映画誕生の地、京都

 その一方で、同時期の京都では、最初の時代劇映画とされる『本能寺合戦』(1908年)が製作されている。監督を務めたのは、西陣で劇場の千本座を経営する牧野省三、出演したのは小芝居の役者、中村福之助や嵐璃徳であった。翌年、牧野は『碁盤忠信』に、旅芝居の役者であった尾上松之助を出演させ、彼は日本映画最初のスターとして活躍する。この時期の京都には、小芝居や旅芝居といった広義の「歌舞伎」と、映画製作とを結ぶ緩やかなつながりが存在し、それが時代劇映画を誕生させた背景のひとつになった。これは東京で、映画館が集まった浅草公園六区と、木挽町の歌舞伎座や久松町の明治座などの大劇場が、地理的に隔たっていたのに対し、京都では、新京極や西陣の劇場街が、同時に映画館街として重なり合っていたことを反映していたと考えられる。

尾上松之助主演映画コマ

 ところで先に、牧野に見出された時代劇映画のスターとして挙げた、阪妻、右太衛門、嵐寛、千恵蔵は、いずれも関西歌舞伎の出身であった。同じ経歴を歩んだ林長二郎(のちの長谷川一夫)も含め、大正後期から昭和初期の京都で、時代劇映画のスターとなる彼らが、もとは関西歌舞伎で修練を積んでいたことは興味深い。勿論、梨園の名門出身でない彼らが、新たな活躍の場を求めて映画界に移ったことは、歌舞伎界との決別を意味した。また、そこには後進の芸能である映画俳優を蔑む差別も存在した。しかし、彼らを受け入れ、その活躍を生み出したのが京都であったことは、そもそも時代劇映画が製作されはじめた明治40年代、「歌舞伎」と映画をつなげる土壌があったことと、深く結びついていたと考えられる。

新国劇と「チャンバラ映画」

 このような土壌はまた、京都における演劇と映画との新たな交流を生じさせている。その一例として、坪内逍遥の文芸協会演劇研究所で学び、新国劇の創始者でもある、早大出身の澤田正二郎が挙げられる。当初、新国劇の旗揚げの地である東京で受け入れられなかった彼は、関西で最初の成功を収めることになる。とりわけ京都では、1919(大正8)年に新京極の明治座で、「月形半平太」を初演し、その斬新な立ち回りが大きな評判を呼ぶこととなった。新国劇の剣戟は、ダグラス・フェアバンクスに代表される、ハリウッドの活劇映画にみられたフェンシングとともに、時代劇映画に多大な影響を与え、いわゆる「チャンバラ映画」を生み出すこととなる。身体の躍動を前面に押し出した「チャンバラ映画」は、「旧劇」と呼ばれた、歌舞伎の様式美に倣った従来の時代劇映画の立ち回りを、大きく変えるものであった。

『月形半平太』台本

 澤正自身、直木三十五が設立し、菊池寛や根岸寛一らが参加した、連合映画芸術家協会の『月形半平太』(衣笠貞之助監督、1925年)など、京都で製作された時代劇映画にも主演している。関西が育てた新国劇は、「月形半平太」や、同じく行友李風原作の「国定忠治」のような、物語の源泉という点でも、また大河内傳次郎や大友柳太朗のような、スターの人材輩出という点でも、京都の時代劇映画を支える大きな源流のひとつとなっていくのである。

演博コレクションでたどる時代劇映画史

「旗本退屈男」衣装

 演劇博物館は、逍遥にゆかりのある澤田正二郎の関連資料に加え、「旗本退屈男」で知られる市川右太衛門や、その美貌で女性観客を惹きつけた長谷川一夫といったスター、あるいは『番場忠太郎 瞼の母』(1931年)で股旅ものを成功させ、『宮本武蔵』(1954年)でアカデミー外国語映画賞にも輝いた稲垣浩や、『心中天網島』(1969年)で新たな様式美に挑んだ篠田正浩といった監督をはじめ、時代劇映画の歴史に大きな足跡を残してきた、偉大な映画人の旧蔵品を所蔵している。2010年11月27日から2011年2月5日まで、演劇博物館で開催される「時代劇映画史展」では、これらの貴重なコレクションの紹介を通じて、京都で100年以上にわたって製作されてきた、時代劇映画の歴史を振り返りたい。

時代劇映画史展 −演博コレクションから−

会期:2010年11月27日日(土)~2011年2月5日(土)
会場:演劇博物館特別展示室
http://www.waseda.jp/enpaku/special/index.html

上田 学(うえだ・まなぶ)/早稲田大学坪内博士記念演劇博物館助手

1979年生まれ。専門:映像学。立命館大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。共著に『日本映画史叢書10 映画と戦争』(奥村賢編、森話社、2009年)など。