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島 善高(しま・よしたか)早稲田大学社会科学総合学術院教授 略歴はこちらから

佐賀、近代日本の偉人、大隈重信
『佐賀偉人伝 大隈重信』の刊行にあたって
(2011年1月刊行予定)

島 善高/早稲田大学社会科学総合学術院教授

 幕末明治期の激動する日本にあって、数多くの佐賀人が活躍したことは、あまり知られていない。江戸時代の佐賀藩は、幕府より福岡藩と1年交代で長崎港の警備を命じられ、その負担は代々の藩財政を圧迫していた。その一方で佐賀藩は、長崎から海外の最新の情報を入手することができた。

 幕末、多くの藩では、尊王攘夷運動、倒幕運動などによって、多数の若人の命が犠牲となり、疲弊していった。そのような中で佐賀藩主鍋島直正は、役人の三分の一を整理する大規模なリストラを行い、行財政改革を断行する。農民を保護育成する一方で、磁器生産や茶・石炭などの産業を育成し、交易を行い、佐賀藩の近代化を先導した。佐賀藩は、こうして潤った財政を次世代の技術革新に振り向け、精錬方という科学技術の研究機関を創設、鉄鋼、加工技術、大砲、蒸気機関、電信などの研究開発を行い、西洋技術の摂取につとめた。佐賀藩はいち早く西洋医学も研究し、牛痘ワクチンを輸入して天然痘の撲滅に貢献した、また、反射炉を作り、蒸気機関車や蒸気船、アームストロング砲などの武器も製造した。

 佐賀藩は、日本における産業革命を積極的に推進し、最も近代化された雄藩となった。それらを支えたのは、日本の未来を信じ、あたらしい時代を切り開くために奮闘した佐賀の人々であった。幕末明治の激動期に、新しい近代国家建設のために活躍し、偉業をなし遂げた佐賀出身の人物をシリーズで紹介するのが『佐賀偉人伝』である。第1巻の『鍋島直正』につづき、第2巻目として、『大隈重信』を2011年1月に佐賀県立佐賀城本丸歴史館より刊行する。

 筆者には「重信」を名に持つ叔父がいる、その名が大隈重信にあやかったものであることを絶えず聞かされていた関係で、筆者は物心ついた頃から大隈に関心を持ち続けて来た。そして大隈が創立した早稲田大学に学び、現在では、その早稲田大学に職を得ている。筆者の研究室は大隈銅像の近くにあるから、毎日のように大隈銅像を眺め、また学生に対して大隈の事蹟について講義をすることも度々ある。ゆえに筆者にとって、大隈は格別な存在であって、「大隈」と呼び捨てにするのは忍びない。学生に話をするときは、いつも「大隈さん」と呼ぶのが習いとなっている。

「一国の独立に尤も必要なものは国語である。文字である。
これに続いてすなわち学問である。」
(大隈重信 早稲田大学開校式における演説の一節)

 大隈重信(1838~1922年)は総理大臣(二度)、外務大臣(五度)、大蔵卿、農商務大臣、内務大臣、枢密顧問官の要職を歴任したほか、立憲改進党・憲政本党の党首や早稲田大学総長を務めたり、各種団体の会長も歴任したりと、実に多彩な活動をした。ゆえに郷里佐賀では最も名の知られた人物であって、大隈の生家跡には大礼服姿の大隈銅像が建てられ、郷土の偉人として親しまれている。

 否、佐賀ばかりではない。国会議事堂正面玄関のホールには、伊藤博文や板垣退助と並んで、威風堂々たる大隈銅像があり、議会政治創出者の一人として仰がれ続けている。また、早稲田大学構内には、口をへの字に結んだガウン姿の銅像が建っており、教育者大隈の名は、早稲田大学の学生教職員のみならず、広く全国民に知れわたっている。

 大隈は、外交家としてその名が海外にも知られていたので、外国人がひっきりなしに大隈邸を訪問した。その伝統は大隈没後も続き、世界各国の元首級の人物が大隈講堂を訪れ、一場の演説をすることを誇りとするようになっている。大隈は、まさしく近代日本が生んだ偉人である。

「此複雑なる社会の大洋に於て 航海の羅針盤は何であるか、
学問だ、諸君は其必要なる学問を修めたのである、
併乍ら中々まだ初歩なのである、
是から先き凡て此社会に現はれて航海をする航海者は
羅針盤とバロメートルを決して離し得ないものだ、
其のバロメートルは何である、学問是なり、
凡ての仕事をなすと同時に手に巻を持つて居らなければならぬ、
本を持つて居らなければならぬ、之を止めたならば誰でも直ちに失敗をして
再び社会の勢力を得ることの出来ないやうに、葬むられて仕舞ふのである、
(『早稲田学報』第5巻 1897(明治30)年7月発行)

 大隈重信八十五年の生涯には、成功ばかりではなく、幾多の失敗もあった。

「古来政治家の歴史には、決して成功ばかりあるものではない。
失敗もある。成功失敗交々起るのである。
或は失敗の方が多いかもしれんのである。
或いは一生失敗で終ることがあるかも知れぬ。」

 大隈は明治二十二年、五十二歳の時、条約改正問題で轟々たる批判を浴び、爆弾を投ぜられて右脚を失った。大隈には絶えず介添人が付いていたとは言うものの、歩行は相当に困難であったろう。

 だが大隈は、そのような苦難があっても、決して挫けることはなかった。

「自己が国家に対して、時に必要に応じて、
かくならねばならぬと信じたことについては、
如何に失敗しても少しも悔いぬ。自己に十分なる満足を持っている。
立派な道徳的信念を有っているから、それが機に触れて現われる。
吾輩の生命も、この信念である。」

 大隈は、前向きの人生観を持ち続けた。大隈は(一)怒るな、(二)愚痴をこぼすな、(三)過去を顧みるな、(四)望みを将来に置け、(五)人のために善をなせ、の五つを「長生法五箇条」として説き且つ実践して、百二十五歳まで生きるつもりであった。

 佐賀鍋島藩には山本常朝が語り残した『葉隠』という書物があり、長い間、写本でしか伝わっていなかった。明治時代になって出版されたものがあるが、不完全であった。そこで、大正五年(1916)、大隈が慫慂し、自ら序文を書いてより完全な形で出版された。その『葉隠』の冒頭には、(一)武士道に於ておくれ取り申すまじき事、(一)主君の御用に立つべき事、(一)親に孝行仕るべき事、(一)大慈悲を起し人の為になるべき事、の四誓願が掲げられ、毎日これを唱えるべきことが書かれている。しかも『葉隠』では特に四番目を重視し、「慈悲より出る勇気が本の物なり」とも言っている。

 大正六年(1917)五月、大隈は祖先の墳墓改築のために郷里佐賀に帰り、菩堤寺の龍泰禅寺で講演をしたが、その中で次のように語っている。

「慈悲は家族制度の根本である許りでなく、又実に勇気の源である。
吾々が三百年来養われ来った葉隠の根本精神にも亦、此慈悲を重んずる事があり、
所謂四誓願が葉隠の根本を為している。
吾輩微力短才にして今日の地位に在るは実に龍造寺鍋島の遺沢、
殊に名君閑叟公撫育の賜である。

 大隈のモットーである「人のために善をなせ」の淵源が、『葉隠』の「大慈悲を起し人の為になるべき事」にあることは、もはや疑いがないであろう。これが大隈の絶対的確信、根本的信念となっていたのである。

 大隈にこの慈悲心があったればこそ、幾多の人物が大隈のもとに集ったのであり、大隈没後の現在もなお、我々をして親しみを覚えしめるのであろう。

(島善高著 佐賀偉人伝『大隈重信』はじめに・おわりに より抜粋)

「…人生は川の流れに等しい。少年のさまは流れの源の如く、
老人のさまは下流のようである。水が初めて源から出発すると、
障害にあえば十丈の瀧になり、けわしい処では奔流となり、留まれば淵となり、
急に放すと瀬となり、或いは大きな岩を裂き、或いは大木を越えて、跳るが如く、
走るが如く、怒るが如く、笑うが如く、争うが如く、戦うが如く、忽ち分かれ、
忽ち結合し、…
…これは少年が初めて志を立て、世の中に突込んで行く有様に似ていないだろうか。…ただ彼らの決心と勇気とは、世間の心の強い人をたじろがすには充分なものがある。
(『大隈伯昔日譚』早稲田大学出版部)

『佐賀偉人伝02 大隈重信』

はじめ
第1章 大隈重信略伝
第2章 政治は吾輩の生命
第3章 学問の独立
第4章 東西文明の調和
おわりに
大隈重信関連略年譜
大隈重信参考文献
大隈重信関連史跡

島 善高(しま・よしたか)/早稲田大学社会科学総合学術院教授

佐賀県出身。1976年早稲田大学法学部卒業。現在、早稲田大学社会科学総合学術院教授。専門は、日本近代史、比較法制史、皇室史など。主な著書に『近代皇室制度の形成』成文堂1994年や『早稲田大学小史』早稲田大学出版部2003年、『律令制から立憲制へ』成文堂2009年 などがある。