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「戦地に逝ったワセダのヒーロー—松井栄造の24年—」展ポスター

「戦地に逝ったワセダのヒーロー—松井栄造の24年—」展によせて

望月 雅士/大学史資料センター

 日中戦争の勃発から、今年で75年。解決の糸口の見えない泥沼状態となったその戦争は、4年後にはアメリカを敵とする破滅の戦争へと突き進んでいく。

 まさにその戦争の時代、若者たちにとってひとりのヒーローがいた。選抜2回、夏1回の甲子園優勝を果たし、ワセダのユニフォームで神宮を沸かせた松井栄造である。持てる才能を活かして可能性に挑戦し、多くの人びとに歓喜を与えつづけたその個性は、けれども1発の銃声によって突如失われることになる。

生い立ち~岐阜商業時代

 松井栄造は1918年11月10日、浜松市田町に生まれた。野球が盛んな浜松で、松井少年はベーブ・ルースに憧れて練習に励むうちに、瞬く間に天性の才能をあらわした。1931年夏、早稲田の戸塚球場で開催された全国少年野球大会A組に投手として出場すると、強豪校を倒して優勝。元城小は松井の好投で全国大会連覇を果たした。

 日本全国が野球で熱狂していた時代、中学野球界での松井の活躍を見越したスカウト合戦がはじまった。金銭の話が飛び交う中で、岐阜市立岐阜商業野球部後援会長の遠藤健三が出したスカウトの条件は異例だった。——金銭は一切出さないが、栄造少年を一人前の人間として育て上げ、大学卒業まで責任を持つ——。最愛の息子の将来を考えた父半次郎は、遠藤に栄造を託すことを決めた。満州で砲煙がのぼりはじめる頃のことだった。

 遠藤健三の下で育てられることになった松井少年は浜松を離れ、岐阜市金華高等小学校へ転校し、翌1932年岐阜市立岐阜商業学校に入学、同時に野球部へ入部した。子供に恵まれなかった遠藤夫妻は松井をわが子のようにかわいがりながらも、健三は父半次郎との約束を果たすため、少年を厳しくしつけた。それを陰でやさしく労わったのが妻の道子だった。

1936年度全国中等学校野球大会優勝 深紅の大優勝旗を持つ松井栄造 於岐阜市 清水昇氏所蔵

 松井2年の春、村瀬保夫主将率いる岐阜商業は全国選抜中等学校野球大会に出場し優勝した。弱冠14歳ながらも、松井は勝利投手に輝いた。この決勝戦で、松井の左腕から繰り出されるインドロは三尺落ちたとの評判が広まり、以後「三尺」が松井のあだ名になった。

 1935年春、全国選抜野球大会で岐阜商業は2度目の全国制覇を成し遂げた。投打に活躍した松井は優勝後のインタビューで、チームの勝因を「一致結束」にあると語った。チーム力で勝つ、これが岐阜商野球の真髄だった。

よろこびの言葉かくればうつむきて
  涙ぐみをり少年松井は
   (遠藤道子 1933年作)

 1936年度、岐阜商業は強豪校のひしめく東海大会を勝ち抜き、夏の甲子園大会初出場を果たした。投打に卓越した岐阜商は甲子園大会を一回戦から圧倒的な強さで勝ち進み、決勝は過去2度の準優勝を誇る平安中学戦。岐阜商は松井のピッチングで平安中の打棒を1点に抑えて圧勝し、全国制覇の栄冠に輝いた。

 1試合13塁打(1936年夏盛岡商戦)の記録を打ち立て、松井は甲子園を後にした。次なる目標は実力、人気ともに日本最高峰の東京六大学リーグ戦。早稲田への入学が決定した松井は、慶應へ進学する長良治雄と早慶戦の舞台で熱戦を繰り広げることになる。

炎天下の球を追ふ子のユニフオームに
  お守袋しかと縫ひつく
    (遠藤道子 1936年作)

早稲田大学時代

 1937年4月、松井は早稲田大学第二早稲田高等学院に入学した。甲子園優勝投手の野球部入部は、野球ファンの関心を神宮へと惹きつけた。松井の六大学リーグ戦のデビューは、中国との戦争がはじまり、連日の新聞紙面に「進撃」や「占領」の文字が躍る中で開催された秋季リーグ戦、早稲田の初戦立教大学戦となった。白熱したゲーム展開の中、同点で迎えた9回裏、松井は若原正蔵からマウンドを引き継ぎ、延長11回立教の打線を無得点に抑え、初陣を勝利で飾った。

 39年4月、松井は早稲田大学商学部に進学した。バッティングのセンスの良さを買われた松井は肩を痛めていたこともあり、このシーズンから打者へと転向した。小野欣助ら同期のライバルたちと猛練習を重ね、以後卒業までの3年間、早稲田の主力バッターとなっていく。

 この年の秋ごろから、作家尾崎一雄との交流がはじまった。文学が好きだった松井は尾崎と会うのが何よりも楽しみだった。尾崎も松井の文武に秀でた才能を愛した。二人の交流は戦地での文通まで続いていく。

早稲田大学野球部ハワイ遠征 1938年7~8月 左から6人目松井栄造 大学史資料センター所蔵

 1940年6月、紀元2600年奉祝東亜競技大会の日本代表に、松井は小野欣助らとともに選出された。六大学リーグのライバル明治からは、岐阜商業の後輩加藤三郎が選ばれた。対フィリピン戦、加藤の放った快音に、松井は久しぶりに歓声を挙げた。

 松井のプレーはしばしば「華麗」と形容され、多くのファンを魅了した。1940年春の早慶第1回戦9回裏、決勝点となったスクイズ。同2回戦左飛を本塁へのバックホーム。同年6月、東亜競技大会ハワイ戦での代打レフト前ヒット。同年秋早明戦での三塁前バント。41年春の早慶1回戦満塁での三塁打……。

 1941年度は松井の最終学年、翌42年3月が卒業予定だった。だが米英との関係が緊迫する中、1941年10月16日公布の勅令により、大学学部等の在学修業年限が短縮された。松井たち最高学年生の12月繰り上げ卒業が決まったのである。

 勅令公布の翌17日は、早稲田の5シーズンぶりのリーグ優勝をかけた立教戦。松井は絶妙のバントで先取点をたたき出し、勝利に貢献した。松井は優勝の興奮を、捕手として石黒投手をリードした最愛の後輩近藤清、そして新人の近藤を捕手として育てあげ、この試合は控えにまわった小野欣助らとともに味わった。

 松井は成長した後輩に早稲田常勝を託し、太平洋戦争開戦で街頭が沸き立つ中、神宮と早稲田の杜を後にした。

戦死

(前)近藤清 (後左)松井栄造 (後右)小野欣助 清水昇氏所蔵

 早稲田を卒業した松井は都市対抗野球の強豪藤倉電線に就職するが、翌1942年2月1日、歩兵第三十四聯隊に現役入隊した。同年5月豊橋予備士官学校に入校し(甲種幹部候補生)、10月卒業。戦地へ赴く直前、松井は早大野球部の合宿所を訪れた。六大学秋季リーグを早稲田は優勝で飾ったものの、再び神宮でプレーできるのか、部員たちが日々不安に苛まれる中での再会だった。

 同年暮、見習士官として中国に渡った松井は、年が明けると大別山作戦、4月からは江南作戦に参加した。山岳地帯での激戦が続いた。うち続く戦闘の中でも、松井は本が読みたかった。ハーモニカを奏でたかった。そして弟紀司のこと、六大学野球の前途が案じられてならなかった。

1942年12月18日 松井紀司、ガダルカナルで戦死。

1943年 4月28日 東京大学野球聯盟、文部省の要求に従い、解散を決定。

 5月28日、湖北省宜昌の西、姚家坊付近での夜間の戦闘、敵の機関銃が待ち構える中での肉弾突撃だった。小隊長として「突っ込め」の号令をかけた松井は、部下を指揮して突入、一発の銃弾が頭部を直撃した。午後10時10分のことだった。

 戦地に出立する直前に松井がしたためた遺書には、「戦死の事を知りましたならば、勇敢に戦って戦ひ抜いて微笑って死んで行った雄々しい姿を想像して下さい。……」と綴られていた。

 松井戦死の一報が早大野球部に入ったのは、6月10日過ぎのことだった。近藤清が受けた衝撃は計り知れないものがあった。「あと一年の学生々活を立派に了へて、必らず仇をとります」と、近藤は誓わないではいられなかった。

 沖縄戦最中の1945年4月8日、特攻出撃を前にした休暇で近藤は岐阜に帰り、遠藤健三のもとへ挨拶に行った。しかし遠藤の家に、道子夫人の姿はなかった。

 その前年の11月10日、道子は42回目の誕生日を迎えた。同日生まれの松井が生きていれば、26歳になっていた。翌11日、道子は美濃町の法要に出かけ、その足で浜松の松井家を訪れた。松井の母に別れを告げ、そのまま行方を絶っていた。

そして……

1945年3月10日 小野欣助 台湾台中にて特攻訓練中事故死。

4月 6日 加藤三郎 神風特別攻撃隊第一正統隊員として出撃し戦死。

4月28日 近藤清 神風特別攻撃隊第三草薙隊員として出撃し戦死。

5月25日 長良治雄 沖縄へ弾薬を輸送中、米軍機の攻撃を受けて戦死。

 昭和が終わりに近づきつつあった頃、毎年8月15日の甲子園球場には、正午のサイレンとともに、ひたすら祈りをささげ続ける遠藤健三の姿があった。

 3月21日から開催される企画展「戦地に逝ったワセダのヒーロー—松井栄造の24年—」では、松井栄造の遺書や、銃痕の残る鉄帽覆、戦地から尾崎一雄や兄に送った手紙などを展示する。
 輝きに満ちた生の軌跡に戦争の爪痕が刻み込まれた松井栄造の24年をふりかえり、私たちの記憶から薄らぎつつある戦争の現実を、敗戦から67年の今、改めて問い直したい。

2012年春季企画展示

「戦地に逝ったワセダのヒーロー 松井栄造の24年」
会期:2012年3月21日(水)~4月21日(土)
※日曜閉室。ただし、3月25日、4月1日は卒・入学式のため、開室
会場:早稲田キャンパス2号館1階 會津八一記念博物館 企画展示室

望月 雅士(もちづき・まさし)/大学史資料センター

早稲田大学大学史資料センター嘱託 早稲田大学教育学部非常勤講師。早稲田大学文学研究科博士後期課程退学。共編に『風見章日記・関係資料』(みすず書房)、『佐佐木高行日記』(北泉社)。共著に『枢密院の研究』(吉川弘文館)など。