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児玉 竜一(こだま・りゅういち) 略歴はこちらから

初代中村吉右衛門の軌跡

児玉 竜一/早稲田大学文学学術院教授

 初代中村吉右衛門(1886−1954)は、近代歌舞伎のなかに大きな足跡を残した俳優である。

鳥居清忠筆「初代中村吉右衛門 当り芸屏風(左双)」

 口跡にすぐれ、卓抜した台詞術を力として、伝統的な作品のなかに人間的な苦悩や情熱を盛り込んで同時代人の心をとらえた。現在に至るまで影響力は大きく、吉右衛門の一座から巣立っていった面々、六代目中村歌右衛門、十七代目中村勘三郎、八代目松本幸四郎らの古典的重量感あふれる芸風によって、戦後歌舞伎の光景は豊かさを増したといえる。血縁上の孫であり養子にあたる二代目吉右衛門によって平成18年から、初代の芸を顕彰する「秀山祭」が主催され、現代における最もオーソドックスな古典歌舞伎上演の場となっている意義も見逃せない。

 このたび早稲田大学演劇博物館において、「初代中村吉右衛門展」を開催することができた(8月4日まで)。演劇博物館では昭和29年の初代没後、未亡人から様々な遺品をご寄贈いただいていたが、今回、吉右衛門家の全面的なご協力によって、秘蔵の衣裳、美術品、書簡などを公開する機会を得たのである。これを機に、あらためて初代吉右衛門の生きた時代を紹介してみたい。

芸のあゆみ

初代中村吉右衛門「一谷嫩軍記 熊谷次郎直実」新富座(大正11年)

 初代中村吉右衛門は、明治19年3月24日、初代中村時蔵(のちの三代目中村歌六)の長男として浅草に生まれた。父は上方育ち、母嘉女は江戸の芝居茶屋「萬屋吉右衛門」の娘と、初代吉右衛門は東西にルーツを持っている。屋号の播磨屋は父に、初舞台から生涯名乗り通した「中村吉右衛門」という名跡は母の実家に由来する。

 東京の歌舞伎界にあって傍流出身の吉右衛門が劇界の中心に躍り出たのは、幾多の辛苦と多くの機会を実らせた結果でもあった。10代で浅草の子供芝居に出演、まずここで神童の名をほしいままにした。続いて20代は二長町の市村座に出演、終生のライバル六代目尾上菊五郎(1885−1949)との活躍は、後の世に「市村座時代」と呼ばれる伝説となる。この市村座での人気が、吉右衛門の劇壇での地位を決定づけたといっていい。

 市村座は、現在のJR秋葉原駅から北東に徒歩10分足らずのところにあった。江戸時代以来の伝統の劇場で、建築は洋風ながら、楽屋のしきたりや作者部屋の風習など、万事に古風であることを旨とした。吉右衛門と菊五郎をプロデュースした大興行師の田村成義は、20代半ばの2人を競わせる形で、菊五郎は父五代目譲りの世話物と踊り、吉右衛門は團十郎譲りの時代物を中心に修業させ、人気はたちまち鰻登り。若い一座の市村座が、歌舞伎座や帝国劇場の先輩たちと拮抗する存在となりえたのは、<菊吉>を中心とする人気と、それをとりまく熱気のなせるところだった。

「那智滝祈誓文覚」遠藤武者直垂

 当時の吉右衛門へのオマージュとしては、雑誌「新小説」の明治44年8月号に掲載された小宮豊隆「中村吉右衛門論」が名高い。「吉右衛門が舞台に上る時、その一挙手一投足にも精神の充実したるを思ふ時、自分は彫刻界の巨匠、ロダンの「祈祷」の像を想ひ出さずにゐられない」という比喩は、論壇に大きな反響を呼んだ。明治末から大正期は、演劇界に新興の機運みなぎる時節でもあった。古風を堅持する市村座はそうした中で、離合集散を繰り返す新劇に飽きたらない青年層を中心に、歌舞伎という演劇を新しく発見する場となった。菊五郎の芸は世話狂言の再発見をうながし、吉右衛門の熱気は、時代物の中にある人間的な苦悩や涙への共感を呼んだ。当時の青年層にとって、歌舞伎は現代劇同様の存在だったのである。

 大正10年、吉右衛門が市村座を離れて松竹の傘下に入った経緯は、劇界を震撼させる大事件となったが、関東大震災を挟んで、大正14年には再び菊五郎と共演、菊五郎が松竹入りする昭和初期を迎えると、40代の菊吉は押しも押されもしない大立者になった。昭和期の吉右衛門は、従来の当たり役を深める一方、新作も手がけている。「髪を結ふ一茶」や芭蕉を演じた「嵯峨日記」は、俳句の師と仰いで親交の深かった高濱虚子の作品である。流行作家吉田絃二郎による「二條城の清正」をはじめとする、加藤清正を主人公とした史劇の数々も大当たりをとり、清正役者として名を上げた。

 戦後、とりわけ昭和24年の六代目菊五郎の没後は、名実共に歌舞伎界の頂点に立ち、歌舞伎俳優では初めて生前に文化勲章を授与されている。昭和29年9月5日、数え69歳で亡くなった。高濱虚子は、「老松の露の一時にこぼれけり」の句を手向けた。

同時代の芸術家たちと

市川三升画 中村吉右衛門句軸
「雪の日や/雪のせりふを/口ずさむ 吉右衛門」

 今回、吉右衛門家から出品していただいた中に、明治43年に楽屋で描かれた水墨画の軸がある。「忠臣蔵」の大星由良助を初めて勤めた吉右衛門のために、即席で絵を寄せたのは、安田靱彦、前田青邨、小林古径、廣瀬長江、今村紫紅、小杉未醒の6人で、当時は30歳前後の新進気鋭、しかし後に日本画壇の巨匠となる面々揃いである。初代吉右衛門は空襲で多くの家宝を失っているが、この記念すべき軸は幸いにも残ったのである。

 また、高濱虚子との親密な交友を反映して、虚子からの多くの自筆ハガキや書簡がある。空襲下の見舞、参会の御礼、投句のホトトギスへの掲載、養子萬之助(現吉右衛門)初舞台へのお祝い、句集刊行への祝辞、戯曲執筆に関する相談、年々の年賀状など、細やかな行き来の様子が虚子の肉筆からただよってくるようである。

 こうした交友関係から浮かびあがるのは、<近代の二代目>としての同時代性である。

 日本画という世界を築き上げた画壇の面々は、岡倉天心らを初代とすれば二代目世代にあたる。子規を近代の初代とすれば、その後を継ぐ虚子は二代目として、五七五の古格を守る役回りとなった。漱石が近代の初代なら、その弟子である小宮豊隆も二代目となる。

 そして、明治劇壇を引っ張った九代目團十郎と五代目菊五郎が、江戸から明治への橋渡しをした初代なら、明治20年代に物心ついた<菊吉>こそ二代目であろう。藝術の各分野における近代の二代目たちは、明治という新時代に生まれ、近代の激動期を経て、十分に同時代性を含んだ新しい何かを、伝統の名の下に後代に伝え残す役割を果たしたといえる。

 歌舞伎においてその役回りを担った初代吉右衛門が辿り着いた風格は、これも今回ご出品いただいた、楽屋の鏡台のみごとな作りや、舞台で使用した衣裳の数々に結実している。

 さらには吉右衛門自筆による自らの句の軸も4点あり、これに演劇博物館館蔵の色紙が2点、いずれも筆跡は滋味深い。是非ともご自身の目で確かめられるようお勧めして、吉右衛門の3句を掲げる。

 白粉の残りてゐたる寒さかな

 雪の日や雪のせりふを口づさむ

 破蓮の動くを見てもせりふかな

坪内博士記念演劇博物館 企画展
「初代中村吉右衛門展」

開催期間:7月2日(土)~8月7日(日)
開館時間:月・水・木・土・日曜日 10:00~17:0  火・金曜日 10:00~19:00
場 所:演劇博物館2階 企画展示室Ⅰ
主 催:早稲田大学坪内博士記念演劇博物館
協 力:松竹株式会社

演劇講座「初代吉右衛門映画祭Ⅱ—初代吉右衛門と秀山祭—」
上映会「盛綱陣屋」(昭和28年)

 初代吉右衛門の養子であり、その芸を継ぐ二代目中村吉右衛門さんをお迎えして、初代の記録映画「盛綱陣屋」を鑑賞すると共に、初代の思い出、播磨屋の芸、その芸を継承する場である秀山祭への思いなどをお話しいただきます。

講 師:中村吉右衛門丈(歌舞伎俳優・芸術院会員)
聞 き 手:児玉竜一(早稲田大学教授)
開催日時:8月2日(火)14:00~17:00(開場13:30)
場 所:早稲田大学大隈記念大講堂
入場無料・事前予約不要
【定員900名】
※会場定員に達した場合、ご入場いただけない場合がございます。あらかじめご了承ください。

早稲田大学坪内博士記念演劇博物館
http://www.waseda.jp/enpaku/index.html
問い合せ:03−5286−1829

児玉 竜一(こだま・りゅういち)/早稲田大学文学学術院教授

1967年兵庫県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。
早稲田大学文学部助手、日本女子大学准教授を経て、2010年早稲田大学教授。
早稲田大学演劇博物館研究員として展示等に携わるほか、『演劇界』、朝日新聞等に歌舞伎評を執筆。専門は歌舞伎研究。
著書に『能楽・文楽・歌舞伎』(教育芸術社)、編著に図録『よみがえる帝国劇場展』(演劇博物館)など。