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新川 登亀男(しんかわ・ときお) 略歴はこちらから

「没後50年 津田左右吉展」をひらく

新川 登亀男/早稲田大学文学学術院教授

「津田左右吉肖像 1946(昭和21)年11月」 大学史資料センター所蔵

 本年(2011年)は、津田左右吉(つだそうきち)の没後50年にあたる。そこで、津田の母校であり研究・教育の場であった早稲田大学と、津田の出身地にたつ岐阜県美濃加茂市民ミュ−ジアムとが共同で記念行事を催すことになった。早稲田大学では、10月15日(土)~12月4日(日)、26号館大隈記念タワ−10階(125記念室)と2号館2階「津田記念室」とにおいて特別企画展「没後50年 津田左右吉展」がひらかれる。この間、11月26日(土)には、小野記念講堂に複数のパネラ−が集い、津田左右吉を問いなおすフォ−ラムが予定されている。ひきつづき、岐阜県美濃加茂市民ミュ−ジアムでは、12月17日(土)~2012年3月4日(日)、同名の特別企画展がひらかれる。そしてこの間、市民ミュ−ジアム主催、あるいは津田左右吉博士顕彰会との共催にて各種の行事が計画されている。

教科書のなかから津田左右吉を解き放つ

 津田左右吉(1873~1961)のことは、多くの日本人が高等学校の教科書で学ぶであろう。現在、おとなの教科書として版を重ねている『もういちど読む 山川日本史』(山川出版社)よると、大正時代に人文・社会科学の諸分野で「自由主義的立場にたった実証的な研究」がすすみ、美濃部達吉、柳田国男、西田幾多郎、河上肇、そして津田左右吉がその代表例であったという。このうち、津田については「記紀の神話の形成過程など日本古代史の実証的研究をすすめた」と解説されている。

 しかし、この解説については、さまざまな異見が予想される。たとえば、津田の学問は大正時代がとくに生み出したものではない。また、その学問は中国思想研究にも及び、文学からみた日本の「国民思想」の発達史を記述することが、むしろ津田の本領であったとも言える。さらに津田は、記紀に「神話」はないという理解であった。「日本古代史の実証的研究」にしても、記紀(『古事記』『日本書紀』)の文献学的な批判を通じて、現代史に立ち向かう津田の日本「国民」論を汲み取るべきである。

 では、いったい、津田左右吉とはなにか。このたびの記念行事は、さきのような教科書のなかから、津田左右吉を解き放つ試みである。

 
膨大な全集を前にして

 生きた津田左右吉に迫るには、やはり、『津田左右吉全集』全33巻(第二次全集は全35巻、ともに岩波書店)が重要な手掛かりになる。また、早稲田大学と美濃加茂市民ミュ−ジアム、あるいはその他の諸機関が所蔵している津田の身辺資料も大いに役に立つ。その一部(未整理分も含む)は、この記念行事で紹介されるであろう。合わせて、充実した展示図録の発行も予定されている。

 しかし、35巻に達する膨大な全集をもつ学術研究者は、例外中の例外である。これを読破するのは、質量ともに至難と言わざるを得ない。また、その文章と用語は平易であるが、仮説・逆説などを幾重にも駆使した息のながい構文とその論理展開を最後まで追跡するのは、けっして平易なことではない。したがって、ここに津田への誤解や曲解が生じてくる余地がある。のみならず、津田の生きた時代の変転や屈折ぶりが、早くから津田への理解を一層困難なものにしていた。

「平常」な時代に育つ

 津田自身が生きた明治・大正・昭和は、津田も言うように「戦争時代」であり、「一種特別な時代」、「平常」でない時代であった。1945年(昭和20)の敗戦後は、これと異なるかのようであるが、津田にとっては、やはり「一種特別な時代」が形式を変えて継続していたにすぎず、同じ昭和であった。むしろ逆に、津田が生まれた1873年(明治6)以降の成長期こそが、「一種特別な時代」を免れていた「平常」な時代であったとも言える。

 この「平常」な明治前半期は、幕末・維新の変動期とは言え、まだ「国家主義」の臭いがしない時代であった。「国体」が声高に叫ばれることもなかった。津田の通った文明小学校では、森達先生が頼山陽の『日本外史』を「講釈」し、それは人物批評、古今東西の歴史、詩歌などへと広く及んだ。津田にとっては、「日本の歴史」(記紀時代を欠く)を学ぶはじめての機会であり、もっとも楽しい時間であったという。

 また、尾張藩の帰農士族の家に生まれた津田は、父から特定の倫理道徳や、占い・信心などを強要されることもなく、家の具足箱には燕尾服が入っているありさまであった。しかし、家で特段の愛情に包まれていたわけではなく、村落の子供たちと深く交わることもない、孤独な成長期であったらしい。

 しかし、「一種特別な時代」以前の「平常」なこの時代にこそ、まわりに「左右」されず(「左右吉」という名は皮肉である)、自由にものを考える津田の習性が芽生えたのであろう。

「一種特別な時代」を生きる

 津田の言う「一種特別な時代」を象徴するのは、皇室の尊厳を冒涜したとする出版法違反起訴事件であろう。1940年(昭和15)前後のことである。たしかに、当時の津田は、この事件に誠心誠意対処し、のちにつながる津田への認知と評価にも大きな影響を及ぼした。しかし、津田自身にとっては、これが比肩しがたい画期でも転換期でもなかった。

「『浪の雫』明治29年7月10日」 早稲田大学図書館所蔵

 津田自身の画期は、まずもって、20代半ばの1897年(明治30)前後に求められる。自身のなかに「狂気」と「風雅」と「学問」の域を分かちもち、「哲学的考察」と「文学的趣味」とを背景にして「実世界に立たん」としていたのである。その「実世界」に立つとは、「歴史」の「学問」を「本職」にすることをいう。同時に、津田は、現在の諸問題に鋭敏な反応を示し、「頽廃」「腐敗」にむしばまれつつある「国民」の「元気」を、「天下の人心」を「一新」「蘇生」させるべき「革命」「破壊」「爆弾」を思い描く。煩悶しながら同時代史に、そして自分自身に対してさえ挑戦的に立ち向かい、その「実世界」で生きていくことを決意した津田であった。津田自身にとって、これ以上の画期があろうか。

 しかし、この画期が形として表面化し実を結ぶのは、15年余りのちのことであった。『神代史の新しい研究』を出版した1913年(大正2)から、『文学に現はれたる我が国民思想の研究 貴族文学の時代』を出版した1916年(大正5)にかけてのことである。「一種特別な時代」に立ち向かう津田の「学問」、「実世界」に立つ津田の「学問」は、ここにはじめて形をなしたのであり、それは、15年以上つづいた画期の最期でもあった。

 たとえば、未曾有の記紀批判に、「革命」「破壊」「爆弾」の意識がなかったと言えるだろうか。「国民思想」発達史の記述に、「実世界」に立つ「学問」の使命を覚えていなかったと言えるだろうか。また、津田の核心をなす象徴天皇制論も、この時期に明示されたが、のち、新憲法上で規定される天皇制理念を30余年まえから訴えていたことになる。記紀批判の半面は、この象徴天皇制論の構築にあるが、これは、「一種特別な時代」に挑戦しつづけた津田の信念でもあった。

 なお、この15年以上に及ぶ最大の画期の最中に、最良の「妻」(教え子)を得たことを言い添えておくべきであろう。「夫」の原稿を淨書することに終生の意義を見出した常子(津ね)夫人であり、日記も共用していた。二人の筆跡も、容易に区別しがたいのである。

永遠に学生であります

 敗戦直後の1946年(昭和21)、津田は、早稲田大学大隈講堂のあふれる学生を前にして、学問と学生のありかたについて講演をおこなった。そのなかで、つぎのように述べている。学生はいまだに、既定の知識や学説を他から学ぶことが本分であると思いこみ、また、狭い知識の獲得をよしとするか、狭いことにすら気付かない。これは、一般の知識人も同じであり、小学校以来の教育がそうさせている。ここにこそ、日本の文化の弱点と低さがあるというのである。この発言と警鐘は、21世紀の平成でも、そのまま通用しよう。「一種特別な時代」、「平常」でない時代は、終わるどころか、むしろ深刻度を益しているかのようである。

 一方でまた、津田は、老いても自分は、永遠に学生であると語った。あるべき学生への限りない期待と願望が、ここには込められている。この思いと信念は、まさに、15年以上に及ぶ自身の画期を経て不動のものとなっていた。「没後50年 津田左右吉展」とその関連行事は、このような「津田ワ−ルド」を紹介し、問いなおすものである。

「津田左右吉文化勲章受賞祝賀会記念(大隈講堂前) 1949(昭和24)年11月4日」 大学史資料センター所蔵

新川 登亀男(しんかわ・ときお)/早稲田大学文学学術院教授

早稲田大学文学学術院教授。博士(文学)。早稲田大学大学院文学研究科博士課程在籍後、大分大学講師、日本女子大学助教授を経て、現在に至る。主な「しごと」は、日本古代史、アジア地域文化、メタヒストリ−を考える。著書は『日本古代の儀礼と表現』、『日本古代の対外交渉と仏教』(以上、吉川弘文館)、『道教をめぐる攻防』(大修館書店)、『聖徳太子の歴史学』(講談社)など多数。