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早稲田四尊生誕百五十周年記念 天野為之と早稲田大学展

木下 恵太/早稲田大学大学史資料センター非常勤嘱託

天野為之について

壮年期の天野

 現在、天野為之は建学の祖である大隈重信・小野梓を助け、大学の礎を築いた「早稲田四尊」─高田早苗・坪内逍遙・市島謙吉・天野為之─の一人に数えられる。筆者のような早稲田実業学校の出身者にとっては、「三敬主義」「去華就実」といった校是校訓の主唱者として、また登下校の際にいつも視線に入るその胸像等で、なじみ深い名前であろう。

 とはいえ、現在の社会一般の方々、または早稲田大学の学生においても、天野の名前はもはや縁遠いかもしれない。実際、「早稲田四尊」と称されながらも、学内に銅像がある他の三人と比べ、天野だけは銅像がない。

 一昨年より昨年にかけ、あいついで生誕百五十周年を迎えた「四尊」のうち三人の展示会が開催されたが、今般その四人目にあたる天野の展示会が開催される。数少ない天野の資料を一覧できる機会となるので、ぜひ足を運んでいただければと願う次第である。

唐津との縁

天野筆「三敬主義」

 昨年の4月、佐賀県唐津市に5校目の早稲田大学系属校として早稲田佐賀中学校・高等学校が開校したことは、ご存じの方も多いであろう。佐賀は大隈重信の郷里で早稲田と関係が深いのはもちろんである。しかし、天野の場合は同じ佐賀県内でも唐津の出身であり、早稲田佐賀中・高との縁は一層深いといえるだろう。

 天野は万延元年12月27日(1861年2月6日)、唐津藩藩医の子として江戸藩邸に生まれ、父の死を契機に一家で唐津に帰住した。そして、少年期はその英学校耐恒寮で学び、ここで後に財政家として活躍する高橋是清の教えを受けた。

 ここで少し余談になるが、高橋は後にこの耐恒寮について記述を残している。それによれば、唐津藩主の東京移住に際し、その住居であった「御殿」を耐恒寮の建物にしてもらった、とのことである。唐津市教育委員会の『唐津城跡(Ⅰ)』(1987年)の図によると、唐津城本丸下にあったこの「御殿」の場所は、ちょうど現在の早稲田佐賀中・高の校舎体育館敷地ときっちり一致している。実際、唐津市史編纂委員会編『唐津市史』(1962年)に記されている耐恒寮の位置も同一に帰するから、少年期の天野はまさに早稲田佐賀中・高の敷地で勉学に励んでいた、ということになるであろう。これも不思議な縁といえば縁である。

若き日の天野と東京専門学校

 天野は15歳になると高橋の勧めもあって上京し、東京外国語学校、ついで東京開成学校(在学中東京大学に改編)に入学した。ここで天野の同窓生となったのが、先に言及した高田、坪内、市島等であった。高田の主唱により、天野も仲間たちと小野梓の鷗渡会に参加し、1882(明治15)年10月に創設された東京専門学校(現早稲田大学)の講師に就任した。

 天野は高田と共に東京専門学校の代表的講師として活躍し、また学校での講義をもとに1886(明治19)年に発刊した『経済原論』は大成功を収め、出版した一年ですでに4版を数え、1903(明治36)年には第25版に達した。これにより、天野の名は一躍日本有数の経済学者として知られるようになった。

天野の学問

天野が創刊した『日本理財雑誌』

 天野の最大の学問的事績といえば、やはり『経済原論』による本格的な経済学の導入が挙げられるであろう。後の総理大臣石橋湛山は「博士(天野)は、単に外国の学問思想を日本に翻訳輸入する態度は取らず、之れを自分の物、日本の物として咀嚼消化し、博士独自の経済学を打ち立てた」と評価している。『経済原論』は期せずして、東京専門学校の理念「学問の独立」と軌を一にしていたわけである。戦前の経済学者福田徳三は「明治前期の三大経済学者」として、福沢諭吉、田口卯吉、天野為之の三人を挙げているが、今日的ないわゆる「経済学」のイメージに最も近いのは、実は三人の中でも天野の学問であった。

 それからもう一つ、天野は現在でも『週刊東洋経済』で知られる(『会社四季報』でも名高い)東洋経済新報社の経営を引き受け、雑誌『東洋経済新報』を日本の代表的な経済誌に育て上げたことも忘れることはできない。天野はこの雑誌を舞台に多くの論説を著しており、とりわけ経済関連のそれはなかなか論旨が鋭敏で、学術的価値を有する。天野は単に理論に優れていただけでなく、現実の経済問題の分析・提言にも優れていたことが伺える。

商業教育の実践─早稲田実業学校と早稲田大学大学部商科の創設に参加

大学部商科(左側)

 先の東京専門学校は高田早苗等の努力により急速な発展を遂げ、1902(明治35)年創立20周年を機に早稲田大学と改称した。天野もこれに協力したが、天野が念願としていたのは高等普通教育からの商業教育の独立であった。

 1904(明治37)年、日清戦後の飛躍的な商工業の発展を背景として、大学部商科(現在の商学部)がようやく発足し、天野はその初代科長に就任した。商科は理論に偏らない実務教育の理念のもと、天野を中心として大きく成長し、明治末年には大学卒業生のうち6割から7割を商科生が占めるに至った。

 一方、天野は中等教育においても独立した実業教育を行う学校の必要を感じ、天野を中心として、1901(明治34)年早稲田実業中学(後に早稲田実業学校と改称)が設立された。その翌年、天野はその第二代校長に就任した。この後、天野は学校の組織整備や鶴巻町校舎の新築など、早稲田実業学校と三十年以上にわたりその苦楽を共にすることとなった。

天野の人柄

天野の授業風景

 ところで、天野とはどのような気質の人だったのだろうか。「東京専門学校壁書」(学生の落書きを書き留めたもの)を一覧すると、その中に「本校一等ノ徳望家 天野君」という書きつけを見いだせる。隣には「同 卑怯者 高田早苗」、「同 淡泊家 坪内(否 小説ニ濃熱)」などとあるから、なかなかの好評価であった。実際、早稲田大学開校の際の表彰状には、天野にだけ「寛弘の徳を備へ」と人格に触れた部分があるから、これは学生一人の思い込みではなかった。この「壁書」には、他にも「高田ハ軽卒也 天野ハ因循也(ぐずぐずしていること)」、「天野ハ其レ牛ナル乎」、「天野ノユックリ 坪内ノ滑稽 高田生意気」などがあり、興味深い。

 一方、教壇における天野は、「無雑作に立った儘で、殆んど手も体も眉も動かさず、生徒を見るでもなく見ぬでもなく、またニコリともせず、テキストなしに諄々として説去り説来り……何となく寄付き難い感を与へてゐた」という。「変った先生でしたね」といった証言も残っている。高田は後に天野のことを「狷介」(人と折り合わない)と評しているが、これも好んで沈黙と孤高を守った天野の側面を確かによく指摘している。

早稲田大学を去る

 1915(大正4)年8月、大学初代学長の高田は学長を辞し、第二次大隈内閣の文部大臣に就任した。これに代わり、天野が大学第二代学長に就任した。しかし、1917年に例の「早稲田騒動」が勃発し、天野は高田・市島等大学幹部と対立したあげく、早稲田大学と絶縁することになった。

 紛争の経緯はたいへん複雑であるが、確かに公平に見て、大学の経営者としては天野より高田の方がはるかに優れていたと思われる。30有余年の早稲田大学の発展は高田の機敏な才幹と情熱の賜物であった、といっても過言ではない。とはいえ、学校も小所帯からすでに巨大組織となっており、時代は大正デモクラシーの前夜にあった。大学においても、あたかも大久保利通型のリーダーシップから政党政治式のリーダーシップが求められる時期に差しかかっていたといえよう。各界で活躍する校友や学生の多くは天野の立場を支持した、というのはその辺の事情と関係がありそうである。

 さて、天野は大学を去った二年後、早稲田実業学校の校長に復帰し、1938(昭和13)年3月26日、校長に在任したまま、77歳で亡くなった。葬儀はその三日後、多くの校友・生徒たちが見守る中、学校葬として行われた。

 その23年後の1961(昭和36)年11月、早稲田大学では天野の功績を再評価し、「天野為之先生生誕百年記念祭」を開催した。さらにその50年後が今年である。生誕百五十周年記念の本展示会が、天野の事績を再々度評価し直す機会となれば、まことに幸いである。

展示案内
http://www.waseda.jp/archives/event/2011/201109amano.html