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土田 健次郎(つちだ・けんじろう) 略歴はこちらから

津田左右吉の学問と姿勢—没後五十年津田左右吉展に際して—

土田 健次郎/早稲田大学文学学術院教授

津田左右吉展の意義

津田左右吉生家(東栃井)美濃加茂市民ミュージアム所蔵

 今年は津田左右吉(1873−1961)が逝去してから50年たつ。それを機会に、早稲田大学と、岐阜県美濃加茂市とが共催で「没後五十年津田左右吉展」を開催することになった。(早稲田大学では10月15日から12月4日まで、美濃加茂市では12月17日から来年3月4日まで、ともに休館日有り)。早稲田大学は津田の出身校であり、ここで教授を務めた。美濃加茂市は津田の故郷である。

 津田が書いた研究書は今でも研究者の必読書である。また、津田の学術史、文化史、思想史上の足跡は大きな歴史的意味を持っている。この両面の意義から、今また津田を再考することは、時宜にかなっていると言えよう。

思想史家としての津田左右吉

『文学に現はれたる国民思想の研究』草稿 津田左右吉著
美濃加茂市民ミュージアム所蔵

 一般に津田左右吉は、実証主義的日本史家と思われている。高校の教科書でもそのような書き方がされてきた。しかし津田の実像は、あくまで思想史の研究者である。

 津田の主著は、『文学に現れたる国民思想の研究』である。本書は全5巻という浩瀚なもので、加筆や改訂が続けられ、結局は未完に終わった。津田の最初の興味は、日本がいかに近代を歩みはじめたかという同時代的なものであった。そしてそれを明らかにするために時代を遡り古代までたどりつき、そして今度は逆に古代から時代順に近世までを書いたのであるが、肝心の津田が最も執筆したかった近世から近代に移る箇所は遺稿として一部が残されたにとどまり、本書の最後の部分は別に執筆された文章を集めて埋めている。筆者の恩師の楠山春樹先生は、この件に触れ、「学者の運命だね」と言われていた。

 津田の日本思想史研究と並ぶもう一つの柱は、中国思想史研究である。津田は日本思想の特質を洗い出すためにも、大きな影響をあたえたと見なされてきた中国思想を俎上にのせる必要を感じていた。津田の『道家の思想と其の展開』は、中国古代思想史を書きかえた名著である。現在中国では多くの新発見の出土資料が出てきて津田の結論の中には修正を必要とする箇所もあるが、本書の意義は衰えてはいない。特に学派別思想史を超えて思想単位を抽出し、それらのダイナミックな相互交渉で思想史を再構成してみせたその方法論は、今また新資料をとりこんだうえで適用する意味を十分持っている。

津田の日本古代史研究

津田左右吉・常子夫妻 佐藤仙次氏撮影 早稲田大学図書館所蔵

 ところで一般に知られる津田の著書は、『古事記及日本書紀の研究』、『神代史の研究』、『日本上代史研究』など日本古代史関係のものである。これらの研究は、出版法第二十六条の皇室の尊厳冒涜罪で告発されたいわゆる「津田事件」で歴史上有名になった。津田はこの時に早稲田大学を辞職した。津田は『古事記』や『日本書紀』に対して容赦無い文献批判を加え、これらの書物で語られている歴史的記述には後の創作や潤色が処々に含まれ、創作意図も民族の歴史を語るということではなく、皇室の起源と由来を明らかにするものであったとした。これは確かに歴史的事件であるが、この分野は津田の学問の一部に過ぎず、この事件がクローズアップされることが、狭い津田像を結ぶ結果にもなっている。

哲学科における津田

Hegel, G.W.F.
Lectures on the Philosophy of History; tr. From the third German ed.by J. Sbree.
London. 1890 早稲田大学図書館所蔵 『津田書き入れ本』

 津田が早稲田大学で『大日本地名辞書』で有名な吉田東伍の逝去の後任として専任教員になったのは史学科である。しかし津田は中国思想を多く担当するようになり、結局は専ら哲学科で中国思想史を講義することになった。

 津田が哲学科に移った当初、東洋哲学専攻科があった。それが支那哲学専攻科と印度哲学専攻科に別れ、さらに支那専攻科になった。ここには津田の意向が反映されている。津田は東洋は一つではなく、また中国には哲学(フィロソフィー)は発展しなかったという見解を持っていた。それゆえこのような名称にしたのである。津田が辞職したあと、名称はもとの東洋哲学にもどり、現在は文学部東洋哲学コースとして、津田の学灯を継承している。

 津田は哲学科で、同僚の関与三郎らと親しく交わった。津田の研究書には洋書の引用はあまり出てこないが、実はかなり読み込んでいた。津田が傍線を引いたり、書き込みをしたりしている洋書は早稲田大学の津田記念室に蔵されている。津田の読んだ洋書は哲学、史学、文学、民俗学、人類学、心理学、美術など多岐に及び、思想や歴史関係はもちろんであるが、文学や美術への愛好も目を引く。なお洋書は英書であって、、ヘーゲル、ニーチェ、ヴント,ホメロス、ダンテ、ゲーテのものなども英訳で読んでいた。これらは津田の研究の隠し味になっている。津田は早朝起床した後、英文の美術書を読み、津田の書斎の書架には多くの洋書が並べられていた。

津田の姿勢の一貫性

 津田の発言を調査して、戦前と戦後とでは津田が変わったということを言う議論が相変わらず多いが、大戦をはさんで手の裏を返したような社会の激変に対して津田の主張の力点が移動したことはあるが、その思想はぶれていない。

 戦前に『古事記』、『日本書紀』の文献批判によって出版法違反に問われ大学を辞職したことから、戦後になって津田に天皇批判を期待したジャーナリズムは、今度は津田の皇室擁護論にとまどうことになる。ただ津田は戦前から「象徴」としての天皇の存在意義を説いていた。津田は、戦前の国家主義的風潮から津田は攻撃され、戦後の唯物史観全盛期にまた批判された。あえて苦しい道を選んだようにすら見えるが、津田にとっては自己の学問に忠実な自然な姿勢であった。筆者は、大学入学したての時に初めて津田の諸著作に接し、それまで読んでいた津田の同時代人の戦前から戦後かけての言論と比して、津田の一貫性が別格のものであることに新鮮な驚きを感じたことがある。

津田の弟子たち

 津田は弟子たちに慕われていた。筆者が大学に入った時、津田の直弟子の教授がまだ何人もおられた。その教授たちの津田に対する敬慕の念は厚く、単に有名人をかつぐという体のものとは次元を異にしていた。

 津田には台湾や朝鮮などアジアの弟子も複数いた。彼らは津田の指導のもとに論文を意欲的に発表している。津田は彼らに優しく接し、津田在職中の最後の弟子である韓国の洪淳昶教授は、1990年の早稲田大学文学部創設百周年のおりに開かれた早稲田大学東洋哲学会主催講演会で、自分が朝鮮独立運動の嫌疑をかけられ拘留された時に津田が好物のタバコを差し入れてきて、その時の温容は生涯忘れられないと語った。

 筆者の大学院の最初の指導教授は栗田直躬先生であった。栗田先生は津田の愛弟子で、子供のいなかった津田に献身的に仕えた。津田が被告となり辞職した不遇の時期にも寄り添い、しかもそれを誇ることのなかった方である。先生が津田について語る時の楽しそうなお顔は今でも脳裏に焼きついている。

2011年度 美濃加茂市・早稲田大学 文化交流事業 共催展
没後50年 津田左右吉展

http://wasedabunka.jp/event/exhn/archive/2011/ex125log_20110915

土田 健次郎(つちだ・けんじろう)/早稲田大学文学学術院教授

早稲田大学文学学術院教授。博士(文学)。早稲田大学第一文学部卒業、同大学院文学研究科博士課程満期退学。専門は中国思想(主に宋代思想)、日本思想(主に江戸時代思想)。著書は、『道学の形成』(創文社、中国語訳、韓国語訳がある)、『聖教要録・配所残筆』(講談社)、『近世儒学研究の方法と課題』(編著、汲古書院)、『21世紀に儒教を問う』(編著、早稲田大学出版部)など。