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星野 高(ほしの・たかし) 略歴はこちらから

つかこうへいと早稲田大学6号館

星野 高/早稲田大学坪内博士記念演劇博物館助手

「つかこうへいの70年代」展示・座談会・上映会

 現在、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館では3階の廊下スペースで「現代演劇シリーズ第39弾 つかこうへいの70年代」展を開催している。劇作家・演出家つかこうへい(1948−2010)の1970年代の活動を追った展示である。その時期つかは、早稲田大学6号館屋上アトリエを皮切りに、そこで出会った無名の俳優たちと共に、独特のセリフと笑いに充ちた作品を次々と発表し、当時の若者から絶大な支持を集める。彼らが青山VAN99ホールや新宿紀伊國屋ホールで行う公演は常に大入り満員で、その異常な人気振りは、1982年につかが突然、演劇活動の休止を宣言するまで続き、新聞・雑誌上で「つかブーム」と呼ばれ、演劇の世界を超えた一つの社会現象として捉えられるに至る。

 今回の展示ではそうした70年代のつかの演劇活動を、舞台写真やポスター、雑誌記事、映像、関係者の証言によって再構成し、併せてその軌跡を辿る中で浮かび上がった同時代の他の劇団の活動を取り上げて、70年代の日本の演劇状況を探ろうと試みている。

 展示品では、特に、つかが慶応大学在学中に関わった劇団「仮面舞台」の旗揚げ公演プログラムや、初期作品『郵便屋さんちょっと』『初級革命講座飛龍伝』の舞台写真、『広島に原爆を落とす日』の稽古風景の映像、『いつも心に太陽を』の役者用台本(つかの口立てのセリフをメモしてまとめたもの)など、本展で初めて公開されるものも多い。

 また会期中の5月14日(月)夜には大隈講堂で70年代のつか作品を支えた俳優、風間杜夫・平田満・根岸季衣の3氏を講師に迎え、演劇評論家・扇田昭彦氏の司会で「座談会・つかこうへいの70年代」を開催する(19:00から)。当日はVAN99ホールで上演された『ストリッパー物語』(1975年4~5月)の映像の一部を、こちらも初公開する。他に、この『ストリッパー物語』の映像全編と、テレビ用に収録された『戦争で死ねなかったお父さんのために』(1977)、紀伊國屋ホールで上演された『いつも心に太陽を』(1980)の舞台映像などの上映会を、6月24日(日)と7月22日(日)に、早稲田大学小野梓記念講堂で行うことになっている(両日とも14:00から)。展示・座談会・上映会ともすべて無料である。この機会にぜひ演劇博物館および関連企画実施会場にご来場いただきたい。

※詳細は演劇博物館HP(下記URL)でお確かめ下さい
http://www.waseda.jp/enpaku/special/2012tsuka.html

早稲田大学6号館屋上アトリエ

写真提供:齊藤一男スタジオ

 ところで、当演劇博物館は早稲田大学キャンパス内の一番奥まったところに位置しているが、その博物館の前に建つ「6号館」と呼ばれる校舎の屋上には、嘗て学内の劇団が公演や稽古に使用するアトリエが存在した。元々は理工学部の実験室として使われていた場所で、1967年頃、劇団自由舞台が稽古場として使い始め、以後1990年代末に閉鎖されるまで30年余りにわたって早稲田大学内の演劇の拠点の一つになっていた(注1)。現在は會津八一記念博物館の倉庫として使用され、大量の考古学の「石」が収められている。初期の頃には、コンクリートの床面に平台を置いただけの舞台と、黒いベニヤで囲われ、頭上をハトが飛び交っていたというこのアトリエこそ、1970年代の、つかの演劇活動の出発点だった。今回の展示では、つかの70年代の活動全体にわたって触れているが、ここではこれまであまりまとまって記述されたことのない、つかこうへいの早稲田時代について概観したい。

劇団「暫」

 現在、劇団「鳥獣戯画」を主催する知念正文は大学3年の1972年の秋、夏休み明けに当時自らが創立した劇団「暫」の稽古場だった6号館アトリエを久しぶりに訪れたところ、初めて見るつかを中心に激しい稽古が行われているのに出くわして驚いたという。

何かすごい異常な稽古してるんですよね。「何だこれは」と思って。で、ボク創始者だから偉そうに行ったんですけど、何かつかさんを中心に回ってるんですよ。で、三四郎(※向島三四郎)が来て「ちねん、すごいヤツ見つけたよ。おい稽古やろうぜ」って。[…]もうつかさん厳しくて、ハードだからねぇ。だって、それこそ朝の10時から夜の10時くらいまでやってて。あの守衛が来ますでしょ、それまでやってて、また朝からでしょ。それを本当に毎日のようにやってましたからね。(『大隈裏』演劇ぶっく社、1990年、p.46)

 知念の言葉から窺うに、つかを6号館に連れて来たのは、知念等とともに暫を立ち上げた向島三四郎だったようである。その経緯は詳らかでないが、暫は旗揚げ公演の立て看板に「演出/鈴木ワル志」と書くほど、演出家・鈴木忠志の主宰する早稲田小劇場の影響を受けており、同じ頃つかもまた早稲小の稽古場に足繁く通って、鈴木の役者へのダメ出しをノートにメモしていたという(注2)。暫の創立者たちも、つかも、70年代初頭の、女優白石加代子を擁して『劇的なるものをめぐってⅡ』等の作品を発表していた頃の早稲小の存在を強く意識しながら早稲田界隈で演劇を始めており、彼らの活動が交差するのも自然な成り行きだったと言える。

 その後つかは1974年にVAN99ホールへ進出するのを機に暫とは別行動を取るようになるが、知念は後年までつかの舞台に出演し続け、つかもまた暫が自作を上演する際には演出を手伝うなど、交流は続いていく。そうした中で1975年に暫が『熱海殺人事件』と『出発』を池袋シアター・グリーンで上演した際に、つかが出会ったのが、後に70年代つか作品の中心的な俳優になる風間杜夫だった。

鈴木忠志と別役実

 つかはまた暫に加入する1972年頃から演劇雑誌『新劇』(白水社刊)に盛んに詩や戯曲、エッセイを寄稿し始める。1974年に当時最年少の25歳で岸田國士戯曲賞を受賞(清水邦夫と同時受賞)することになる『熱海殺人事件』を始め、初期の戯曲のほぼ全てがこの雑誌に掲載されている。中でも異色なのは鈴木忠志と劇作家・別役実についての長編評論「懐かしの鈴木忠志」(1972年10月号)と「むかしむかし別役実」(同年11・12月号)だろう。

 特に別役実についての文章は2号にわたる、原稿用紙80枚以上の長大なもので、後年つかは、すでにこの評論の中でも繰り返し述べられている、別役の「結果から目的を探す」という方法論が自分の芝居の発想の原点になったと語っている。「むかしむかし別役実」の中では、「祖母の死」に関するエピソードに触れた後、別役の作劇術は喩えて言えば「涙」から「祖母の死」に向かう思考法で、その逆ではないと述べている。また自分の作品の「『初級革命講座』は(別役の)『象』の盗作だし、他にも『郵便屋さんちょっと』など盗作ばかりである」という言い方で、その影響の大きさを認めている(注3)。

 このふたつの評論文からは、演劇活動を始めて間のない、自らの劇作法を模索していた時期のつかにとって、鈴木・別役の存在が如何に大きかったかが窺える

早稲田時代のつか作品

劇団暫公演「郵便屋さんちょっと」舞台写真
1972年11月早稲田大学6号館屋上アトリエ

 6号館屋上アトリエを中心に活動していた1972年から73年頃の、つかの舞台の様子について、後に70年代のつか作品を支える俳優の一人となる長谷川康夫は早稲田大学入学直後の新入生歓迎公演で見た『郵便屋さんちょっと』の印象を次のように述べている。

「なんだこれは」って。ひたすら面白かった。[…]台詞のテンポに圧倒されたのは勿論だけど、例えば局長の決めゼリフで、「緋牡丹博徒」が高らかに流れ、なぜか指つめのシーンになって、制服脱いで背中見せると、一面に龍の入れ墨、とか、一回引っ込んだと思ったら、竹馬に乗って壁をぶち破って登場して、そのまま台詞を捲し立てる、とかね。[…]何よりも音楽ですね。だってオープニングが、モンキーズの「デイドリーム・ビリーバー」ですからね。イントロが流れて、歌と共に冒頭の短いセリフの応酬が始まる。その掛け合いが終わると同時に、サビになって、郵便局員たちが踊り出す[…]登場人物たちがその設定の中でとことん遊びまくるわけです。その遊びの中で世界が次々と広がっていく。(『演劇博物館106号』2012年、p.3)

 こうした意表を突く展開や歌謡曲の効果的な使い方といったことの他に、この頃の舞台に関して、1990年代以降の絶叫調のセリフ回しによるつか作品しか知らない者にとっては意外に感じられる劇評もある。早稲田で活動を始めてから1年後、1973年11月に六本木の自由劇場で上演された『改訂版 初級革命講座飛龍伝』について、演劇評論家の大笹吉雄は次のように書いている。

父と女と監査員の、革命をめぐる果てしないおしゃべり…。[…]絢爛さと絶叫に満ちた最近の小劇場演劇の中では、この劇団の舞台は、それらと比較を絶してひっそりとし、かつ、つつましやかなものである。が、舞台におけるイメージにおいて、この静かで「貧しい」暫の仕事は、すぐれた「兄貴たち」の先行作に、さほどひけを取るものではない。(大笹吉雄「ステージ」『ミュージックマガジン』1974年1月号、p.150)

 同じ文中では、つかの舞台が武器としているのは、「立派な挫折」といったフレーズに代表される新鮮な言葉を探り当てる感覚だと指摘されている。

つかこうへいと演劇の70年代

 大笹はこの文章を「期待していい集団である」と結び、別のところでは暫(つか)の舞台から「これまでとは違った別のなにかが、確実に生まれてきているのを実感し得た」と書いているが(注4)、同様に、演劇評論家の扇田昭彦は、大笹の言う「兄貴たち」—60年代に現れた才能ある演劇のつくり手たち—と比較しながら、つかの登場を次のように意義づけ、今後への「期待」を述べている。

 つかこうへいの登場の第一の意味は、別役実、唐十郎、佐藤信とはじめて感性的にはっきり切れた有能な劇作家の出現という点にある。[…]もしかしたら、つかこうへいの出現によって、私たちの時代の演劇は、私たちが最も思いもよらなかった方向において、従来の「小劇場運動」の彼方へと、善かれ悪しかれ、突き抜けようとしているのかもしれない。(扇田昭彦「1974年の現代演劇」『演劇年報1975年版』早稲田大学出版部、1975年、p.61−62)

 この文章は1975年に、前年の74年を回顧して書かれたものだが、先回りすれば、扇田は1970年代の末になって、70年代という「時代的なイメージを背負った劇作家」としてつかの名を挙げ、その舞台が「70年代後半という時代の一般的雰囲気を、もっとも鋭敏に、もっとも先端的にあらわしている」と評するに至る(扇田昭彦「つかこうへい前後」『創』1978年8月号、p.256−259)。同じ文章の中で扇田は、つかの作り出す劇世界について、60年代の劇作家たちと比較しながら、次のように述べている。

60年代の劇作家たちの多くは、世界を語った。[…]だが、70年代のつかこうへいは、世界そのものについては、ほとんど語らない。[…]つかこうへいの芝居の舞台に、いつも舞台装置がほとんどないのも、劇的簡潔さの効果と飛躍の多い劇の設定のためでもあるが、同時に、世界像の細部がはっきりしないためでもあるように思われる。いわば、イメージ性と思想性の欠けた世界であり、その分だけ、世界はかろやかになったが、まさにその分だけ、全体性を失っている。

 ほかに別役実もまた、同時代につかと〈70年代〉を結びつけて捉えた一人である。つかの書いた、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』のパロディー、『松ヶ浦ゴドー戒』を読んだ別役は、とっさに「あ、七十年代」と思ったという。原作では現れるはずのないゴドーが、つかの戯曲では(身代わりではあるが)あっさり登場し、股旅物の口調で人情味たっぷりに、待ちくたびれたウラジミルに「苦労かけたなあ…」「俺はもうどこにも行きゃあしねえよ」と語りかけるのである。別役は「「六十年代」はここまで気楽になれない」と述べ、同時にその気楽さは「意外に機敏な批評精神によって武装されている」と指摘した(注5)。

 冒頭にも触れたように、つかはこの6号館アトリエで、平田満や三浦洋一を始めとする、まだ早稲田に入学したばかりの学生だった無名の若い俳優たちと共に、長時間に及ぶ稽古を繰り返す中から、初期の作品を次々と生み出していく。以後彼らが70年代のつか作品を担っていくことになる。扇田の言葉に倣って言えば、この6号館アトリエは、つかの出発点であるのと同時に、つかが背負った、60年代とは異なる、演劇の〈70年代〉が立ち現れた場所だったのである。

注1, 『大隈裏』(前掲書)を参照した。
注2, 村井健「つかこうへいは「詩人」であった」『悲劇喜劇』(早川書房、2010年10月号)
注3, 以上のつかの発言は『つかこうへいによるつかこうへいの世界』(白水社、1981年、p.63,68)、及び『つかこうへいの新世界』(メディアアート出版、2005年、p.76)による。
注4, 大笹吉雄「激越と静謐—73年の小劇場演劇—」(早稲田大学演劇博物館編『演劇年報1974年版』早稲田大学出版部、1974、p.61)
注5, 別役実『台詞の風景』(白水Uブックス、1991、p.64−65)

星野 高(ほしの・たかし)/早稲田大学坪内博士記念演劇博物館助手

1972年生まれ。専門:近現代日本演劇史。明治大学大学院文学研究科演劇学専攻博士後期過程満期退学。主要論文に、「タイフーン再考』(『西洋比較演劇研究」第8号、2009年)、「帝劇のミュージカル・コメディー」(『演劇研究センター紀要Ⅷ』早稲田大学演劇博物館、2007年)など。