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「大隈重信と小野梓─建学の礎」展によせて

木下 恵太/早稲田大学大学史資料センター非常勤嘱託

明治政府高官時代の大隈重信

小野梓(岡吉枝画・本学會津八一記念博物館所蔵)

 今年は1882(明治15)年に東京専門学校(早稲田大学の前身)が創設されてより、130年の節目に当たっている。これを記念して、大学史資料センターでは「大隈重信と小野梓─建学の礎」展を開催することとなった。

 「建学の父」大隈重信に対し、「建学の母」とも称される小野の名は、小野梓記念館や小野梓記念賞等でもご存じのことであろう。大隈が小野の逝去について「大切な友人として、且つ学校の恩人として、吾輩は両腕を取られたよりも惜しく思ったのである」と語っている通り、その片腕として活躍した小野は、実質的な意味で「学校の創立者」(『大隈侯昔日譚』)でもあった。

 今回、大隈に関わるものを中心に、本学が秘蔵する小野の資料を一堂に展示するが、これに加え、冨山房(小野が開業した東洋館書店の後身)坂本起一氏所蔵の「小野梓関係文書」(国立国会図書館憲政資料室寄託)も特別に展示できることとなった。展示に寄せられた同氏のご好意にあらためて感謝申し上げたい。

 それでは、以下に展示する資料を一部紹介していこう。

小野梓自筆の日記「留客斎日記」 坂本起一氏所蔵

「留客斎日記」東京専門学校開校の日(国立国会図書館憲政資料室寄託)

 日記は全部で6冊、期間は1879(明治12)年正月より1885(明治18)年10月に及んでいる。最初の方に一年半ほど欠落があるものの、小野が活躍した最も重要な時期を含んでおり、学校創設の過程もこの日記により詳細にたどることができるのである。

 日記中、最初に大隈が登場するのは、1881(明治14)年3月17日条である。
「再び十宜を浄書す。蓋(けだ)し明日を以て之を大隈参議に呈せんと欲するなり。詩有り、之に添えて曰く。又是平生憂国志 十篇議論不修文 蘭台諸老雖多在 能聴鄙言唯有君」(原文は漢文、以下同様)。

 「十宜」とは、小野の意見書「今政十宜」(展示予定)のことである。漢詩の方は、「私はこの書にかねての憂国の志を籠めました。十か条の議論は粗野であるかもしれません。しかし、朝廷の大官は多いとはいえ、私の言葉を聞き入れてくれるのは閣下お一人だけなのです」との意味で、小野の大隈に寄せる「知己」としての期待が読み取れる。

 小野は翌日大隈に「十宜」を提出し、20日に大隈を訪問した。
「午後、大隈参議を訪う。対座して今政十宜に就き大いに時事を論ず。参議も胸襟を啓き(腹蔵なく語り)、詳らかに時勢の在る所を示し、細大明言し、併せて前途の事を議す。余(私)もまた切に施治の方嚮(方針)を定めざるの非を痛論す。参議大いに之を可とす。懇話数時間、自鳴鐘十点(夜の十時)に辞して還る」。

 この後、日記に大隈が頻出するようになり、例えば二人が下野した後の1882(明治15)年5月では、小野が大隈に会っていないのは、当人が明治会堂で演説した13日と、大隈を訪ねたが不在であった30日だけという、濃密さであった。たいてい小野が雉橋(現東京都千代田区役所付近)にあった大隈邸を訪問しているが、稀に大隈の方から隅田川ほとりの小野の家を訪ねてくることもあり、ともに酒を飲んで談論していたようである。同年6月30日には、「雉橋老らと劇を観る。此の日、甲越軍記を演ず」とあり、小野は大隈と一緒に武田・上杉の合戦の芝居をみていた。当時の「建学の二祖」の動向には、なかなか興味深いものがある。

小野梓「若我自当」草稿 1881(明治14)年10月7日 坂本起一氏所蔵

小野梓著「大隈公政略紀」(本学図書館所蔵)

 大隈は憲法意見書(伊藤博文筆写本を展示予定)を左大臣有栖川宮まで提出した後、天皇の東北巡幸に随行することとなった。会計検査院の官僚であった小野は7月29日、退庁の途次に大隈を訪ねて送別したが、北海道開拓使官有物払い下げ事件もあり、いよいよ藩閥政治のあり方に不満を強めていた。大隈がまだ旅中であった9月4日、日記に「薩人の如きは放縦自ら利し、長人和して之に従う。天下の政ほとんど情(情実)に成り、頗る公正を欠く」と記している。「世すでに腐れり」と憤る小野は、同月24日、「若我自当」(もし私が当事者であれば)と題した秘密の論文を書き始めた。

 趣旨は、払い下げ事件での人びとの怒りを利用し、一気に憲法制定・行政整理に持ち込むべし、というもので、小野は「反敵と雌雄を決する」という激しい言葉を用いている。脱稿は10月7日深夜であり、小野はその浄書分を人に託し、宇都宮にいた大隈に送った。

 しかし、小野はさらに論文に手を入れ、大隈が帰京した10月11日の夜もその原稿を改訂していた。ちょうど同じ頃、帰京した天皇を迎えて大臣・参議らが大隈追放を謀議していたのであるが、もちろん小野は知るよしもなかったわけである。小野は翌日、退庁の途次に大隈を訪うて「明日の閑話」を約し、夜に「若我自当」を完成させた(本学図書館所蔵)。

 その翌13日、小野はようやく大隈の免官を知った。かなり激昂したらしく、「直ちに辞職するの非」を説く大隈の説得に一旦は従いながらも、21日には辞表を提出した。

 この後、政府から下野した小野は、大隈の下で立憲改進党の創設(4月)、東京専門学校の創設(10月)へとつき進んでいく。「若我自当」にも表れているような小野の薩長勢力に対する反抗心、不屈の闘志は、形を変えて東京専門学校に流れ込んでくるのである。

大隈重信宛小野梓書簡 1885(明治18)年11月9日 大学史資料センター所蔵

1885(明治18)年11月9日 大隈重信宛小野梓書簡

 学校、論著執筆、書店の経営と、一刻を惜しむような激務に身を投じていた小野は、次第に喀血するようになっていた。しかし、1885年8月には病臥の合間に、畢生の大著『国憲汎論』の終巻を完成させている(展示予定)。心配する郷里の母に、「梓は日本宰相の命を拝するにあらざれば則ち死せず。この精神、躯体の裏(うち)に盈(満)つ、病魔もまたこれを畏る」と書き送った小野であったが、秋が深まるといよいよ病状は重くなっていた。

 これに加え、小野を悩ませたのが、良書の普及をめざして開業した東洋館書店の不振であった。すでに各方に借金をしていた小野は万策が尽き、11月8日に大隈に書簡を送り、繰り返し失礼を詫びつつ150円の借金を申し込んだ(展示予定)。この頃、東京専門学校の授業料は月1円であったから、150円は当時それなりの金額だったであろう。「疲労之為め両(二)三回相休み、漸く認(したた)め終り候」とある通り、小野はもはや書簡を書き通すことさえ苦しい病状であった。

 これに対し、大隈は書簡通りの金額を直ちに小野に送った。感謝した小野が借用証と合わせて書き送ったのが、本書簡である。文中、「御手許へ」の語句が反復されているが、几帳面な小野にしては珍しい書き誤りであろう。また、これは現存する小野の最後の大隈宛書簡であるが、実際、本書簡は大隈との最後の交渉となった可能性がある。

 小野はこの2か月後の翌年1月11日、肺結核のためわずか33歳で亡くなった。

おわりに

 以上、今回展示する資料を通して、大隈と小野の関係の一端を見てきた。この他にも、小野が「学問の独立」を高唱した東京専門学校開校式での演説稿、学校の入学希望者が盛況である喜びを伝えた大隈宛書翰、法学部を一時廃止するよう苦渋の進言をした大隈宛書簡等、多彩な資料を展示する予定である。

 これらは小野の人となりやその想い、背後に秘められた物語を我々に語りかけてくれるが、これが生の資料のおもしろさであろう。ぜひ、今回の展示にお運びいただき、「建学の礎」となった二人の間柄に、思いを馳せていただければと願う次第である。

展示案内

http://www.waseda.jp/archives/