早稲田大学の教育・研究・文化を発信 WASEDA ONLINE

RSS

YOMIURI ONLINE

ホーム > 文化 >大久保山 —浅見丘陵の土地利用史— 早大本庄キャンパスに眠る遺跡

文化

大久保山 —浅見丘陵の土地利用史— 
早大本庄キャンパスに眠る遺跡

中門 亮太/早稲田大学會津八一記念博物館 助手

 2012年で創立30周年を迎えた早稲田大学本庄高等学院。その校舎の下を含め、早稲田大学本庄キャンパスのほぼ全域が遺跡であることをご存知でしょうか?

 遺跡名は大久保山遺跡といい、本庄キャンパスの整備計画に先立って発掘調査が行われました。この度、早稲田大学會津八一記念博物館と早稲田大学文化推進部文化企画課の主催で、大久保山遺跡出土資料による企画展「大久保山—浅見丘陵の土地利用史—」を開催いたします。

大久保山遺跡の立地と環境

 大久保山遺跡は、本庄市と児玉町にまたがる浅見丘陵(または浅見山丘陵)に位置します。浅見丘陵は、児玉丘陵の流れをくむ残丘の一つで、秩父山系が浸食を受け平坦になっていく過程で取り残された高まりです。西方には神流川が流れ、北方で利根川と合流し、南方には小山川が流れています。浅見丘陵全体の大きさは東西約1.8㎞、南北約1㎞、台地との比高差は約40mを測ります。丘陵の東側には2つの大きな谷津が入り込み、北から「浅見山」、「大久保山」、「塚本山」の三つの丘陵が西側で接続しています(写真1)。地名は武蔵七党の一つである、児玉党阿佐見氏に由来しています。かつては山つつじが多く咲き乱れていたことから、地元の人々には「つつじ山」の呼称で親しまれていました。

(写真1)本庄キャンパス空撮(上から浅見山、大久保山、塚本山)

 大久保山を中心に浅見山、塚本山との間に入り込む2本の谷津は、それぞれ「北谷津」、「南谷津」と呼ばれており、北谷津側は急峻で入り組んだ地形、南谷津側は緩やかな斜面となっています。

 本丘陵のなかで、人々が生活の場として積極的に利用・活用してきた場所は、比較的平坦な頂上部、なだらかに傾斜する南斜面、平坦な谷津があげられます。本企画展では、大久保山遺跡の出土遺物を通史的に取り上げ、縄文時代から現代へ至る土地利用の変遷をたどることができるようになっています。(写真2)

(写真2)

縄文時代から弥生時代

 今回の展示では、大久保山遺跡における人々の活動の痕跡を、縄文時代前期からたどっていきます。縄文時代の遺構は、南側斜面の標高75m前後で竪穴住居跡や土坑が認められるほか、大久保山頂上の平坦部(Ⅱ地区)では、集石土坑を主とする土坑群が検出されており、北側斜面からは、縄文土器が投げ捨てられたような状態で出土しています。

 続く弥生時代には、大久保山南東端の緩斜面上(ⅣA地区・ⅢB地区)に竪穴住居が造られます。標高70m以下の緩斜面から低地部にかけては、縄文時代と同様、弥生時代の痕跡がほとんど見られず、当該期の集落は緩斜面のやや高い位置に展開していたと考えられます。

古墳時代から古代

 大久保山遺跡の主体を占めるのは、古墳時代から古代の集落址であり、この時期だけで約800軒の竪穴住居が検出されています。それまで丘陵頂上の平坦部や緩斜面のやや高い位置に展開していた集落は、より標高の低い斜面や谷津の低地部へと展開していきます。浅見丘陵全体を見渡すと、浅見山地区に古墳時代前期の方形周溝墓が造られるほか、古墳時代前期の前方後円墳としては埼玉県内で最大規模を誇る前山1号墳(全長約70m)、横穴式石室を持つ東谷古墳、計170基を超える塚本山古墳群など多数の古墳が存在しています。

 浅見丘陵においては、大久保山南斜面の集落を拠点とし、浅見山や塚本山、前山などを墓域として利用していた様子がうかがえます。大久保山遺跡は大久保山単独で完結する集落ではなく、浅見丘陵全体のなかで複合的な形で機能していたと考えられます。

 本庄市内では、7世紀末~8世紀にかけて、それまでの伝統的な集落遺跡が廃絶あるいは縮小され、律令体制の確立と関わる政治的背景を持った「計画的村落」と見られる集落が出現します。しかし、それらの大規模な集落は10~11世紀になると姿を消し、人々は新たな土地に移り住んだり、古墳時代や奈良時代の集落地に再び居住をしたりします。そのような中、大久保山遺跡では、時期による若干の立地の変遷はあるものの、基本的には大久保山南斜面を中心に古墳時代から連綿と集落が展開します。集落の前面には畑として利用できる低地が広がり、背後には豊かな森が広がっていました。そのため、大久保山遺跡は古墳時代から古代にかけての社会の変革期にあっても、ある程度独立した経済基盤を確保しており、継続して集落が営まれていたと考えられます。

(写真3)A2道路地区9号住居出土遺物(5世紀末葉~6世紀初頭)

中世

 10世紀にⅢA地区に積石塚状の墓(1号墓)が造られると、それ以降しばらくの間、大久保山遺跡の発掘調査区内における人々の活動痕跡は希薄になります。しかし、遺物の出土は少ないながらも見られるため、墓域への立ち入りを避け居住の場所を谷津中央部やより低地へ移したのでしょう。

 大久保山遺跡で再び居住の痕跡が確認されるのは、12世紀中葉です。先述の1号墓の約20m西に大規模な館が建てられます。大久保山遺跡がある北武蔵地域は、鎌倉政権の基盤を支えた中世武士団の本拠地・本貫地で、浅見丘陵周辺には武蔵七党の一つに数えられる児玉党が拠点を置いていました。祖先の墳墓がある地に館を立て、その聖域を取り込むことで、正統な後継者であることを地域に誇示したと推定されます。また、浅見山地区では、山麓の斜面を削平して形成された平坦面から寺院址が検出されています。『本庄市史』によれば、「有道維行(筆者註:児玉党の始祖とされる人物)は浅見山に寺を建立し、阿弥陀如来を安置し西光寺と号した」とされており、浅見丘陵は児玉党の聖地としての役割を担っていたものと考えられます。浅見丘陵全体を見渡すと、館、屋敷、寺院といった遺構が集合・隣接しており、一つの集合体としての機能がうかがえます。

 館は14世紀前葉で廃絶され、その後調査区内からは五輪塔や板碑が出土していることから、中世後期には墓地・墓域として利用されたと考えられます。

近世から現代へ

 大久保山遺跡では、近世の陶磁器類も出土していますが、浅見丘陵の近世の景観は、古墳時代から続いてきた大規模な集落とはやや異なるようです。

 近世には中山道や利根川の水運が整備され、現在のJR本庄駅周辺に本庄宿が設置されました。本庄宿は、中山道の宿場の中で最も人と建物が多い宿として栄えたと言います。江戸時代の絵図を見ると、浅見丘陵は緑豊かな里山として描かれ、周辺をいくつかの村が取り囲んでいます。そのため、近世以降の浅見丘陵は、人々が生活する集落というよりは、主として森林資源などを供給する入会地のような役割を果たしていたと考えられます。浅見丘陵は、現代においても緑豊かな姿をとどめており、多彩な四季の移ろいを見ることができます。

 本展覧会は、會津八一記念博物館での展示後、2013年1月24日から、本庄キャンパスにおいても展示を行います。本庄キャンパスにおける展示では、本庄市教育委員会所蔵の資料も併せて展示しますので、より通史的に浅見丘陵の変遷をたどることができます。その土地で出土した資料をその土地で見ることで、浅見丘陵の土地利用史をより深く感じていただければと思います。

大久保山—浅見丘陵の土地利用史—
主催:
早稲田大学會津八一記念博物館・早稲田大学部文化推進部文化企画課
協力:
本庄市教育委員会・早稲田大学教務部本庄プロジェクト推進室

【会期1】
2012年11月16日(金)~2013年1月12日(土)
開館時間 10:00~17:00(入館は16:30まで) 入館無料
※日曜祝日、12月23日~1月6日の期間は休館
会場:早稲田大学會津八一記念博物館 1階企画展示室
http://www.waseda.jp/aizu/index-j.html

【会期2】
2013年1月24日(木)~2013年3月9日(土)
開館時間 10:00~16:00(入館は15:30まで) 入館無料
※日曜祝日は閉室
会場:早稲田リサーチパークコミュニケーションセンター(93号館)2階情報資料室

中門 亮太/早稲田大学會津八一記念博物館 助手

1982年生まれ。2009年早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程入学、2011年4月から現職。専門は日本考古学、民族考古学。