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「ペンから剣へ—学徒出陣70年—」展ポスター

「ペンから剣へ—学徒出陣70年—」展によせて

望月 雅士/大学史資料センター

 今年は、いわゆる学徒出陣から70年にあたる。

 太平洋戦争が敗色の様相をみせる1943年10月、学徒に認められていた徴兵猶予が停止された。これにより陸海軍へ入隊した学徒数は全国で9万、あるいは13万と言われ、早稲田大学からは4500名を超す学徒が出陣した。すでに1941年から繰上げ卒業が実施されており、翌44年には徴兵年齢が下げられるとともに、第二陣の学徒が出陣していった。

 今回の企画展では、学業半ばで陸海軍に入隊し、戦場に逝った5人—高木多嘉雄・柳田喜一郎・吉村友男・近藤清・市島保男—を取り上げる。彼らの知性は戦争の時代といかに向き合い、格闘したのだろうか。彼らの軌跡を追うことから戦争の姿を改めて問い直し、不戦の誓いを新たにしたいと思う。

学徒出陣—校門から営門へ—

 1943年9月21日、東条英機内閣は国民動員徹底の一環として、学徒の徴兵猶予停止を決定、10月2日公布の勅令で、満20歳に達している学徒は徴兵検査を受け、12月早々に陸海軍へ入営・入団することが決まった。早稲田の場合、徴集延期となった理工学部などの学生を除き、その数4500名を超え、文科系4学部では7割近くの学生が対象となった。

 高木多嘉雄は政治経済学部3年となった。勉学に励む一方で、剣道をはじめ、水泳やスケートも楽しむなど、文武両道の学生生活を送っていた。学徒出陣が決まった時、神風が吹くことを信じていた父に、高木は誰が行っても勝てる戦争ではないと言った。

 10月15日、早稲田から出征する学徒のための壮行会が、戸塚道場(現・総合学術情報センター)で開催された。立ち並ぶ学徒たちを前に田中穂積総長は、「今こそ諸君がペンを捨てて剣を取るべき時期が到来した」と訓示した。壮行会終了後、出陣学徒たちは学部ごとに報国碑まで行進、さらに1000名の学生が靖国神社、皇居まで行進し、敵の撃砕を誓った。

早稲田大学出陣学徒壮行会 1943年10月15日 大学史資料センター所蔵

 翌16日には早慶壮行野球試合、いわゆる最後の早慶戦が催された。直前まで開幕が危ぶまれたが、戸塚道場は早慶の学生で埋め尽くされた。岐阜市立岐阜商業学校出身で、全国中等学校野球大会での優勝経験をもつ近藤清は3番レフトで出場し、3打数2安打2打点の活躍をみせた。1943年に入り、東京大学野球連盟が解散に追い込まれても、近藤は「野球道」の精神に則り、日々練習に励んでいた。そして敬愛する岐阜商以来の先輩松井栄造の戦死に際しては、岐阜の恩人に「必らず仇をとります」と書き送っていた。

「最後の早慶戦」記念撮影 於戸塚道場 1943年10月16日 前列右から7人目が近藤清 大学史資料センター所蔵

 10月21日、文部省学校報国団主催で出陣学徒壮行会が明治神宮外苑競技場で開催され、東京およびその近県の2万5000人と推定される出陣学徒が集結した。スタンドには推定6万5000人の送別学生が見守り、東条首相らが壮行の辞を述べた。式典の後、早大隊の中からは「都の西北」の合唱がわき起こり、スタンドから女子学生が隊列に駆け寄る光景が見られたという。

 商学部3年の市島保男はこの壮行会に行かなかった。その理由を友に次のように書いた。「何故学生のみがこれほど騒がれるのだ。同年輩の者は既に征き、妻子有る者も続々征っている。我々が今征くのは当然だ。悲壮だというのか。では妻子有る者は尚更だ。学生に期待する故と言うのか。では今迄不当な圧迫を加え、冷視し、今に至り一変するとは」。

 10月25日からの徴兵検査が迫る中、学生たちは故郷に戻っていった。文学部国文科2年の吉村友男は、名古屋へ帰る東海道線の車中、富士山がよく見えたもののミカンの販売がなかったことをもじり、「富士(不死)は見事に見え申し、ミカン(未還)は一つもこれ無きとは、何たる上ゑんぎに候か!お察し願ひたく候」と姉に書き送った。

 学徒出陣の発表で慌ただしく過ぎ去る日々の中、最上級生は11月30日付の仮卒業証書を受け、学徒たちはそれぞれ陸海軍へ一斉に入営・入団していった。

軍事訓練

 陸軍に進んだ高木、柳田、吉村は12月1日に入営、高木は東部第六部隊、柳田は東部第六十三部隊、吉村は中部第四部隊に配属となった。翌44年2月、陸軍に進んだ3人はともに幹部候補生に採用され、5月高木と柳田は前橋陸軍予備士官学校へ、吉村は福知山の中部軍教育隊へ入った。

 一方、海軍へ進んだ近藤と市島は、1943年12月10日に海兵団に入団、翌44年2月1日、第十四期飛行専修予備学生として共に土浦海軍航空隊へ配属、5月25日には市島は谷田部、近藤は出水の海軍航空隊へ転属となった。

 戦局は一段と悪化した。1944年7月、サイパン島の日本軍が玉砕した。絶対国防圏が崩壊し、日本軍はフィリピンへの兵力集中をはかった。フィリピンがアメリカ軍に奪回されれば、日本と南方資源地域の海上交通線が遮断され、日本の戦争遂行は絶望的になるからであった。前橋の高木と柳田は卒業を待たずに、550名の同期とともに第十四方面軍教育隊へ転属となり、吉村も南方派遣が決定した。いずれもフィリピン戦へ投入されたのである。

戦場

南方へ出発する直前の前橋陸軍予備士官学校生 於福岡市 1944年9月下旬 新谷照氏寄贈 大学史資料センター所蔵
左端柳田喜一郎、左から3人目高木多嘉雄 柳田も高木も、ともにこの写真を東京の家族に送った。柳田、高木とも、生前の姿を写した最後の写真と見られる。

 1944年10月18日、フィリピン西方海上、吉村の乗り込んでいた輸送船がアメリカ軍の魚雷攻撃を受け沈没した。レイテ島にアメリカ軍が上陸を開始する2日前のことだった。海へと沈みゆく吉村の最期を知る手掛かりはない。

 一方、高木と柳田は11月11日にマニラに入港したが、レイテ沖海戦の敗北で、すでに日本海軍の連合艦隊は壊滅し、食糧や弾薬の輸送も困難な状態に陥っていた。

 翌45年1月アメリカ軍のリンガエン上陸に伴い、日本軍はルソン島北部への転進を開始した。山岳地帯に兵力を集め、持久作戦を採ったのである。第十四方面軍教育隊も北部へと移動を開始、アメリカ軍が迫りくる2月、教育隊の卒業を機に高木は第十九師団へ、柳田は第百三師団に転属となった。

 高木は第十九師団へ向かっていた。だが山岳地帯に陣を構える師団へ行くのに地図はなかった。食糧もほとんどなかった。キャンガンまで達した時、高木はアメリカ軍戦闘機による機銃掃射を受けた。3月30日のことだった。

 柳田を待ち受けていたのは、サラクサク峠をめぐる攻防戦だった。アメリカ軍との激戦が続いた。柳田は機関銃小隊長として昼尚暗き密林地帯の溪谷を、磁石1個を頼りに戦った。4月10日戦闘の最中、柳田の頭部から顔面に銃弾が貫通した。

 1945年3月末、アメリカの機動部隊は沖縄諸島に猛攻撃を加え、4月1日、沖縄本島に上陸した。4月5日、航空兵力により沖縄周辺のアメリカ軍に特攻攻撃を加える菊水作戦が発動された。名古屋航空隊から第二国分基地へ移った近藤は、出撃直前、姉に宛て遺書を書いた。そして4月28日沖縄へと出撃した。

 この日、菊水作戦を指揮する宇垣纏第五航空艦隊司令長官は、日記に次のように書いた。

「特攻も其の成果下火なるが如し」。

 翌29日、市島保男が鹿屋基地から出撃した。出撃当日の市島の日記の末尾には、聖書の言葉が残されていた。

「人若し我に従はんと思はゞ己れを捨て己が十字架を負ひて我に従へ」(マタイ伝16章24節)

 敗戦まで100日余りのことだった。

 柳田喜一郎がどのような学生時代を送ったのか、わからない。今に残る彼の遺品は、前橋陸軍予備士官学校時代のアルバム、唯一冊だけである。その末尾には、墨痕鮮やかに次の言葉が記されている。

「憧れの南の国へ 美しき夢を懐いて 懐しの故国を去る
 さらば父母よ 友よ 幸福あれ」

 2013年3月現在、早稲田大学の戦没者は4736名を数える。うち学徒出陣以降の学徒の戦没者数は500名を超えると推定される。そして全戦没者の7割近くが、実に1944年以降に集中する。

2013年度春季企画展示

「ペンから剣へ—学徒出陣70年—」
会期:2013年3月25日(月)~4月27日(土)
※日曜閉室
会場:早稲田キャンパス2号館1階 會津八一記念博物館 企画展示室

望月 雅士(もちづき・まさし)/大学史資料センター

早稲田大学大学史資料センター嘱託 早稲田大学教育学部非常勤講師。早稲田大学文学研究科博士後期課程退学。共編に『風見章日記・関係資料』(みすず書房)、『佐佐木高行日記』(北泉社)。共著に『枢密院の研究』(吉川弘文館)など。