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「大正デモクラシー」期の早稲田展によせて

高橋 央/早稲田大学大学史資料センター助手

創立30年祝典で演説中の大隈重信総長。
早稲田大学大学史資料センター所蔵

 今年2013年は、1913(大正2)年に創立30周年の記念祝典において大隈重信総長が早稲田大学教旨を宣言してから100周年にあたる。大学史資料センターでは本年度秋季企画展として、教旨が制定された1910年代から1920年代にかけての「大正デモクラシー」期の早稲田大学の歴史を再考すべく、本展を開催することとなった。

 1910年代から1920年代にかけての早稲田大学は、「大正デモクラシー」という新しい時代潮流の中で早稲田大学も新たな発展を模索した時代であった。大学の発展の中個性豊かな教員、学生が大学に集い、早稲田の街の人々があたたかく大学を支えてくれる中、将来の大学像をめぐって対立が生じることもあった。本展ではこのような変革の時期の早稲田大学の歴史を、展示資料を通じて御覧いただくものである。以下、展示する資料を一部御紹介させていただく。

教旨制定—高田早苗の回想から—

 1913(大正2)年の創立30周年祝典の実施と、教旨制定において中心的な役割を果たしたのが、早稲田大学初代学長(後第3代総長)の高田早苗であった。高田の伝記である『半峯昔ばなし』(早稲田大学出版部、1927年)の中に、祝典の実施と教旨制定にいたる経緯が説明されている。

 『半峯昔ばなし』によれば、政治、経済、法律、文学、商科、高等師範の上に理工科を加え、早稲田大学(1902(明治35)年に東京専門学校から早稲田大学へ改称。1920(大正9)年に大学令による大学となるまでは専門学校令の適用を受けていた)を事実上の総合大学とする第二期計画がほぼ完成した為、その事を世間に発表する事と、寄附者へ感謝の意を表する為、30周年の祝典を実施することを計画した事が述べられている。

 創立30周年祝典は1913(大正2)年10月17日に実施されたが、この祝典の実施にあたり、高田が最も重視したのが、早稲田大学の教育理念としての早稲田大学教旨を制定する事であった。高田によれば、坪内逍遥、天野為之、市島謙吉、浮田和民、松平康国といった人々と相談の上草案を作り、大隈総長が閲覧した上、祝典で大隈総長に宣言してもらう事にしたという。こうして今日まで早稲田大学の教育の基本理念を示す基本文書としての早稲田大学教旨が宣言された。教旨の碑文は1937(昭和12)年に早稲田大学正門前に設置され、今日に至っている。

『校風漫画』に見る「大正デモクラシー」期の学生生活

近藤浩一路『校風漫画』より「ストーブの誇り」(博文館、1917年)。早稲田大学大学史資料センター所蔵。

 いつの時代も早稲田大学の主役は個性あふれる学生達であるが、ここでは「大正デモクラシー」期の学生生活を感じられる史料を紹介したい。

御紹介するのは漫画家近藤浩一路による『校風漫画』(博文館、1917年)である。これは早稲田大学、慶應義塾大学をはじめ様々な大学・学校の学生生活を生き生きと描いたものである。ここでは早稲田大学に関する近藤の漫画から、当時の早稲田大学生の生活をかいまみたい。

 早稲田大学大学部理工科の学生に関するエピソードと漫画として、「ストーブの誇り」というのがある。当時の理工科の学生が、ストーブを備えた「ドローイングルーム」、即ち設計室に弁当三人前を持って朝の6時から夜の10時まで立て籠もり、猛烈に勉強するのだが、ストーブと電灯の使用の多さに教務課が閉口しているが、勉強のためなので叱ることもできない、というエピソードが文章と漫画で説明されている。この時代の理工科学生の熱心さと、教務課が経費に閉口しながらも学生を支援している様がうかがえてほほえましい。

早稲田騒動における尾崎士郎の主張

 早稲田大学は、1920(大正9)年大学令による大学となり、政治経済、法、文、商、理工の5学部、高等師範部(後の教育学部)、専門部に加え、高等学院を開校し、大学としての規模を格段に拡充させた。1910年代から1920年代にかけて、学生数も増え、学校の規模も大きくなる中で、早稲田大学が如何なる方向、方針で発展するべきかというビジョンは、大隈重信、高田早苗といった大学幹部、教授等教職員、そして学生もそれぞれに持っていた。しかしそれは必ずしも同一という訳ではなく、大学の発展を考えるなかで、目指すべき大学像の相違が時に鋭い対立を生みだした。そのような事件の代表例が1917(大正6)年の早稲田騒動であり、1923(大正12)年の軍事研究団事件であった。ここでは早稲田騒動の際の尾崎の史料から、そのような大学像の対立のせめぎあいを見ることにしよう。

 1917(大正6)年の早稲田騒動は、高田早苗前学長の復帰を望む「高田派」と、天野為之学長の留任を望む「天野派」に大学幹部・教職員・学生がわかれて対立した事件である。早稲田騒動は確かに学長の地位をめぐる対立であり、感情的な対立があった事は事実である。しかしその一方で、大学を如何なる方針で発展させるべきか、という問題における見解の相違からの対立でもあった事は見逃せない。高田早苗前学長の復帰を望む「高田派」が期待したのは、高田早苗の大学経営者としての手腕であり、彼のリーダーシップの下での大学発展を希望したのである。之に対し、現任の天野学長のもとでの大学改革を主張したのが「天野派」であった。

尾崎士郎「天野学長の留任を強要す」『青年雄弁』1917年9月号。早稲田大学大学史資料センター所蔵。

 早稲田騒動当時、早稲田大学大学部政治経済学科の学生であった尾崎士郎は、1917(大正6)年9月号の雑誌『青年雄弁』に「天野学長の留任を強要す」を寄稿し、天野学長を擁護する論陣を展開している。

 尾崎によれば、この問題は高田、天野のどちらが学長にあるべきかという問題ではなく、「Democratic Basis(民本的基礎)の上に立て学校の制度、組織を改定する事」が重大な問題であるという。そしてこのような改革を実行するのは退任した高田前学長ではなく、現任の天野学長が実行するのが筋、という論を展開しているのである。

 このように早稲田騒動は大学経営の辣腕者として期待された高田前総長の復帰を目指す「高田派」と、天野現学長のもとでの「民本的」大学改革を志向する「天野派」の対立という側面を有していたのである。ともに早稲田大学の発展を願いながら、方針の相違から残念な対立が生じたのである。そしてそれは、天野派が「民本的」という用語を用いたように、「大正デモクラシー」の時代の思想潮流の影響を受けていたのである。

 本展では他にも様々な資料を展示し、「大正デモクラシー」期の早稲田大学の動向、また教員や学生の動向、そして大学像が対立した早稲田騒動や軍事研究団事件を取り上げ、この時代の早稲田大学の動向を多角的にごらんいただける様つとめる予定である。ご足労いただいた皆様に、「大正デモクラシー」期の早稲田大学を実感していただければ開催者として幸甚である。

2013年度秋季企画展 「大正デモクラシー」期の早稲田

「大正デモクラシー」期の早稲田展ポスター

期間
2013年10月8日(火)~11月4日(月)
会場
早稲田キャンパス 大隈記念タワー10階 125記念室
時間
10時より18時
閉室
10月13日(日)・10月27日(日)・10月31日(木)
主催
早稲田大学大学史資料センター
お問合せ
042−451−1343

高橋 央(たかはし・あきら)/早稲田大学大学史資料センター助手

1976年生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位修得退学。2011年より現職。専門は近代日本政治思想史。論文に「『新人』における吉野作造の政党論—日露戦争期に着目して—」『近代日本の政党と社会』(日本経済評論社、2009年)所収など。