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金 志虎(きむ・じほ) 略歴はこちらから

『池部政次コレクションの中国明清の書画』展

金 志虎/早稲田大学會津八一記念博物館助手

 早稲田大学政治経済学部出身の池部幸雄(1911~2013、1935年卒業)氏は、早稲田大学に會津八一記念博物館が設立されることを伝え聞き、博物館の開館直前の1998年3月に、中国明清時代を中心とする書画などのコレクションを当館に寄贈されました。書籍、絵画、拓本、清朝の歴史資料など、総数270点からなる膨大なコレクションです。このコレクションは幸雄氏のご尊父池部政次(いけべ・まさじ、1877~1925)氏が中国で蒐集したもので、中国だけでなく朝鮮や日本の文人書画の作品も含まれており、清末民初期に活動した作家の作品が多いです。

1906年頃の池部政次氏とみつ子夫人(南京分館主任の時)

 政次氏は、熊本県菊池市出身で、1899(明治三十二)年3月に台湾総督府海軍参謀長の黒岡帯刀が当時海軍軍令部長であった伊東祐亨に送った「清国福州在留本邦人」の報告によると、ここには「外務省留学生 池部政次」と記されていることから、19世紀末に外務省の留学生として中国福州へ赴いたことが知られます。当時の明治政府は1894年の日清戦争以降、中国語の運用が可能な人材を確保するために留学生制度を設けて日本人留学生を清国へ派遣していました。この留学制度は主に対清外交の実務官僚を養成することを目的としていたため、政次氏も留学後は中国在住の外交官として幅広く活動しました。外務省の文書を手がかりに政次氏の略歴を探ってみると、1906年頃は上海総領事館南京分館の主任、1909年頃は杭州(浙江省)領事館の事務代理、1914(大正三)年頃は長沙(湖南省)領事館事務代理、1919年頃は鄭家屯(吉林省)領事館の領事、そして、1922年には北京日本公使館の三等書記官として活躍していたことが確認できます。

 1924年に起きた中国での政治事件は日本の外交官として活躍した政次氏ぬきには語れません。以下、この事件について述べてみます。すなわち、この年の11月に、ラスト・エンペラーとして知られる清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ、1906~1967、宣統帝在位:1908~1912)は馮玉祥によるクーデタによって紫禁城から追放されることになりました。当時溥儀は1912年に起きた辛亥革命によって皇帝から退位していたものの、清室に対する優待条件によって、それまでどおり紫禁城で暮らしていました。しかし、馮玉祥は清室に対する優待条件の修正を強要し、それによって溥儀は紫禁城から退去を命じられます。溥儀の帝師(家庭教師)として活躍し、後に溥儀との交流を描いた『紫禁城の黄昏』の著者であるスコットランド人のレジナルド・フレミング・ジョンストン(Reginald Fleming Johnston、1874~1938)をはじめ、羅振玉(ら・しんぎょく、1866~1940)や鄭孝胥(てい・こうしょ、1860~1938)、陳宝琛(ちん・ほうちん、1848~1935)など、溥儀の側近らは慌てて安全な場所を探し始めました。とりあえず溥儀が生まれた醇親王府に逃げましたが、馮玉祥側の厳しい監視もあって、ほぼ軟禁状態になります。このような状況を打開するために溥儀の側近たちは、外国の公使館に助けを求めるなど、馮玉祥に圧力をかけようと腐心するものの、苦しい状況にかわりはありませんでした。溥儀の側近らは、溥儀を外国の公使館へ亡命させる計画を立て、その後、鄭孝胥の活躍によって北京の日本公使館へ避難することになりました。当時日本公使館の三等書記官であった政次氏は、溥儀らが日本公使館に避難した初日から安全に滞在できるように努めました。政次氏は公使館でも屈指の中国語使いであることを利用して、溥儀やその側近らと親交を深めていきます。とくに羅振玉や鄭孝胥との交流において清室の存続を望む発言や、溥儀の師傅として公使館に一緒に避難した陳宝琛がかつて福州での留学時代の恩師であったことから、清室の王公や遺臣からの信頼はきわめて篤かったようです。政次氏と清室との親密な関係については、溥儀やその側近らから贈られた書画がコレクションの多くを占めていることからも想像できるでしょう。

陸■(日+為)_双松図

満州語文書

 日本公使館で3ヶ月ほど安全な生活を送った溥儀らは、より安全な場所を求めて北京から天津へ移動することを決めました。しかし、溥儀の政治的な影響力を警戒する新政権からみると、溥儀の行動は好ましくないため、自由に動ける状況ではありませんでした。そこで政次氏は、北京の停車場にイギリス公使があらわれるという情報を手に入れ、それによって混雑になる時分を見計らって、溥儀を北京発天津行の特別列車に乗せ、無事天津まで案内しました。またその翌日には、溥儀の夫人である婉容と文綉に政次氏の夫人(みつ子氏)らが付き添って天津へ移動しました。その後、溥儀は満州帝国の執政と皇帝、そして第2次世界大戦終了後は捕虜、戦犯、一般平民として生きましたが、こうした溥儀の波乱万丈な人生は政次氏の活躍あってのことであることはいうまでもないでしょう。

エジプトの壁画拓本

 政次氏は、休日を利用して石碑などの金石文の拓本を自ら取りに出かけていたようで、池部政次コレクションにはご自身の手拓とみられる作品が多くみられます。また、公使館での任務として日華(中日)絵画聯合展覧会にも携わっており、両国の画家や政治家とも親交を深めていました。その証としてコレクションには、日中を問わず当時の政治家、軍人、文人から贈られたと思われる作品が多く含まれています。

 政次氏が生前から大切にしていたコレクションは、みつ子夫人と幸雄氏によって大事に守られ、幸いにも本企画展での初公開に至りました。今年の7月、池部政次コレクションの企画展の報告を兼ねて幸雄氏を訪れましたが、惜しくも5月に逝去されたことを知らされました。政次氏が築いてきた中国での人的交流とコレクションについて直接語る人は今やいませんが、政次氏から伝わったものを次代に伝えることによって、当時の複雑な国際情勢をうかがい知ることができます。ここに池部政次コレクションの公開意義の一端もあるでしょう。

金 志虎(きむ・じほ)/早稲田大学會津八一記念博物館助手

1977年韓国ソウル生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。専門は東洋美術史。論文に「当麻寺創建期の本尊について」『てらゆきめぐれ—大橋一章博士古稀記念美術史論集—』(中央公論美術出版、2013年)所収など。