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「世界への跳躍、限界への挑戦
——早稲田スポーツの先駆者たちとその時代」展に寄せて

伊東 久智/早稲田大学大学史資料センター助手

【写真1】本展示会のポスター

 2020年の東京でのオリンピック開催決定、そしてソチ(ロシア)で開かれた冬季オリンピックと、昨年から今年にかけて、オリンピックをめぐる話題が盛り上がりをみせています。そうしたなかで、オリンピックの理念や歴史に対する関心も、高まりつつあるように感じます。

 近代オリンピック復活の父と称えられるピエール・ド・クーベルタン男爵は、かつてこう述べています——「その人が成功したかどうかを決めるめやすは、勝利者であるかどうかではなくて、努力をした人であるかないかである」。本展示会が描こうとしたのは、男爵が理想としたようなスポーツマンシップを体現し、かつオリンピックの歴史に確かな痕跡を残した早稲田スポーツの先駆者たちの姿です【写真1】。

 なかでも、本展示会がスポットを当てた早稲田大学競走部は、今からちょうど100年前に発足し、昭和初期という激動の時代に黄金時代を迎えました。その立て役者にして、本展示会の主役である4人のアスリート——沖田芳夫・織田幹雄・南部忠平・西田修平【写真2】の名前は、耳にしたことがある方も多いのではないでしょうか。

【写真2】左から沖田芳夫・織田幹雄・南部忠平・西田修平

 この4人は、いずれも日本——世界の陸上界に輝かしい記録を残しており、そのうちの1人に焦点を絞ったとしても、展示会場を資料や写真で埋め尽くすことができるでしょう。しかし本展示会では、4人の足跡や成績をただ並列するのではなく、4人の人間性や友情に光を当てようと試みました。それは、個人の素質のみが、彼らを世界的な競技者たらしめたのではなく、その背景には、自己に鞭打つモチベーションや、切磋琢磨する仲間の存在があったと考えたからにほかなりません。以下、そうしたドラマの一端に触れてみましょう。

 織田や南部といった後の金メダリストが陸上競技と出会ったのは、実はそれほど早いことではなく、1920年代の初頭——中学高学年になってからのことでした。しかもその頃というのは、まだ競技に対する認知度は低く、指導者・指導書の類も求めて得られるものではありませんでした。

 そのため、彼らはまず何にもまして情報に飢えていました。1㎝でも遠くに跳ぶには、1秒でも速く走るには、どうすればよいのか——。つまり、彼らは独立した競技者である前に、探求者として五里霧中のなかを歩まなければならなかったのであり、だからこそ、情報を交換し、技術を盗み合う仲間やライバルの大切さを理解することができたともいえるでしょう。

 早稲田大学に入学した先駆者たちは、現在文学学術院の校舎が建っている辺りにあった1周わずか280mほどのグラウンド(というよりは「原っぱ」とでもいったほうが実態に近いのですが)で日々汗を流しました。「雪の日や円盤投げの沖田さん」との一句が物語るように、練習は文字通り毎日行われ、銭湯への道中もバトンパスの練習に励んだとのエピソードもあるように、生活すなわち練習といった時間が部員たちの間では共有されていました。

【写真3】南部忠平のユニフォーム(上・北海道開拓記念館所蔵)と織田幹雄のスパイク(下・広島県安芸郡海田町所蔵)

 広島一中時代からの親友同士であった沖田と織田は、同じ下宿のなかで、畳をトラックに、鴨居を高跳びのバーにみなすような生活を送ったといいます。また、北海中学から上京してきた南部は、そうした環境のなかで、すでにひとかどの競技者となっていた織田の写真を下宿に貼って自らを奮い立たせたといい、織田も帰郷できずにいる南部を自らの郷里に誘うなど、親密な人間関係が構築されていったのです【写真3】。

 そして1928年——。この年、沖田・織田・南部・西田の4人が早大競走部に勢揃いし、黄金時代の幕が開けます。すでに国内に敵なしとして標的を海外に定めていた彼らは、山本忠興監督の奔走もあって、イギリスの名門・ケンブリッジ・オックスフォード両大学の学生・OBからなるアキレスクラブと対戦。僅差で敗れたとはいえ、単独チームによる海外遠征は日本陸上史上初の快挙でした。

 直後のアムステルダムオリンピックでは、三段跳びで織田が日本人初の金メダルを獲得。ついに世界の頂点に上り詰めました。決勝前日、プレッシャーに押しつぶされそうになっていた織田は、「競技とは自分が全力をだしたかどうかであり、順位というのは問題でない」というアキレスクラブの選手の言葉を思い起こし、ようやく眠りに就くことができたといいます。なお、出場した日本男子陸上メンバーは16名、そのうちの9名までが早大競走部の猛者たちであったということも付言しておきましょう。

 その後、早大を卒業して同じ大阪に職を得た織田と南部は、ともに練習に励むなかで、1931年10月27日、同じ競技会場において立てつづけに世界記録を樹立します(織田・三段跳び15m58、南部・走り幅跳び7m98)。織田の偉業が、それを目の当たりにした南部の偉業を呼び寄せたといっても過言ではないでしょう。そして翌年のロサンゼルスオリンピックでは、直前に足を故障した織田の無念を背負って、今度は南部が三段跳び金メダル、走り幅跳び銅メダルという快挙を達成するのです。

 そのオリンピックで、やはり銀メダル(棒高跳び)に輝いた西田は、もともと無名の選手に過ぎなかったといいますが、新入生の頃から居残り練習を積み、そうしたひたむきな姿は、先輩である織田の目にも映っていました。織田は時折西田にアドバイスをしたといい、西田はそんな日には、「下宿へ帰った後も、うれしくて思い出しては快哉を叫びたくなることもあった」と回想しています。

【写真4】2枚の「友情のメダル」 左は西田修平旧蔵(大学史資料センター所蔵)、右は大江季雄旧蔵(個人蔵)

 しかし、西田の名前をスポーツ史上に刻み込んだのは、何といっても1936年のベルリンオリンピックにおけるライバル・大江季雄(慶應義塾大学)との手に汗握る闘いと、その結果誕生したいわゆる「友情のメダル」のエピソードでしょう。すなわち、2位・3位のいずれかであることが確定した時点で2人は競技を止め、帰国後、銀メダルと銅メダルを折半して接着。それらを分有することを選んだのです【写真4】。なお戦後、この「友情のメダル」の物語は美談として教科書にも記載されましたが、その文章を執筆したのは、西田が誰よりも尊敬し、また西田を見守りつづけてきた織田幹雄その人でした。

 もしも、という仮定は意味をもちませんが、それでも、もしも戦雲が遠のいていたならば、すでに開催が決定していた「東京オリンピック」(日中戦争の激化により返上)において、西田らにつづくような新星が栄光に浴していたことでしょう。しかしいうまでもなく、その後に待っていたのは、陸上競技大会が「陸上戦技大会」と改称されてしまうような時代でした。

 日米の開戦前後、南部は幾度か沖縄を訪れ、学校でコーチングを行っていましたが、そこで見知った生徒の多くは、生きて終戦を迎えることはできませんでした。また、従軍した西田はかろうじて戦地からの帰還がかなったものの、ベルリンの「戦友」・大江は銃弾に倒れました。

 そうした時代を生き抜いた4人の先駆者たちは、戦後、かつての自分たちと同じように、世界を相手に戦える人材の育成に奔走することとなります。それはいわば、第二の陸上人生のはじまりでした。そして今からちょうど50年前の1964年10月10日、東京——。「幻の東京オリンピック」から24年の歳月を経てようやく実現した母国でのオリンピック開催を、彼らは万感の思いをもって迎えたことでしょう。そのとき、織田は陸上日本選手団強化本部長、南部は同副部長(織田の指名)、沖田(早大競走部監督)と西田は強化コーチとなっていました。

 最後になりますが、本展示会では、織田のスパイクや南部の早稲田時代のユニフォーム、そして西田・大江の2枚の「友情メダル」など、一度に観ることが難しい貴重な資料の数々が一堂に揃います。「早稲田」という枠を超えて、スポーツ愛好家のみなさまはもちろん、普段スポーツに接する機会の少ないみなさまにも、温故知新、明日につながる新しい「発見」をもたらすことができれば幸いです。

2014年度春季企画展 世界への跳躍、限界への挑戦——早稲田スポーツの先駆者たちとその時代

会期:2014年3月24日(月)〜4月25日(金)
会場:早稲田大学 早稲田キャンパス2号館 會津八一記念博物館1階企画展示室
時間:10:00〜17:00(入館は16:30まで) ※入場無料
休館:日曜日
主催:早稲田大学大学史資料センター (※会期中、左のリンクよりポスター画像とチラシがダウンロードできます)
※3月25日(火)、4月1日(火)の両日、14:00よりギャラリートーク(無料・参加申込不要、定員20名程度)を開催いたします。是非足をお運び下さい。

伊東 久智(いとう・ひさのり)/早稲田大学大学史資料センター助手

1978年生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程を経て、2011年4月より現職。専門は日本近現代史。