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市川 真人(いちかわ・まこと) 略歴はこちらから

早稲田と文学と「早稲田文学」

市川 真人/早稲田大学文学学術院准教授

 犬も歩けば棒に当たる、石を投げれば〇〇に当たる――慣用句だから〇〇にはどんな言葉を入れてもよいけれど、早稲田界隈を歩いていると、なるほど「ワセダ」もしっくり入ります(といってもちろん、石など投げて相手に怪我をさせてはイケナイ)。地名だからそこここに書いてあるのはもちろんですが、なにしろ1学年ごとの学生数だけでほぼ1万人、キャンパス全体では大学院生含めて5万3千人の「ワセダ」生がいるわけで、専任・非常勤の教職員や、卒業してもあたりに住まい続ける卒業生まで含めれば、ちょっとした地方都市なみです。

(左上から時計回りに)三田誠広、重松清、堀江敏幸(撮影:森清)、角田光代(撮影:三原久明)

 そんな「ワセダ」に同じくらいよく出会うのが文芸の世界で、世にいちばん知られる文学賞・芥川賞と直木賞の受賞者だけを数えても、早大出身者は抜きんでています。芸術性の高い純文学の若手に与えられる芥川賞は、第一回(1935年)の石川達三を皮切りに、八木義徳や三浦哲郎、三田誠広を経て、辺見庸、堀江敏幸から綿矢りさ、黒田夏子まで30人。幅広く読まれる良質な中堅の大衆小説に与えられる直木賞は、第二回の鷲尾雨工や第六回の井伏鱒二に始まり、立原正秋、五木寛之、野坂昭如、阿刀田高、青島幸男から、重松清、角田光代、三浦しをん、朝井リョウまで多士済々の35人。

 なかに卒業生だけでなく、井伏を筆頭に中退者の少なからず含まれているのはご愛嬌ですが、二位三位の東大の20人(芥川賞)と13人(直木賞)、慶應の9人と14人(同)と比べても、数だけとれば圧倒的に多い。もちろん卒業生の数も多いから単純には比べられませんが(学部と大学院あわせて、東大は約3万人、慶應は約4万人)、上記二賞以外の受賞者や、まだ受賞歴はないが小説家として活躍しているひとたち、さらには詩人や批評家・翻訳家、出版社の社員やフリーのライター・書評家、編集者、それに新聞の文芸記者や文芸担当で知られる書店員など、仕事がら知り合う文芸関係のひとたちには、なんでそんなに多いかと驚くほどに、たくさん「ワセダ」のひとがいました。

 しかし考えてみれば、日本の近代文学の第一歩を記したのも、やはり「ワセダ」のひとでした。ときは明治18(1885)年、当時東京専門学校(のちの早稲田大学)の講師だった坪内逍遙は『小説神髄』なる書物を著し、西洋文学を参考にして「小説の主脳は人情なり。世態風俗これに次ぐ」と、それまでの江戸戯作文学とは一線を画した「小説 novel」を提唱します。これが日本の近代小説の始まりの一歩とされ、二葉亭四迷の最初の言文一致小説『浮雲』につながる一方、シェイクスピアの訳者で新劇の創始者・島村抱月や、谷崎潤一郎の弟で英文学者の谷崎精二、童話作家の小川未明ほか、ときに「逍遙チルドレン」とも呼ばれる愛弟子たちが各界に散って逍遙さんの思想や影響を広げて行ったのだから、私たちはみな坪内逍遙の子どもだといえば言えそうです(とはいえ、逍遙が卒業したのは東京大学文学部政治学科だから、ワセダだけのひとと言うべきでもないのですが。逆に、夏目漱石は牛込馬場下町で生まれ、1892年には東京専門学校の講師を務めてもいますから、そのころ石を投げれば漱石さんに当たったかもしれません)。

(左から)坪内逍遙、島村抱月、小川未明

 そんな坪内逍遙が、早稲田大学の初代学長でありのちに文部大臣ともなる批評家・高田早苗らの支援を受けて新時代の文学を担う場として創設したのが早稲田大学文学部(当時は文学科)でした。そうして、広く世間にそこでの知を届けるべく最初期の文芸雑誌として同じく逍遙の手で創刊されたのが「早稲田文学」でしたから、先に名前を挙げた文学者たちもみなその雑誌で活躍している……と書きたいところですが、じつは決してそんなことはありません。2013年1月に発表された第138回芥川賞で、早稲田文学新人賞受賞作の黒田夏子「abさんご」が同誌54年ぶりの受賞だったことにもわかるとおり、文芸雑誌としての「早稲田文学」は、積み重なった歴史と伝統こそあれ、決して大きな媒体ではないのでした。

 その直接の要因は、第一には「早稲田文学」があくまで大学が運営する非営利の雑誌で、海外の先端文学の紹介や(そのあたりについても、このシリーズの二回目で、現・編集人で僕の先輩にあたる貝澤哉・文学学術院教授に触れてもらえるかと思いますが、たとえば20世紀の世界文学を代表するアイルランドの作家ジェイムズ・ジョイスの、「翻訳不可能」とされた実験長篇『フィネガンズ・ウェイク』を、鈴木幸夫・野中涼・柳瀬尚紀らが共同で翻訳を試みた舞台も「早稲田文学」でした)、国内の新奇な文学的試みの意欲的な批評と紹介(初期の大きな出来事としては、日本の自然主義文学の鏑矢とされる田山花袋『蒲団』を、大々的な合評をしていちはやく評価しています)などを主眼としてきたことにあります。

 運営の性質上、「売れる」ことを主目的にもしなければ、書店に長く残ったり増刷を重ねて人々に知られることで採算上も影響力上も大きな意味を持つ単行本の刊行も、原則としてしないので(早稲田文学掲載作で史上もっとも売れたのはおそらく、70年代末に女子大生作家ブームを作り映画化もされた見延典子『もう頰づえはつかない』ですが、単行本は講談社から刊行されています。川上未映子の最初の芥川賞候補作『わたくし率 イン 歯ー、または世界』も講談社、黒田夏子『abさんご』の単行本は文藝春秋でした)、いわゆる文学愛好者や実作者、制作現場にかかわるひとたちにはコアに読まれてはいても、ベストセラーの版元となったり、よく売れる小説の掲載媒体となることもほとんどありませんでした(だから、立原正秋はじめ直木賞受賞者たちが編集にかかわることはあっても、掲載作品の直木賞受賞とは無縁なままです)。

「早稲田文学」から生まれた作品。左から見延典子『もう頬づえはつかない』、盛田隆二『ストリート・チルドレン』、川上未映子『わたくし率 イン 歯ー、または世界』、松田青子『スタッキング可能』】

第8次早稲田文学編集人を務めた平岡篤頼

 もうひとつの要因は、その立原さんが「早稲田と慶應、同じ力量なら慶應出身者を使う」と宣言したとおり、伝統的に「ワセダに偏重しない」編集方針があることです。「早稲田の名前がつく雑誌なのだから、早稲田出身者を重用すべし」と考えるむきもありますが、それでは媒体の社会的信用をいささか欠くし、日本文学全体の発展のためにもよろしくない。といって、早稲田出身者を差別するのではもちろんなくて、慶應であれ東大であれひいては世界文学と比較してであれ、それを上回る力量を示してほしい、というわけです(だから先の方針は、日本文学と海外文学、同じ力量なら海外文学を掲載する、ということでもあります)。

 逆に言えばそれは、早稲田出身者には外部の媒体、たとえば慶應義塾大学の発行する「三田文学」で、あるいは大手出版社の出す商業文芸誌で、それぞれの出自を超えて活躍してほしい(そして世界でも通用する書き手になってほしい)、という願いでもありました。90年代以降で言えば、角田光代は第一文学部文芸専修の在学中に、「早稲田文学」の当時の編集人だった故・平岡篤頼名誉教授に学び、学科の優秀作を載せる学内誌「蒼生」にも作品が選ばれて、卒業後も関係者との私的な親交は続きましたが、活躍の舞台は外部の商業文芸誌でした。重松清も平岡さんの引きで学生時代に「早稲田文学」の学生編集員を務め、卒業後に出版社勤務を経て編集室チーフとして制作にあたっていましたが、「早稲田文学」に作品を掲載したのはそれから20年以上経ってのことです。数々の文学賞を得つつ今は教授として早稲田の教壇にも立つ堀江敏幸は、卒業論文を短いエッセイ風の文章に書き直したものを「早稲田文学」に投稿し掲載されたのがデビュー作ですが、本格的な執筆活動はフランス留学からの帰国後、白水社の雑誌連載でした。新しい才能を発見し、さまざまなカタチで背中を押しつつ、大きな成果は広い世界で(宣伝力や販売力のある媒体のもとで)手にしてもらう。他方、のちに「乳と卵」で芥川賞をとることになる川上未映子や、「おいしい水」でベストセラー作家となる盛田隆二、「スタッキング可能」で三島由紀夫賞などの候補となる松田青子らに代表される、ワセダ出身でない才能には、その出発に最大限に手を貸す。そんな編集方針は、かつてもいまも変わらぬままです。

立原正秋「復刊の辞」(「早稲田文学」1969年2月号)「早稲田出身者と三田出身者の原稿がそろい、同水準である場合、私は三田出身者の作品を採ります。」

 商業的であることにも、わかりやすい愛校心や出身校との距離感に対しても、ときに天の邪鬼とも見えよう「早稲田文学」のそうした編集方針は、しかし、「文学とはなにか」「どうあらまほしいか」という理念に基づいています。逍遙さんが『小説神髄』を書いた1885年は、東京専門学校設立のわずか3年後、むろん小説のマーケットなど存在もしませんでしたから、近代文学の成立は商業性とも早稲田大学とも基本的には無縁でした。とすれば、商業からも学閥からも無縁であろうとすることは言わば坪内逍遙の時代の精神を130年後の今日も保ち続けることでもあります。

(左から)「早稲田文学」第十次①号、芥川賞受賞作黒田夏子「abさんご」掲載の「早稲田文学⑤」、最新号「早稲田文学⑦」、イギリスの老舗文芸誌との共同編集で生まれた「Granta Japan with早稲田文学01」

 とはいえ。冒頭で記したとおり、今日の文芸界の状況は結果的にではあれワセダにかかわるひとが多数ですから、力量を優先した結果も、ひとりでに誌面にワセダ関係のひとが多くなってもくるでしょう。それは、一方では今日の東大や京大の学生たちには(明治には新しいテクノロジーだった近代小説を、東大で学んだ逍遙さんや漱石さんが志したのと同じ態度で)ITに進む者が多い一方、どこかアナクロな早大には今なお文学を志す者が多いのかもしれぬという、評価の難しい事実の反映でもありますが、同時に、そのときどきの社会状況や流行・功利に流されず、普遍かつ不変なものを求めるという、それ自体として「文学的」なありようでもあります。既存の権力やしがらみから自由であろうとする早稲田大学の“進取の精神”も、それとは無縁ではないかもしれません。結果、かつては両立しなかった、不偏不党であることと、ワセダ的であることが、期せずして近づいてきている、とも言えるでしょう。

早稲田文学フリーペーパー「WB」

 そのことは、石を投げれば当たる側の早稲田大学の在校生や卒業生の方々の(僕もそのひとりですが)うち、ワセダを愛してやまない方々にも、あまりそうではない文学好きの方々にも、どちらにも開かれている、そういう「早稲田文学」の時代が訪れつつあるのだ、と捉えることもできます。

 このところ不定期刊行だった本誌「早稲田文学」はこの8月から、文学全集や人文書、文庫などに定評と歴史のある中堅出版社・筑摩書房の流通協力を得て、季刊誌として成長を遂げます。今年の3月には、イギリスを代表する文芸雑誌「グランタ」の日本版「GRANTA JAPAN with 早稲田文学」を、国内の文学作品の海外進出をサポートするREAD JAPANプログラム(日本財団)の翻訳支援と海外文学やSF・ミステリの刊行で実績のある早川書房の流通協力のもと、同誌のイギリス編集部との共同編集で創刊しました。

 そんな前進にあわせて、早稲田大学の卒業生や在校生、それに一般の読者の方々を対象に、年4回刊行される本誌や文芸フリーペーパー「WB」特別版のほか、早稲田文学や早稲田大学の主催する文学関連の講演会などの優先入場やご案内が届く「早稲田文学倶楽部」を発足。文学に馴染みがあったり、かつて親しんでいた方々に、早稲田の、日本の、そして世界の文学に触れていただきやすくなるプロジェクトも始まっています。「視線を投げればブンガクに当たる」、そんな日々をみなさんもご一緒しませんか?

会員の投稿エッセイなども掲載の早稲田文学倶楽部会報

市川 真人(いちかわ・まこと)/早稲田大学文学学術院准教授

文芸批評家。早稲田大学第一文学部卒、近畿大学文芸学研究科修了。2013年より早稲田大学教員。専門は現代日本文学とメディア論。2000年より「早稲田文学」に携わり、同誌の批評誌化や文芸誌初のCD-ROM添付、フリーペーパー化などを手がける。著書に『芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか』(幻冬舎新書)ほか。TBS系情報番組「王様のブランチ」のブック・コメンテーターなども務める。