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「大隈文書」の世界

『大隈重信関係文書』編集担当

 早稲田大学の創設者大隈重信は、幕末・維新期から大正後期まで、多大な足跡を残した人物であり、早稲田大学図書館には大隈に宛てて送られた膨大な書翰が「大隈文書」として所蔵されている。その書き手の大半は大隈と交流があった人びとであり、また彼らは大隈に関係するさまざまな用件を書き送っているのであるから、その書翰は大隈個人の研究のみならず、日本近代の政治・経済・社会・文化等を研究する上で、極めて貴重な価値があることは言をまたない。

 そこで、早稲田大学大学史資料センターでは、センターおよび佐賀市大隈記念館が所蔵する書翰も含め、この「大隈文書」中の和文書翰を一通ずつ研究・翻刻し、これを『大隈重信関係文書』として刊行する事業を進めてきた(みすず書房刊)。創立125周年記念事業の一環として2004年10月にその第1巻を刊行し、今年度末の第11巻の刊行をもって本事業はいよいよ完結することとなる。

 ここに、各大学・研究機関などにより公刊されてきた岩倉具視、大久保利通、伊藤博文、福沢諭吉その他の翻刻資料集に加え、新たに大隈重信関係の根本資料集がその全貌を現すことになるわけである。

 この『大隈重信関係文書』(以下、『文書』)は第10巻までにおいて、その書き手は1383人、書翰数は6606通に達するという膨大なものであるが、以下にその書翰の一端を『文書』編集担当者として、ごくわずかながら紹介したい。

早稲田大学大学史資料センター編『大隈重信関係文書』(みすず書房刊)

大隈重信関係文書(増田義和氏寄贈)

1 大隈重信と造幣寮(現独立行政法人造幣局)
(大隈重信宛伊藤博文書翰 明治3年7月6日)

造幣寮一覧追々(おいおい)成功開展之期近(ちかく)に在るべし。尤(もっとも)国印之義充分ならざる処有之(これあり)、キンデル井上両人之見込に而写真図之如く変換致度(いたしたし)との事、至極よろしき乎(か)と奉存候(ぞんじたてまつりそうろう)に付(つき)同意決定仕(つかまつり)候。尤裏而已(のみ)にて表は是迄之通に御坐(ござ)候。(中略)余日無之(これなき)儀に付国印彫刻には直に為取掛(とりかからせ)申候。大坂鉄道停車処は造幣寮近傍便利之地に取(とり)極(きめ)可申(もうすべき)心得に御坐候。(『文書』第1巻196頁)
※「一覧」一通り視察し 「国印」貨幣の図柄

開通当時の鉄道(新橋駅)

 伊藤博文が大阪から送った書翰の一部である。大隈は、イギリス公使パークスとの交渉をきっかけに、維新政府内で頭角を現す。当初は外交関係の職務に就いていたが、明治2年になると、財政や内政を担当するようになり、近代化政策推進の担い手として活躍した。この頃、大隈邸は「築地梁山泊」と呼ばれており、伊藤・井上馨・五代友厚・渋沢栄一らが毎晩集まって議論し、そこから様々な改革案が生まれたという。

 その中には、新たな貨幣制度の制定や鉄道の敷設があった。政府内には反対する声も多かったが、大隈たちはその必要性を強く説き、実現に向けて精力的に活動した。伊藤が当時生じていた問題を解決するために関西に出張し、情況を報告したのが本書翰である。伊藤は大隈に造幣寮が完成間近であると伝え、キンドルと井上馨による「国印彫刻」案を送付して早急に決定するよう促している。また造幣寮近くに駅を設置して交通輸送の便を図ろうとしている。彼らが新技術を存分に活用しようとしていた様子もうかがえよう。

 このように『文書』には、当時の近代化政策の実情が手に取るようにわかる好史料が多数存在している。

2 東京専門学校法律学科の中止問題に関する書翰
(大隈重信宛小野梓書翰 明治18年6月5日)

要するに英律を教授するを以て目的とし創立したる法学部なれは、恰好(かっこう)之教師を不得(えざる)時は一時中止して之を授けさる事と致し、中途に在て仏蘭西(ふらんす)律を教授し稍々(やや)其(その)初志を変(へん)する(ずる)に近き事なき様(よう)致度(いたしたし)と存候(ぞんじそうろう)。(『文書』第3巻192頁)
※「律」法典 「稍々」少しずつ

1884年東京専門学校第1回卒業記念

 これは東京専門学校(現早稲田大学)の創設者の一人小野梓の書翰である。1882(明治15)年に開校した東京専門学校は、政治経済学科、法律学科、理学科、英学科の四学科のもと出発した。しかし創立当初の東京専門学校は資金、また教員の確保等様々な困難に直面していた。1885(明治18)年当時の法律学科は、講師の不足から学科の廃止が検討されていた。本書翰はこのような状況下に書かれたもので、小野は法律学科の設立当初の趣旨である「英律」、即ちイギリス法の教授ができる教員が得られないのであれば、「一時中止」も止むを得ないと大隈に進言しているのである。困難な状況下でも当初の理想を貫徹しようとする、小野の真摯な人柄を本書翰から見ることが出来る。大隈はこの難局に際し、苦境の中にも法律学科を維持することを主張し、学科は維持された。

 東京専門学校法律学科は後に早稲田大学法学部となる。今日の早稲田大学法学部の発展を見る時、建学当時の先人達の苦闘と努力を、この書翰からうかがうことができる。

3 大隈重信外相遭難事件に関する書翰
(尾崎行雄書翰大隈重信宛 明治22年10月30日)

謹啓 去る十八日御遭難の赴(おもむき)は翌日電報にて拝承、実(じつ)以(もっ)て驚入申候(もうしそうろう)。引続て傷部御切断の趣は愈(いよいよ)以て驚愕仕(つかまつり)候。身を以て国と君とに奉する(ほうずる)は兼(かね)て御覚悟の次第とは申し乍(なが)ら、狂人の暴行返す(かえす)/\(がえす)も残念憤懣至極に御座(ござ)候。
(中略)然れとも(しかれども)閣下の狂人の毒手に御仆(たお)れ有らさりし(ざりし)は、天の尚ほ未た(なおいまだ)日本を棄てさる(ざる)証拠と被存(ぞんぜられ)候。何卒万事を擲(なげうっ)て専心一意に御保養を事とせられ、一日も早く御快癒の程日夜希請祷望罷在(きせいきぼうまかりあり)候。(『文書』第3巻146頁)

1889年12月14日 療養中の大隈重信
※写真はすべて早稲田大学大学史資料センター提供

 憲政の神様とも称された尾崎行雄は大隈と深いつながりのある人物である。上の書翰は、爆弾による襲撃を受け重傷を負った大隈に対し尾崎がお見舞いのために書き送ったもので、2人のつながりを垣間見ることができる。

 不平等条約の改正は近代日本の宿願の1つであった。井上馨の後を受けて外相に就任した大隈は国別に交渉を行い、一部の国と新条約の締結に成功したが、イギリスは依然難色を示していた。イギリスの新聞が新条約では大審院において外国人を被告とする事件に外国人裁判官が任用されることを暴露すると、日本国内では一挙に反対論が噴出し、国論が二分される事態となった。この騒然とした状況の中で襲撃事件が発生し、大隈は外相辞任を余儀なくされ、条約改正交渉も中止された。

 尾崎はこのとき保安条例の適用を受けてイギリスに留学していた。遠い異国の地で大隈遭難を知った尾崎の驚きと憤りが文面によく表れている。尾崎は書翰中に対応が混乱した政府への不満も記しており、帰国後には立憲改進党所属の衆議院議員として政府と鋭く対立していくことになる。

 

 以上は、ほんの3書翰を紹介したにすぎないが、これらは後世に編纂・執筆された著作とは根本的に異なる、生々しい歴史の一断面を伝えてくれる。 最近、坂本龍馬が最後に書いたとされる書翰が発見され話題となったが、「岩倉具視関係資料」や「大久保利通関係資料」が国の重要文化財にも指定されたように、近代文書への評価は高まってきた。

 『大隈重信関係文書』は紙媒体の書籍のほかに、電子書籍(オンライン式、紀伊国屋書店Net Library)でも刊行している。この刊行により、本学の内外において「大隈文書」の研究と活用が、より一層活発になることを期待してやまない。

『大隈重信関係文書』編集担当