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古都宿帳―早稲田大学奈良研修旅行―

金 志虎(早稲田大学會津八一記念博物館助手)
熊谷 麻美(早稲田大学大学院文学研究科修士課程)

 日吉館は、奈良を愛した文学者、画家、彫刻家、歴史、建築史、美術史の研究者たちが定宿として利用しており、日吉館を拠点に、古都奈良を自らの仕事に取り組んでいくこととなる。そのため、日吉館は「奈良の芸術院」、「奈良の日吉館大学」とも呼ばれていた。また奈良の歴史や美術に興味を持つ若い学生たちもそうした文化人たちに憧れ、日吉館に集まってきた。

 2010年(平成22)と2014年に田村家より日吉館旧所蔵品が早稲田大学會津八一記念博物館に寄贈された。主な寄贈資料は、日吉館の屋根にあった横看板≪旅舎日吉館≫(図1)、軒下にかかっていた縦看板≪ひよし館≫、また部屋にあった≪観佛三昧≫(図2)、≪我思古人≫などがあり、これらの資料は會津八一と日吉館元主人の田村寅造氏とキヨノ氏夫妻との交流の中でやり取りされたものである。さらに上記の資料とともに1917年(大正6)からの日吉館宿泊人名簿(以下、宿帳という)も寄贈された。この宿帳には日吉館が旅館業を始めた大正時代から廃業になる1995年(平成7)までの宿泊者の情報が載っており、奈良を訪れた文化人の足跡が分かる唯一の資料といっても過言ではない。

図1:旅舎日吉館

図2:観佛三昧

 戦前の宿帳をみると、東京帝国大学や早稲田大学をはじめ、さまざまな大学の学生団体の投宿記録がある。それと同時期に文化人たちも日吉館を利用していたため、双方の交流も自然に生まれたと考えられる。戦後になると、女子大学の団体客も宿泊するなど団体客の利用も増し、個人の旅行者が宿泊を断られたこともあったという。

 現在、日吉館は廃業し、現存しないが、多くの大学は古都奈良の古寺仏を見学する奈良旅行を戦前からの伝統行事として今も続けて行なっている。こうした伝統が定着したのも日吉館という名物旅館があったお蔭である。ここでは学生旅行の一例として早稲田大学の奈良研修旅行の伝統について簡単に紹介したい。

 早稲田大学文学部の美術史コースでは毎年恒例の行事として奈良研修旅行を行なっているが、その時期は唐招提寺の鑑真和上坐像が特別開扉される六月初旬となっている。奈良への研修旅行は芸術学専攻の會津八一教授によって始められた。會津は、美術史学とは、「実物作品の研究」と「文献史料の研究」を車の両輪のごとく駆使する学問である、という信念に基づき、古都に多く伝来する美術作品を通じて学生たちに美術史の本質を体得させるために奈良への研修旅行を始めたのである。

図3:日吉館平面図(太田博太郎編『奈良の宿・日吉館』より転載)


図4:1931年8月 日吉館にて(左より加藤、會津、長島、堀江)

 會津が日吉館に宿泊したのは自身の6回目の奈良旅行からである。その後はもっぱら日吉館を定宿として利用し、訪問する際には学生とともに日吉館に投宿していた。日吉館での部屋割は参加する人数によって変動はあるものの、會津は裏の2階の一番奥の右手の部屋、男子学生は登大路に面した2階の部屋、女子学生は1階の奥の部屋が当てられたようである(図3)。日程は10日余りであり、旅行前に細かい日程表が配られていたが、同時に仏像や寺院建築の参考資料も添えられていたという。当時の学生たちは多くの寺を巡ってどうなるのだろうという不安もあったようであるが、會津としては実物の資料に触れる機会をできるだけ多く与えたかったのであろう。會津教授と学生たちの奈良旅行は20年以上続くことになる。当時の旅行の様子を伝える写真資料が数点残されているため、そうした写真資料を参考にしながら当時の奈良旅行に思いをはしらせることとする。

 會津の弟子で、金石文の研究者として知られる加藤諄(1907~2002)のコレクションには日吉館で撮影したと思われる写真がある(図4)。會津と3人の学生が写っているが、そこには「加藤會津□□堀江」というメモ書きが添えられている。そこで、會津の投宿記録を手がかりに宿帳を調べると、會津八一、加藤諄、堀江知彦、長島良三郎の4人が1931年8月に日吉館に宿泊していたことが確認できた。おそらくこの写真は右記の奈良旅行の際に日吉館で撮られた写真であろう。

 また「人間の条件」や「切腹」などの映画で知られる映画監督・小林正樹(1916~1996)も會津の教え子であり、1939年10月の奈良旅行に参加している。この旅行にカメラを持参した小林は會津と学生たちの姿を写真に残している(図5~8)。奈良旅行に参加していた学生たちにとっては、奈良で刊行された書籍を購入することも一つの楽しみであった。小林が撮影した社員には、同級生たちが書籍を購入し、雨に濡れながら日吉館に戻る様子を登大路に面した2階の部屋から捉えた写真である。現在も近鉄奈良駅周辺の商店街には古本屋が多く、今の学生たちにもこうした光景がみられるが、古本屋と日吉館のどちらも知る人々にはこの写真が懐かしく思い出されるであろう。

図5:1939年10月奈良大和研究旅行にて(小林正樹撮影、芸游会提供)

図6:1939年10月奈良大和研究旅行にて(小林正樹撮影、芸游会提供)

図7:1939年10月奈良大和研究旅行にて(小林正樹撮影、芸游会提供)

図8:1939年10月奈良大和研究旅行にて(小林正樹撮影、芸游会提供)

 會津と弟子との研修旅行は戦局が厳しさを増した1943年11月が最後となった。宿帳には最後の奈良旅行もしっかり記録されている。この旅行については参加者であった植田重雄と金田弘によって詳細に紹介されているため、ここでは省略したい。

 戦後の宿帳を見ると、「師弟が共に日吉館に泊る」という早稲田美術史の伝統を知ることができる。1923年1月30日に會津とともに日吉館を訪れた青年・安藤更生(1900~1970)は、後に文学部の教員となり、自身の弟子を率いて1947年から1959年にかけて日吉館を利用している。1929年4月の宿帳には小杉一雄(1908~1998)の名が確認できる。そこには會津の名は記載されていないが、この時期に會津は奈良に滞在していたため、弟子たちと共に日吉館に宿泊したと思われる。後に、小杉も1960年と1965年に学生を引率して日吉館に宿泊している。それに続き、佐々木剛三、吉村怜、村重寧、星山晋也、大橋一章、丹尾安典などの教員も学生たちを率いて日吉館に宿泊し続けた。現在も文学部美術史コースでは3年生になると、教員とともに奈良研修旅行へ行く。古都の古刹を巡り仏像や仏閣を目にしては、かつて日吉館を拠点として同じものを眺めていた先輩たちに思いを馳せるのである(図9~12)。

図9:1991年6月奈良研修旅行にて(於日吉館)

図10:夕食の支度を手伝う学生たち

図11:飛鳥サイクリングコースで先頭を走る星山教授

図12:飛鳥サイクリングコースで学生と一緒に自転車をこぐ楢山講師

※1 植田重雄「学徒出陣と最後の奈良見学旅行」『會津八一 短歌とその生涯』文藝春秋、一九六九年。同「最後の奈良研究旅行」『秋艸道人 會津八一の生涯』一九八八年、恒文社。同「最後の奈良見学旅行」『秋艸道人 會津八一の学芸』清流出版、二〇〇五年。
※2 金田弘、註2前掲書。