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占領期早稲田の軌跡をたどる――「占領期の早稲田 1945~1952――新生への模索」展に寄せて――

佐川 享平/早稲田大学大学史資料センター 助手

写真① 大学風景(「〔商学部〕卒業記念 昭和24年度」1950年)

 1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して降伏し、アジア・太平洋戦争は終結します。以降、サンフランシスコ講和条約が発効する1952年4月28日に至るまで、日本は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による占領を経験することになります。占領期の早稲田大学と学生たちは、敗戦という戦争の結末をどのように受け止め、また、物資の欠乏という現実や、新たな理念の登場と向き合いながら、戦後の第一歩を踏み出したのでしょうか。

 早稲田大学大学史資料センターでは、2016年の秋季企画展として、「占領期の早稲田 1945~1952――新生への模索」展を開催しました(2016年11月6日終了)。その展示内容に即しながら、占領期早稲田の軌跡をたどってみます【写真①】。

Ⅰ 早稲田大学 戦後の出発――組織と理念の再編

 1937年の日中戦争勃発後、社会のあらゆる側面で総力戦体制の構築が推し進められるなか、早稲田大学もまた、国策への順応と戦時体制への傾斜を深めてゆきます。戦争遂行に適合的な組織・カリキュラム編成がとられる一方、津田左右吉や京口元吉などの教員が、自由主義的、反天皇制的であるなどの理由で大学を追われました。こうした戦時体制への追従の果てに迎えた敗戦によって、早稲田大学は自らの理念を改めて問い直し、同時に、GHQやCIE(民間情報教育局)による民主化政策と、それに基づく教育改革に対応してゆくことになります。

写真② 「早稲田大学教旨の改訂について」(1949年5月2日)

 1946年5月15日には、大学の憲法ともいうべき校規(財団法人早稲田大学寄附行為)が改訂され、総長選挙制の導入(従来は理事互選)をはじめとする大幅な変更が行われました。大学組織の再編は、学校教育法や私立学校法といった法令の制定をまつことなく、早々に着手されたのです。戦争と敗戦で揺らいだ理念の見直しも進められました。早稲田大学教旨(1913年制定)は、「学問ノ独立」、「学問ノ活用」、「模範国民ノ造就」を建学の本旨と謳ったものです。その教旨は、日本国憲法と教育基本法の制定をうけて改訂され、「模範国民ノ造就」の項から「立憲帝国ノ忠良ナル臣民トシテ」の文言が削除されました(1949年5月2日)【写真②】。また、創設者・大隈重信の事績に立ち返り、建学の精神と理念を再確認しようとする動きも、大隈精神高揚運動として具体化しました。

 一方、戦争の終結と、GHQによって推し進められた民主化政策によって、出征や戦時中の解職などによって大学を離れていた教職員が復職を果たしました。なかでも、1932年以来、米国で亡命生活を送り、帰国・復職を果たした大山郁夫は、学生たちから熱狂的な歓迎を受けました。その陰で、GHQによる軍国主義者・国家主義者追放の指令に基づき、前総長の中野登美雄らが大学を去りました。

 こうした組織・理念の再編と並行しつつ、学校教育法(1947年)に基づく新制大学の設置が準備され、1949年4月21日、新制早稲田大学が誕生します。新制大学では、高等師範部を母体として教育学部が設置され、政経・法・文・商・理工の各学部では、勤労学生に広く門戸を開くべく、夜間学部である第二学部が新設されました。

Ⅱ 早稲田に学生が戻ってきた――占領期の学生生活

写真③ 学生数と休学生数(1945年12月現在) 在学生16390名中、休学者は4544名に達している。

 戦争が泥沼化の様相をみせるなか、学生が学業に勤しむことは次第に許されなくなりました。授業期間の短縮による繰り上げ卒業、さらに、徴兵猶予特典の廃止(1943年)に伴う「学徒出陣」によって、多数の学生が学業を中断し、戦地へと赴きました。また、残留学生に対しても、軍需工場や建築現場への勤労動員が急速に強化されてゆきます。遂には、1945年4月、国民学校初等科を除く全ての学校で授業が停止される事態となり、早稲田大学は教育機関としての機能を停止したまま、敗戦の日を迎えます。

 戦争の終結によって、戦地や動員先に散らばっていた学生たちが、キャンパスに戻り始めました。もっとも、早稲田への帰還の道のりは平坦ではなく、終戦から半年近くを経た時点でも、学生の実に3割余りが休学していました【写真③】。講義は、戦争終結から間もない1945年9月11日より再開されます。しかし、キャンパスは空襲によって多くの校舎が損傷を受けており、校舎の再建が進むまで、学生たちは劣悪な環境に耐えねばなりませんでした。


写真④ 「明暗二重奏」と題されたページ(「卒業記念写真帖 早稲田大学第一政治経済学部」1952年) ダンスに興じる学生(中央)とアルバイト中の学生(周囲)の姿が写る。

 さて、戦後直後、復学、あるいは新たに入学した学生たちが直面したのは、極度の物資不足とインフレによる生活難でした。そのような厳しい学生生活の一助となったのが、学生自らが運営した学生共済会(1946年5月設立、生活協同組合の前身)であり、食料品・書籍・文房具の買い付けと提供、アルバイトの斡旋などを行いました。また、こうした苦しい生活のなかでも、学生たちは映画・演劇といった娯楽に興じていました【写真④】。学生の文化活動も息を吹き返し、1945年11月には体育会が復活、「学生の会」(サークル)についても、1947年3月までに結成を届け出た会の数は100を超えました。

 一方で、学生たちは、大学当局が進める諸改革にも強い関心を寄せていました。1946年5月には学生自治会が発足し、授業料値上げ反対や学内の民主化に関する諸要求を行ったほか、大山郁夫の帰国・復職を求める運動にも取り組みました。しかし、「逆コース」と呼ばれる占領政策の転換を受け、共産主義者を公職から追放する「レッド・パージ」が本格化すると、学生たちの運動は激しさを増してゆきます。早稲田大学では、1950年、レッド・パージ反対運動を展開する学生と警官隊が2度にわたって衝突し、多数の負傷者・検挙者を出す事態となりました(「9月28日事件」、「10月17日事件」)。

Ⅲ 被災したキャンパスの再建

写真⑤ 「本大学諸施設ニシテ戦災ニ依リ焼失破壊シタルモノ等ノ調査事項回報〔付図〕」(1945年10月25日) 着色部分は焼失・被害箇所である。

 1945年5月25日夜の山の手一帯を標的とした大規模な空襲は、大学にも大きな爪痕を残し、恩賜記念館、第一高等学院、大隈会館をはじめ、煉瓦・木造の建物はほぼ壊滅、被害はキャンパス全体の3割に及びました。それでもなお、キャンパスはその骨格をとどめていました。これは、以前より鉄筋コンクリート造の耐久校舎建築が進められていたためであり、また、空襲当夜の職員たちによる懸命の消火活動の成果でもありました【写真⑤】。

 授業が再開され、学生たちが帰還するなかで、キャンパスの再建も始まります。もっとも、初期に取り組まれたのは応急的処置にとどまり、再建が本格化するのは1949年以降のことでした。

 1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、GHQによる日本占領は終焉を迎えます。この年、早稲田大学は創立70周年を迎え、これを記念する祝賀行事が盛大に行われました。その一方、5月には、構内に立ち入っていた私服警官を学生が吊るし上げ、警官隊がこれを奪還しようと突入、多数の学生が負傷する「5月8日早大事件」が起こります。レッド・パージ反対運動や「5月8日早大事件」で問われた大学の自治、あるいは学問の自由をめぐる問題は、その後も様々な形をとって展開されることになります。

 「占領期の早稲田 1945~1952――新生への模索」展は、占領期という奔流の一部分を取り上げたものに過ぎません。しかし、卒業生やそのご家族から寄贈された資料を通じて、当時の学生生活の多様な面を浮かび上がらせることができました。今後、資料の更なる充実によって、新たな側面に光を当てることも可能になるでしょう。一方で、占領期に学生時代を過ごした世代の方々はすでに80歳を超え、歴史と記憶の継承は急務となっています。企画展はすでに終了していますが、この小文が、占領期への関心を喚起するものとなれば幸いです。

※なお、本企画展のより詳しい内容は、『早稲田大学史記要』第48巻(2017年2月刊行)で紹介しています。あわせてご一読ください。

佐川享平(さがわ・きょうへい)/早稲田大学大学史資料センター 助手

早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程を経て、2015年4月より現職。専門は日本近現代史。