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木原 圭翔
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和田勉と起源のテレビドラマ

木原 圭翔/早稲田大学坪内博士記念演劇博物館助手

テレビドラマの1950年代

 早稲田大学演劇博物館主催の「テレビの見る夢 大テレビドラマ博覧会」(2017年5月13日~8月6日)では、テレビ草創期から現代に至る様々なテレビドラマを取り上げている。開催にあたって1年ほど前から準備を少しずつ進めていたが、今回特に痛感したのは、初期テレビドラマに関する基本情報の乏しさである。

 日本では1953(昭和28)年からテレビの本放送が開始されるが、1960年以前に制作されたドラマ作品については、その実態がほとんど何もわからないというケースが稀ではない。当時は生放送が基本であるため、映像は放送と同時に消えてしまった。作り手の間でも、番組を記録としてきちんと後世に残そうという意図はおそらくなく、台本やスケジュール表など、関連資料の多くはすぐに廃棄されていた場合が多かったのだろう。もちろん、この時代にも現在まで語り継がれる名作は生まれている。しかし、DVDなどで容易に視聴できるフランキー堺主演の『私は貝になりたい』(1958)といった作品はいわば例外中の例外である。同作が放送されたKRT(後のTBS)の「サンヨーテレビ劇場」(1958-61)という番組枠では、他に芸術祭大賞を受賞した『いろはにほへと』(1959)などを除き、ほとんどの映像が現存していない。要するに、現在われわれが実際に見たり、想起したりできる初期テレビドラマとは、何らかのかたちで当時から高く評価されていた作品が大半であり、日々量産されていたごく普通のテレビドラマについては、今や番組を実際に見た人々のおぼろげな記憶の中にしか残っていないのである。

「大テレビドラマ博覧会」展示風景

 こうした事態に直面した時、われわれはどのような方法で初期テレビドラマの実態に迫ることができるのだろうか。まず、台本の参照というのは一つの重要な方法だろう。演劇博物館には初期テレビドラマの台本が数多く収蔵されており、ドラマの物語内容だけでなく、スタッフやキャストといった基本情報もそこから確認することができる。しかし、台本にしても放送された番組のすべてが残されているわけではない。あるいは、演劇博物館の収蔵資料には、俳優の方々から寄贈していただいた各種関連資料(スクラップブック、スチル写真、書き込み台本)などが豊富にあるが、こうした資料もまた、最初期のテレビドラマに関連するものとなると、残念ながらごく限られてしまっている。

テレビという得体の知れないもの

 今回の企画展において、初期テレビドラマの領域で特に貴重なものとなったのが、和田勉(1930-2011)関連資料の展示である。和田勉は『天城越え』(1978)『阿修羅のごとく』(1979-80)『ザ・商社』(1980)『けものみち』(1982)など、数々の傑作ドラマを生み出したNHKの名物ディレクターとして知られているが、1950年代にはすでに話題作を連発し、草創期のテレビドラマ界を牽引する存在であった。しかし、和田勉作品においてもまた、この時期の映像の保存状況はほぼ壊滅的である。1950年代に和田勉は40本程度の番組を制作しているが、そのうち映像の現存が確認されているのは『石の庭』(1957)と『日本の日蝕』(1959)のわずか2本だけである。いずれの作品も和田勉の特徴とされるクロースアップが活かされた傑作であるが、やはりそれぞれが芸術祭奨励賞を受賞した「例外」的な作品である。

 初期テレビドラマを紹介するうえで、敬愛する和田勉の活動については何としても言及したいと思っていたが、今回ご遺族の方から貴重な関連資料を多数お借りすることができた。その結果、各作品の記事を集めたスクラップブックや緻密な絵コンテが書き込まれた使用台本など、和田勉の知られざる創作活動の一端を垣間見ることのできる第一級の資料が揃った。

 その中に一際目を引く資料として、「テレビドラマ さるのこしかけノオト」と題された制作ノートがある。1955年7月24日に放送された番組で、高野山付近の小さな村にある分教場の子どもたちと先生の日常を描いた作品のようであるが、現在最も信頼に足るドラマ作品情報WEBサイト「テレビドラマデータベース」にも該当作品の記載がないため、存在自体がほとんど知られていない番組であろう(当時の新聞ラテ欄を確認すると、たしかに放映されたようだ)。しかし、まずなによりも驚くべきは、そのノートの分量である。全656頁にもわたるその浩瀚な制作ノートには、スタッフやキャストの記載に続き、ロケハンの様子、配役について、音楽の打ち合わせ、セットの準備、そしてシークエンスごとの立ち稽古の状況などが極めて詳細に記録されている。当初はフィルムでのロケ撮影も予定していたが中止になったこと、全く同じ教室のセットを二つ準備して撮影に臨んだこと、さらにはどのように各部屋(教室や居間)を配置するのか、ドアをどこにつけるのか、そのドアを内開きにするのか、外開きにするのか(これはカメラの動きを決定するにあたって極めて重要な問題であったようだ)等々、番組制作の細部が入念に検討されている。そして、これが夜6時から始まるわずか30分の放送番組のための努力であることを知ると、和田勉という人物のテレビに対する並ならぬ熱意にはただただ圧倒されざるをえない。

『さるのこしかけ』制作ノート 個人蔵

 その和田勉が、制作ノート全体の要約として以下のような文言を記している。「さるのこしかけの演劇的考察 TVの出発とそのむなしさについて」。自分自身の記録のためのメモだろうから、本人の真意は計りかねるが、この膨大な記録を前にして和田勉がそこにある種の「むなしさ」を覚えるという感覚は非常に興味深い。映画やテレビといった映像作品は、それが現実のものではないという意味ですでに幻=フィクションであるが、放送と同時に消えてしまう初期のテレビ映像は、二重の意味で幻=フィクションである。それを膨大な言葉によって記録する中で、和田勉はそうした自身の行為の意味を何度も問い直したのかもしれない。和田勉は様々な論考の中でテレビのことを繰り返し「液体」だと述べている。それは物質としてのフィルムのように映像が固定されることなく、ただ日々流れ、消え去っていくものであるという趣旨であるが、一体、この希薄な「液体」という幻=フィクションに和田勉がかける情熱とは何であったのか。和田勉は『さるのこしかけ』放送後、約3ヶ月をかけてこの制作ノートを執筆したようだが、その間、二度と見ることのできない自身の作品を彼は懸命に想起したことだろう。その想起と忘却の格闘の痕跡であるこの制作ノートに漂うある種の「むなしさ」は、初期テレビドラマの本質を図らずも鋭く突いているように思われる。そして、テレビという未だ得体の知れないものとはじめて対峙する一人のディレクターのこうした苛烈な闘いの記録を通して、今度はわれわれが、見ることの叶わない失われたテレビドラマを想起しようとしている。それはたしかに「むなしい」行為だが、テレビの起源に潜む根本的気分として、心のどこかに留めておかなければならないような気がしている。

木原 圭翔(きはら・けいしょう)/早稲田大学坪内博士記念演劇博物館助手

1984年生まれ。専門:映画理論、古典的ハリウッド映画論、テレビ論。
早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。
論文:「『サイコ』における予期せぬ秘密――『ヒッチコック劇場』と映画観客」(『映像学』第97号、2017年)など。