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早稲田大学歴史館開館記念企画展「東京専門学校に集った学生たち――在野精神の源流」に寄せて

廣木 尚/早稲田大学大学史資料センター助教
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写真① 本展示会のポスター

 2018年3月20日、大隈講堂の向かい側、早稲田キャンパス1号館に「早稲田大学歴史館」が開館します。この機会にあたり、大学史資料センターでは、本学創立期の学生たちにスポットを当てた企画展「東京専門学校に集った学生たち――在野精神の源流」を開催することとなりました。

 本学には、現在、約5万人の多種多様な学生(大学院生を含む)が在籍しています。しかし、1882(明治15)年10月、本学の前身である東京専門学校が開校した時、入学登録者の数はわずか80人に過ぎませんでした。当時の教育事情において、これを多いとみるか少ないとみるかは一概にいえませんが、今日の本学が、創立当初とは比較にならないほどの規模と、多様な内実を備えるに至っていることは間違いありません。

 しかし、規模や形は変わっても、変わらず受け継がれているものがあります。「学問の独立」という理念、「在野の精神」を尊ぶ気風、これらは創立以来、早稲田大学が培ってきた学風――早稲田が早稲田であるゆえん――として、学外にまで広く知れわたっています。

 「学問の独立」は、創立の日、小野梓によって唱えられました。建学理念のおおもとは、小野をはじめとする建学の担い手たちの思想にあります。

 しかし、理念はそのままでは学風にはなりません。「学校の「学風」というものは、学校の制度や創設者たちの思想の内側に存在するものではなく、むしろそこに在学する学生たちによって体現されてはじめて「学風」として認知される」からです(真辺将之『東京専門学校の研究』120頁)。学生をみずして大学の歴史を語ることはできません。

 明治十四年の政変の翌年、政府を追われた大隈重信の庇護のもとで産声をあげた東京専門学校は、当初、政府から「謀反人の学校」「立憲改進党の党員養成所」とみなされ、さまざまな苦難に遭遇しました。その学校をあえて選び、門を叩いた学生たち――彼らは、早稲田で何を学び、何をなし、何者になっていったのでしょうか。

 以下、展示内容に即しながら、本学最初の学生たちのいとなみについて、その一端をご紹介します。

1.若者たちは早稲田をめざす~東京専門学校の理念と教育

写真② 廣井一の卒業論文(1885年6月2日脱稿)(廣井重和氏所蔵)

 1881(明治14)年10月、いわゆる明治十四年の政変で、大隈重信とその系列にあった官僚たちは政府を追われます。この政変の背景には、イギリス型の立憲主義国家を早急に打ち立てようとする大隈派の政治構想が、他の政府高官から危険視されたことがありました。以後、政府の方針は強力な君主権を保持するドイツ型国家の構築へと傾いて行き、大隈らは野に在って政党政治の道筋を模索することになります。

 翌1882年、大隈らは自らの理念を実現するための二つの組織を設立します。立憲改進党と東京専門学校です。この内、東京専門学校の創立を担ったのは、大隈の右腕として行動をともにした新進の知識人・小野梓と、高田早苗・天野為之ら小野を慕い集った東京大学出身の若者たちでした。

 開校式の演説で小野が唱えた「学問の独立」には、外国の学問からの日本の学問の独立、政治からの学校の独立という二つの意味がありました。当時の高等教育は一般に外国語で行われていましたが、東京専門学校では「学問の独立」の理念のもと、日本語による速成教育が目指されました。学校関係者のほとんどは立憲改進党員でしたが、教室の中では、政治党派に偏らない科学としての専門学に基づいた教育が行われました。本展示会では学生の廣井一と山田英太郎(ともに1885年卒)が筆記した高田早苗(欧米史)・天野為之(経済原論)・山田一郎(政治原論)の講義録や、卒業論文【写真②】を展示します。おそろしいほどの集中力で書かれた学生の肉筆から、日本の社会科学の黎明を感じ取っていただければと思います。

2.情熱と喧騒の早稲田~学生たちの活動と生活

写真③ 篠田克己日記(1886~88年)

 学生の自主性を尊重することが東京専門学校の教育の大原則でした。強制するのではなく、学生の自発的な取り組みを通じてこそ、「学問の独立」は達成されると考えられたからです。何に精を出してもとがめられません。相撲や撃剣(剣術)の稽古に勤しむ学生もいれば、昼夜を問わず青白い顔で学問に打ち込む学生もいました。学生の多くが暮らした寄宿舎では夜ごと政治談議や喧嘩沙汰が繰り広げられ、学生に嫌われた講師は弾劾の的となることも覚悟しなければなりませんでした。大学を出てまもない若い講師たちは、何かと騒ぎを起こす学生たちに振りまわされ続けました。

 学問的な客観性を重視する講師たちは、学生を特定の政派に誘導しようとはしませんでした。しかし、学校をつつむ自由な空気は、学生たちの政治意識を自然と自由民権派に近づけていきました。学生たちは参加が禁止されていた政治演説会にも平気で通い、政府の機密文書を秘密出版する事件まで起こします。開校当初の運動会は政府を批判するデモンストレーションの場でもあり、警察の介入を招くことになりました。今回展示する篠田克己(1889年卒)の日記【写真③】に、当時の様子が詳しく記録されています。現代語訳も施しましたので、是非、読んでいただきたいと思います。

 小野梓が唱えた「学問の独立」は、もともと、政治的中立を意味する理念でした。それが、妨害や弾圧をものともしない学生たちによって、権力におもねらない反骨の精神をあらわすものへと意味を変えていったのでした。

3.野に在って花開く~早稲田を巣立った学生たち

写真④ 秋季中央校友大会(1915(大正4)年10月)

 1884年、東京専門学校は第1回の卒業生を送り出しました。最初、12名だった卒業生の数は、10年後には通算して1000名を超えるに至ります。

 学生時代の気風そのままに、反官僚意識が強く政治志向の旺盛な卒業生たちには、新聞・出版界や政界を志す者が多く、この分野で他校の卒業生を圧倒していきます。やがて1890年設立の文学科からも卒業生が送りだされるようになると、「政治・ジャーナリズム・文学の早稲田」という傾向が明確となり、今日までつづく大学イメージが早くもかたちづくられました。

 早稲田を巣立った後も、卒業生たちは校友として有形無形に母校を支えました【写真④】。官途に背を向け、民間にあって地力を蓄えた校友たちは、やがて、政治家として、ジャーナリストとして、デモクラシーの強力な担い手となっていきます。そして、「在野の精神」を実践する校友の活躍が、新時代の青少年たちを惹きつけ、彼らの足をさらに早稲田の地へと向かわせていくことになったのです。

 展示会の最後では、学生たちが後年記した回想をいくつか紹介しています。これを読むと、東京専門学校がさまざまな志望動機を持つ、個性豊かな学生たちの集まりだったことがよくわかります。そのような多様な学生たちの自由な活動が混然一体となって、今日に受け継がれる本学の学風はつくりあげられました。ときには講師たちの意図をも超えて、それぞれの「独立」を目指した若者たち――その軌跡に触れることが、「早稲田らしさ」への理解を新たにする機会ともなれば幸いです。

廣木 尚(ひろき・たかし)/早稲田大学大学史資料センター助教

1977年生まれ。早稲田大学文学研究科博士後期課程を経て、2016年4月より現職。専門は日本近現代史。