早稲田大学の教育・研究・文化を発信 WASEDA ONLINE

RSS

YOMIURI ONLINE

ホーム > 文化 > 大隈講堂物語—早稲田を訪れた人びと—

文化

▼大隈講堂物語—早稲田を訪れた人びと—

 創設者・大隈重信が人間は摂生すれば125歳まで生きられるという「人生125歳説」を説いていたことから、創立125周年を節目として「第二の建学」と位置づけている早稲田大学。その記念すべき日となった2007年10月21日、大学のシンボルである大隈講堂前で行われた記念セレモニーには、ボン大学、カリフォルニア大学、ロンドン大学、シンガポール国立大学など世界各国の大学から学長がかけつけ、早稲田大学の新たな門出を祝った。

 この年、大隈講堂では校友である歌舞伎役者・松本幸四郎氏が歌舞伎十八番「勧進帳」を上演、ノーベル経済学賞受賞者のジョセフ・スティグリッツ教授、コロンビア大のドナルド・キーン名誉教授ら多くの著名な学者が講演し、125周年を盛り上げた。

 ゴシック様式とロマネスク様式を巧みに組み合わせた意匠が評価され、同じ年の12月4日、国の重要文化財に指定された大隈講堂。1927年に建設されて以来、視角・聴覚を失いながら社会運動を続けたヘレン・ケラー氏ら、国内外の研究者、政治家、王室関係者など多くの名士が壇上にあがって講演した。大隈講堂を飾ってきた講演録を作家・小島英記氏(早稲田学報編集委員)の筆致でたどる。

早稲田学報2007年10月号再録

1)「物質世界の一番底へゆきたい」—1950年代以前

小島 英記(1970年政治)/作家・早稲田学報編集委員

 太平洋戦争により深い傷を負った早稲田大学だったが、1945(昭和20)年9月2日のミズーリ艦上における降伏文書調印の前日には、昼夜二部制で授業を再開、復興に向けて立ち上がった。

 翌年の6月10日、初の総長選挙が実施され、昭和15年に右翼に攻撃され大学を辞めた津田左右吉が、新時代への期待をこめて選ばれる。しかし、彼は固辞し、島田孝一が総長となった。津田は日本・中国思想史をおもに研究した歴史家。東京専門学校を卒業、教員、満鉄の調査室員を経て、18(大正7)年に早大教授。『古事記』『日本書紀』の本質を究明し、天皇に対する国民の意識を近代的、科学的基礎の上に再建しようとした学問は独創的だ。

 その彼が11月12日より3日間、大隈講堂に登場した。第1回「学問の本質」、第2回「学問の立場から見た現代思想」、第3回「学問と学生」と題した講演は「連日、大隈講堂を埋めつくす聴衆に深い感銘と感激を与え超盛会裡に終了した」(「早稲田大学彙報」)。

 このなかで津田は、体制としての民主制は、人間としての教養の視点が欠けていると批判。「何よりも社会組織を作り環境を作るものは人である」「その根本は学生諸君の個人個人の教養であります」と訴えた。

 48(昭和23)年4月21日、新制早稲田大学が4年制11学部で出発した。当初の収容定員総数1万5600名(1学年当たり3900名)。

 戦後復興期は、さすがに講演者の数は少ないが、51(昭和26)年5月8日、小川未明(芸術院賞)を讃える記念文芸講演会が大隈講堂で開催され、坪田譲治、秋田雨雀、浜田広介、吉田甲子太郎ら稲門出身の童話文壇の巨匠が出席。「折からの小雨模様にもかかわらず千数百名の熱心な聴衆が大講堂の1階を埋めるという盛況」だった。

来校する内外の知性
中華人民共和国科学院院長郭沫若(中国)
中華人民共和国科学院院長郭沫若(中国)

1955(昭和30年)12月8日、講演「中日文化の交流」を行った。
(写真:早稲田大学科外講演部編「高遠」1巻〈中央図書館所蔵〉より)

 55(昭和30)年11月25日、米コロンビア大学総長のグレイソン・カーク博士が「現代民主社会における大学の役割」を講演。「大学はただ知的自由の擁護者であるのみでなく、世界平和を本当に守り、これを昂揚するという責任をもっている」と述べた。

 12月3日には国際政治学の権威、シカゴ大学教授ハンス・モーゲンソー博士が「アメリカの外交政策について」と題し「アイゼンハワーの外交政策を心から支持しているのは、現在においては、憲法上の反対党である民主党」など現実の複雑さを指摘している。

 郭沫若・中国科学院院長が講演したのは12月8日。日本に留学し滞在期間も長い作家、歴史家は「民族と民族とのあいだ、両国の人民と人民とのあいだを平和的に共存せしめておきさえすれば、文化並びに物質生活は向上し人民に幸福がもたらされるということであります」と語った。文芸、社会科学で業績があるが、後の文化大革命で自己批判、内外に失望を与えた。

 56(昭和31)年5月23日には「サイバーの生みの親」である米国のノーバート・ウイナー博士が、サイバネティクス(生物と機械の通信・制御機構の比較理論)について講演。早熟の天才は戦時中、高射砲の自動照準の研究に関与し、まったく新しい学問体系を創始した。「私は新しい言葉の土台になるようなギリシャ語を探してスティアマン(舵手)にあたるキューベルネーテスというギリシャ語からサイバネティクスという新しい言葉をこしらえた」。

京都大学教授湯川秀樹博士
京都大学教授湯川秀樹博士

1956(昭和31)年10月26日、講演「原子物理学の趨勢」を行った。
(写真:早稲田大学科外講演部編「高遠」2巻〈中央図書館所蔵〉より)

 京大教授の湯川秀樹博士が来校したのは10月26日。核力の研究で電子、陽子、中性子のほかに中間子の存在を予言し、日本人初のノーベル物理学賞を受賞した泰斗は「原子物理学の趨勢」と題し「いつ終わるかわかりませんが、われわれ人間が一応、なんというか、物質世界の一番底と思えるところにゆきたいと思っております」と語った。

 57年(昭和32)年4月19日、ソ連の作家イリヤ・エレンブルグが講演した。スターリン批判後の「雪どけ」で芸術家の悲劇を描いた作家は、「日本を訪れて」と題し「私はあの盆栽がたいへん気に入りましたので持って帰ろうと思い幾つかを選びましたが、しかし、あの盆栽に対するように人間に対することはいけないことだと思います」と語った。体制内で生きた作家の意味深長な言葉のようにも受け取れる。

ネール首相に「都の西北」
インド共和国首相バンディット・ジャワハルラル・ネール
インド共和国首相バンディット・ジャワハルラル・ネール

1957(昭和32)年10月7日、名誉博士学位を贈呈され、講演「明日を創るもの」を行った。
(写真:早稲田大学科外講演部編「高遠」3巻〈中央図書館所蔵〉より)

 10月7日、インド独立の英雄バンディット・ジャワハルラル・ネール首相が来訪。首相は午後、慶應義塾大学と早稲田大学を訪れ、「名誉博士」の称号を贈られた。式後、「明日を創るもの」と題して演説。大隈講堂では1万人余りの学生が広場まであふれた。講演は10分間の予定が30分間も延び、満場総立ちで拍手。首相の望みで「都の西北」を合唱、講堂の前に現れると校歌の大合唱は広場全体にこだました。

 10月29日、ソ連の生化学の権威アレクサンドル・オパーリン博士が「生命の起源」を講演した。無機物質から生命の発生について科学的な学説を提唱した博士は「遅かれ早かれごく近いうちにこの生命の物質的進化の過程を再現してみることができるであろうと私は期待しています」と語った。

 59(昭和34)年6月16日、インドネシア共和国の初代大統領A・S・スカルノ大統領が来校、「世界平和と民族の独立」をテーマに講演した。オランダからの独立を主導し、55年、第1回アジア・アフリカ会議で第三世界のリーダーの一人として脚光を浴びた。「指導される民主主義」を打ち出し、共産党、国軍のバランスの上に政権を延命させるが、66年、大統領職を停止され、スハルトが第2代大統領に。軟禁状態のまま70年、ジャカルタで死去した。

 10月9日、町の経済学者として親しまれた高橋亀吉と前首相・石橋湛山が訪中の成果を講演。二人とも早大卒、東洋経済新報社で健筆をふるった。戦後、石橋は政界に転身し、鳩山内閣の通産相、自民党総裁、首相となったが、病のため辞任、悲劇の宰相といわれた。12月10日には三木武夫衆議院議員が「明日の世界」を講演した。明大卒、のちロッキード事件で田中内閣総辞職後、椎名裁定で「青天の霹靂」の首相就任。また11日、松村謙三・衆議院議員が「中国をめぐりて」を講演。早大政経卒。厚相、農相、文相を歴任。日中友好の功労者だ。