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岩本 憲児

岩本 憲児(いわもと・けんじ)早稲田大学名誉教授 日本大学芸術学部教授 略歴はこちらから

最後の早慶戦—映画で甦る青春の情熱—

岩本 憲児/早稲田大学名誉教授 日本大学芸術学部教授

戦時下最後のエール交換

 映画『ラストゲーム 最後の早慶戦』が8月に公開を予定されている。<最後の早慶戦>とは、1943年(昭和18)10月16日、早稲田大学の戸塚球場で実施された<野球の早慶戦>のことを指す。ここはのちに安部球場と呼ばれるようになり、さらに現在では<総合学術情報センター>と呼ばれる早稲田大学図書館と国際会議場に変わってしまった。

いま、その門を入った右手にひっそりと佇む二つの胸像がある。右に安部磯雄、左に飛田穂洲。胸像の二人に思いを馳せ、この場所に青春の情熱を刻んだ若人たち、この球場に集って声援を送った学生たちのことを想起する人は、はたして何人いるだろうか。ましてや、太平洋戦争の末期、学徒出陣を控えた早慶両校の学生たちが、ここで戦時下最後の早慶戦を行い、エールを交換し、生きて会える日が来ないことを覚悟しつつ別れていったことなど、知る人は年々少なくなっていく。『ラストゲーム 最後の早慶戦』はこのことを改めて強く思い出させてくれる映画である。

「最後の早慶戦」早慶両校記念写真

野球の早慶戦、その始まりと人気

野球の早慶戦は早稲田と慶應のスポーツ対抗試合の代表であるが、他のスポーツ各部にも早慶戦があり、古くから知られている対抗試合には隅田川(一時、荒川)の早慶レガッタがある。早慶のボートレースはかつてのニュース映画や劇映画の情景描写にもよく撮影されていたので、一般には野球に次ぐ人気の早慶戦だった。早慶レガッタの第1回も早く、1905年(明治38)、野球の早慶戦開始に2年遅れただけである。筆者は近年まで10年近く剣道部の部長をやっていたので、筆者にとって早慶戦とは剣道の対抗試合を指していた。その始まりは野球や漕艇に遅れて、1925年(大正14)である。

試合前に整列する両校の選手。スタンドは学生で満席となった。

 野球の早慶戦、第1回は1903年(明治36)11月で、慶應の勝利。第2回は1904年6月で、早稲田の勝利。いずれも慶應三田網町の球場だった。第3回の同年10月には戸塚球場となり、早稲田が勝利した。しかし1906年(明治39)秋、応援の過熱を危惧した慶応 側から早稲田へ中止の申し入れがあり、それ以来、なんと20年も早慶戦が中断されたのである。当時すでに早慶戦の人気は高く、観客数も万を数えるほどだったという。

映画に見るスポーツ熱

 学生野球の人気がさらに高まるのは大学の参加が順次増え、東京六大学野球連盟が成立、早慶戦が復活する1925年春からである(もっとも、紆余曲折は続いた)。映画界では無声映画が隆盛を迎える時期で、映画におけるスポーツ熱、とりわけ学生スポーツものが流行していく。無声映画末期から発声映画時代へ、昭和初期の10年間ほど、陸上、登山、ボート、ラグビー、スキーなど、西洋渡来の近代スポーツが学生やアメリカ映画を先導者として日本映画のなかにも数多く登場している。また小津安二郎作品には学生群像がユーモラスに、青春の哀歓をこめて描かれており、その多くが早稲田大学のキャンパスで撮影された。残された小津の手帖にも、早慶戦を見に行ったことが多く記されており、小津は早稲田贔屓だった。

 早慶戦への熱狂的人気とは逆に、特権的な学生スポーツを批判する硬派の映画も作られた。1930年前後に高まった左翼運動の中で、プロキノ(プロレタリア映画連盟)作品の一翼を担った『スポーツ』(1931)がそれである。ブロマイドとして売られる大学野球のスターたち、優先的に大学の運動施設を使える選手たち——映画はこのような特別扱いを批判しており、意気軒昂だ。制作に参加していたのは、のちに監督として大成した若き日の山本薩夫である。

学徒出陣と壮行会

 1931年の満州事変を機に、日本は中国との15年戦争、そして1941年の対米英戦争から<大東亜戦争>へと突入していく。1938年(昭和13)には学生・生徒を工場で働かせる学徒動員が始まり、1943年(昭和18)には、大学生に認められていた徴兵猶予が法文系学生には停止された。同年10月21日、明治神宮外苑競技場で学徒出陣の壮行会が開催される。雨中の粛々とした行進、この様子はニュース映画や記録映画に収められているので、前線へ送りだされる若者の姿はいまなお私たちの胸を締め付ける。こうして、理工系を除き、満20歳以上の大学生、高等学校生、専門学校生たち(いずれも旧制)は12月の入隊を待つことになった。

 学徒出陣の壮行会直前、10月16日、晴天の戸塚球場で早慶戦が行われた。野球は敵国アメリカのスポーツだったので、すでに六大学野球の試合も中止されて、野球を続けること自体が困難な頃である。

『ラストゲーム 最後の早慶戦』

「ラストゲーム」のワンシーン
©2008「ラストゲーム 最後の早慶戦」製作委員会

 『ラストゲーム 最後の早慶戦』(神山征二郎監督)は、実話に基づいて出征直前の早慶野球部学生たちを描いたドラマである。早稲田の野球部に描写の力点が置かれているので、早稲田側から見た<最後の早慶戦>といった趣が深い。この映画からすぐ思い出される2本の映画がある。1本は岡本喜八監督の『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』(1979)だ。これは<最後の早慶戦>を物語の前半で済ませ、後半は海軍特別攻撃隊へ志願した早稲田の学生(永島敏行が扮した)に焦点を絞って、特攻隊の悲劇を描いている。もう1本は神山征二郎監督の『月光の夏』(1993)。生き残った特攻隊員をめぐる後日談が中心で、特攻基地から飛び立つ前日、ピアニストを目指した音大生と音楽教師を目指した師範大生がベートーヴェンの「月光」を弾くエピソードが重要な布石となっている、感銘深い作品だ。

 さて、『ラストゲーム 最後の早慶戦』。この映画は当然に戦争の影が色濃いが、ドラマの中心は、困難を排して早慶戦を実行した人物たちに置かれていて、戦争よりも野球の比重が大きい。野球部員以外の重要な登場人物に、早稲田の飛田穂洲(柄本明)がいる。かつての主将、そして野球部初期の監督であり、当時は顧問の役割を引き受けて野球部を支えていた。もう一人は早稲田の総長、田中穂積(藤田まこと)である。この総長が頑として早慶戦を許可しない。野球の試合は禁止という時局への慮り、大観衆が詰めかけることへの懸念などが示されるものの、総長の境地は映画では詳しく語られない。田中穂積の伝記では、経済学、財政学が専門で、人柄としては無趣味の人、雄弁家、几帳面、意志の人などと評されている。総長の講演記録「第八回体育デー」(1934)を読むと、大学におけるスポーツは単なる体育でも娯楽でもなく、道徳的価値にあると力説している。野球道を説いた飛田穂洲と近い考えだ。

 映画に登場しないが、もう一人の胸像の人物、安部磯雄は野球部と戸塚球場の創設者である。大学を辞し、1928年には社会主義運動に邁進した人だ。田中穂積は社会主義やマルクスを嫌ったが、人格を形成するスポーツの効用を信じていた点で、安部磯雄、飛田穂洲らとは共通点があった。慶應義塾にも信念の教育者、塾長の小泉信三(石坂浩二)がいて、少ない出番ながら、その人となりをさわやかに印象づける。ともあれ、映画のラスト、両校の校歌とエール交換のシーンは胸を打つ。戦争の悲惨な経過と敗戦の結果を私たちが知っているからだろう。

 なお、早稲田大学大学史資料センターの展示がきっかけとなり、早稲田、慶應両校の執筆者を得て、今秋には『1943年晩秋 最後の早慶戦』(教育評論社)が出版されるという。

「ラストゲーム 最後の早慶戦」公式サイト
http://www.lastgame-movie.jp/ 配給:シネカノン

岩本 憲児(いわもと・けんじ)/早稲田大学名誉教授 日本大学芸術学部教授

1943年生まれ.早稲田大学文学研究科博士課程退学。主な著書に『幻燈の世紀 映画前夜の視覚文化史』『サイレントからトーキーへ日本映画形成期の人と文化』(いずれも森話社)など。