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【早稲田街物語】

石井 英二さん

鳴子・早稲田湯―復興誓った温泉掘削

 宮城県大崎市にある鳴子温泉郷は、源義経や松尾芭蕉にちなんだ旧跡や古道などが残された千年を超える歴史を持つ温泉郷。東日本大震災では多くの温泉宿が避難所となり、被災者を癒してきた。この温泉郷で戦後間もない1948年の夏、同じように癒された若者がいる。実習で共同浴場「早稲田湯」を掘り当てた早稲田大学理工学部の7名の学生たちだ。物資も乏しい食糧難の時代、「言葉で言い尽くせない」もてなしを受けたという当時の学生、石井英二さん(83)に思い出を振り返ってもらった。

(※2011年度校友広報紙「西北の風」より転載)

敗戦による荒廃

温泉掘削のためのやぐらの前に立つ7人の早大生。左から3人目が石井さん。

 戦時中の空襲で自宅が焼け、東京都北区にあった母の実家から大学に通っていたという石井さん。被害のあった大学のキャンパスには瓦礫が山積みとなり、高価な実験機材も被害にあった。標本室の溶けたガラスも、建物の屋上に積まれていたという。当時は配給も乏しく、多くの人が不便な生活を強いられていた。

 そんな時代に、大学の実習としてボーリングに参加した7名の学生たち。実習ではあったが、「敗戦で荒廃した日本の復興に、技術で役立ちたい」と、日本中にあふれていたという「復興」という強い決意を持って臨んでいた。温泉掘削は実習が終わりかけたころに、鳴子町から持ちかけられた。

 炎天下で角帽をかぶり、上半身裸で掘削に励んだ毎日。真っ黒に日焼けして、ボーリング会社の社員に指導を受けながら、夜まで作業に励んだ。「食うや食わずやのころで、どうしても食い物の話になる」。楽しみにしていたのが、旅館から提供された白米や山の幸満載のおかずだった。作業場近くの病院から毎日差し入れがあり、山のように盛られたズンダ餅やきなこ餅、スイカやトウモロコシなどを運んできてくれた。夢のようなご馳走だったという。

湧き出た温泉

石山教授が設計し近代的な建物となった鳴子・早稲田桟敷湯

 掘削はパイプが折れたり土を掘るロッドが取れたりと失敗の連続で、なかなか温泉は湧き出ない。夏休みが終わるころ、大学と交渉して滞在を伸ばしてもらい、9月も掘削を続けた。ある日、作業を終えて旅館に帰ってぐっすりと寝ていると、地元の男性が「吹いたぞ!」と大声を上げて宿に駆け込んできた。「がばっと起き上がって、駆け足でかけつけると、ゴーゴー、ゴーゴー、すごい音がしていた」。重たいボーリングごと、吹き上げる温泉の力でやぐらがグラグラ揺れていた。

 「すると、メンバーの一人がグラグラと揺れるやぐらによじ登って、7人一同で“都の西北”を歌い上げた。すごく感動的な光景でした」。「早稲田湯」と名付けられたこの温泉は1998年、早稲田大学理工学術院の石山修武教授の設計で、硫黄をイメージした黄色い建物に生まれ変わり、「鳴子・早稲田桟敷湯」と名を変えて親しまれている。

もてなしの心

 東日本大震災では、5つの温泉地からなる鳴子温泉郷は二次避難所となり、多くの宿泊施設が合計1000名を超える被災者を受け入れた。鳴子温泉観光協会常任理事で、鳴子・早稲田桟敷湯を経営する「鳴子まちづくり」の吉田惇一・総務部長は、「鳴子は昔から被災者を受け入れるような縁があるのかもしれない。地震直後には、被害の大きかった南三陸町に2万個の温泉卵も届けました。風呂に入れない被災者に温泉で少しでも疲れをとってもらおうと、仙台市との臨時の直通バスも運行しました」。 女川町で被災し、女川原発の避難所から夫婦で鳴子温泉に身を寄せていた女性は「まるで家にいるような温もりを感じる。アルバイトまで紹介してくれて、本当に感謝しています」と話す。

 「温泉も湧き、長い実習が終わって、いよいよ帰京する時。地元の方々が、お米を持って行っていいよと言ってくれた。当時、米は貴重品で、配給米以外は手に入らなかった。郷土土産のこけしも持たせてくれた。今でも家に置いてあって、思い出の品となっています」と、石井さんは鳴子の暖かいもてなしを懐かしんだ。「生活は苦しい時代だったが暗かったという記憶は不思議とない。温泉掘削に全力を注ぎ、むしろ輝いていた」と語る石井さん。「敗戦のころ、みんなが同じ状況だった。世の中どうなるかわからなかったが、その中で模索しながら日々を生きた。日常の小さなことに幸福を感じることが大切なのだと気付かされました。震災でつらい避難生活を送っている方も多いと思うが、ほどほどに我慢をしながら前向きに生きることが大事なのではないでしょうか」と話した。