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小松 弘(こまつ・ひろし) 早稲田大学文学学術院教授 略歴はこちらから

古くて新しい学問
―無声映画史

小松 弘/早稲田大学文学学術院教授

 私は映画史の教師だが、専門としているのは無声映画史である。19世紀の末に誕生した映画は、1920年代の終わりころまで、音を持たない無声映画であった。映画館では生の音楽伴奏つきで上映されていた。言葉は映像の中にさしはさまれる、中間字幕と呼ばれる文字によって表現された。映画の始まりからおよそ30年くらいの間に世界中で作られた、この、現代においては特異な形式に見えるような映画を研究対象にしている。

 近年はビデオ機器などの発達によって、映像素材を手元で繰り返し再生できるようになったため、研究はずいぶんやりやすくなったが、私が学生の頃は、研究したい無声映画一つ見ることが、大変に困難なことであった。フィルムが現存していることが分かっていても、文献のみでしかその作品のことを考えることができないということはごく普通であった。しかしビデオ・テープその他のメディアの発達によって、そうした困難は今ではかなり解消された。また、無声映画に関する研究がこの30年くらいでかなり進展したこともあって、この学問はほぼ美術史のような古くからある芸術史の学問にも、少しずつではあるが追いついてきているように思われる。

 もっとも、複製を示すだけで少なくともその図像を開示できる美術史とは違って、映画の場合ビデオやDVDのソフトがある程度利用できるとはいえ、静止している絵画や彫刻などとは違う、図像の時間的な側面が理解を難しくしている。それは教育ということを前提に考えると、特に痛感する。例えば初期の映画であったなら、1本の持続時間が1分、2分という場合だってあるし、1906年までの映画だったら長くても10分を超える例はきわめて稀である。90分の授業で1本の映画の全体を提示することはこの時間なら可能だ。だが時代が経過することによって映画の通常の長さが長くなってくると、授業内で1本の映画の全体を提示することはもはや不可能となる。時間芸術という点では音楽も同じだが、映画の場合音楽のように譜面で提示することができない。そういう場合、結局特徴的と思える場面を抜き出して、その部分のみを提示するだけしかできない。学生は全体を知らずに、部分だけでその作品を知ったつもりになってしまう。学生が個人的にその作品を全部見ることができれば問題ないが、無声映画の映像ソフトはそれほど豊富に利用できるわけではない。

 確かに悩ましい限りだが、それでも動く映像を大学の教室で提示できるというだけでも、状況は昔に比べてずいぶん良くなった。言葉や写真図版だけでは伝わらない、無声映画の動く映像そのものが、部分であれ授業の素材として使えるのであるから。世界的な傾向だが、このように映像のソフトが利用できる可能性が増えるに伴って、大学における映画史研究は活性化してきている。現代映画に比べて、無声映画に関する教育はいまだ困難が伴うとはいえ、この10数年間で着実に大学での研究対象として定着しつつある。日本では無声映画を専門に研究する場所はまだ私のところしかないようだが、外国の研究仲間と話していると、100年前に作られた映画の美的形式に関心を持つ若い人々は、確かに増えつつあるようだ。ルネサンス美術や印象派美術について語り合うのと同様に、D・W・グリフィスやルイ・フイヤードについてごく普通に語り合える日が来るのは、わが国ではいつのことになるだろか。例えば1910年に描かれた絵画と、同じ年に製作された映画を見比べた場合、多くの人々はどちらに古さを感じるだろうか。リアリティーを表象する映画のほうであるに違いない。リアリティーが身近にある分、古さは一層強く感じるだろう。しかしまた、古い映像を見る見方に無知であることも、その感覚を増大させているに違いない。無声映画史という研究領域は、このように人々にものすごく古いものと感じさせる映像についての、きわめて新しい学問なのである。

小松 弘(こまつ・ひろし)/早稲田大学文学学術院教授

【略歴】

1956年生まれ。東京藝術大学美術学部芸術学科卒業。デンマーク政府給費留学生として1978年より1980年までコペンハーゲン大学映画学研究所に留学。東京藝術大学大学院博士後期課程満期退学。埼玉大学教養学部助教授、早稲田大学文学部助教授を経て、現在早稲田大学文学学術院教授。

【主著】

「起源の映画」(青土社)共訳書にサドゥール「世界映画全史」(国書刊行会、全12巻)等。