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坂庭 淳史/早稲田大学文学学術院専任講師 略歴はこちらから

『罪と罰』
―対話へのいざない

坂庭 淳史/早稲田大学文学学術院専任講師

ドストエフスキーブーム

 ロシア語やロシア文学/文化について講義をしていて、最近とくに感じることがある。ひとつはロシア語学習者数の増加である。ロシアとのビジネスにおけるつながりが強まってきた事情もあって、資格取得や語学力向上に真摯に取り組む学生が目立ってきている。もうひとつは、昔ながらの文学青年や歴史通も健在だが、学生たちの(ロシアの)文学/文化に触れる機会が概して減ってきていることだ。

 ただ、それでもやはりドストエフスキー(1821-1881)だけは別格なのである。

 「ドストエフスキーの作品を読んだことがある人は?」と聞けば、教室のあちこちから手が挙がってホッとする。ベストセラーとなった『カラマーゾフの兄弟』(1879-1880)の新訳は記憶に新しいが、今年の夏には『罪と罰』(1866)の新訳も出て、ドストエフスキーブームはまだまだ続きそうだ。それにあわせてゴーゴリやトゥルゲーネフ、チェーホフ、トルストイといったロシアの作家たちもあらためて脚光を浴びてきている。

 今回は、150年近く前に書かれたこの『罪と罰』の魅力を中心に、現代において文学作品を読む意味について考えてみたい。

『罪と罰』の魅力:ドストエフスキーの登場人物たち

 現在、私はとある市民講座で、『罪と罰』を受講者のみなさんと一緒に読みすすめている。なかなかの盛況ぶりなのだが、先日、そこで興味深い感想を耳にした。

 『罪と罰』は元大学生ラスコーリニコフによる金貸し老婆の殺害と、犯行後の彼の心の葛藤を軸として展開する。読者の注目はラスコーリニコフに集まりそうなものだが、ある女性が「ラスコーリニコフの母プリヘーリヤ、とくに彼女が息子にあてた手紙に感動した」と述べると、いくつも賛同の声が上がっていた。犯行前のラスコーリニコフのもとへ届くのがプリヘーリヤの長い手紙なのだが、離れて暮らす母が息子をいかに心配しているか、ひしひしと伝わってくるという。きっと大学生ぐらいのお子さんがおられるのではないかと思うが、この女性は母親の視点からラスコーリニコフを眺めているのである。

 こうした話を聞いていて、私はドストエフスキーの人物描写の力を再認識した。他の作家であれば手間をかけず、ぞんざいな性格づけで済ませてしまうようないわゆる脇役たちについても、ドストエフスキーは丁寧に描いてゆく。そして、矛盾をはらんだ心の深部をさらけ出す登場人物たちは、あたかも作者ドストエフスキーから自立し、生身の人間であるかのようにリアルな存在となる。だからこそ、プリヘーリヤに心惹かれる人も出てくるのだろう。『罪と罰』には、他にも社会や生活に絶望して酒におぼれるマルメラードフや、その娘で家族を救うために娼婦となるソーニャなど、魅力的な人物たちが盛り沢山である。そして、老若男女を問わず、読者はさまざまな立場を通して物語の世界に向き合うことができる。私はこのあたりに、ドストエフスキーブームの秘密を解くカギがあるのではないかと考えている。

対話へのいざない:心の処方箋としてのドストエフスキー

 文芸学者のバフチン(1895-1975)は著書『ドストエフスキーの詩学』において、ドストエフスキーの小説を「ポリフォニー(多声)」という言葉で論じている。バフチンによれば、ドストエフスキー以外のほとんどの小説には、作者が登場人物たちを統括し、作者の声(意識)の反映された、モノローグ的で、統一された世界があるのに対し、ドストエフスキーの小説では登場人物たちの自立した声が多声的に響きあいながら対話がなされ、閉じられていない作品世界では作者の声も登場人物たちと対等な立場で存在しているという。そして、読者もまた登場人物たちのとの対話に引き入れられることになるのだ。

 この構造が、現代の読者ひとりひとりを刺激するのではないだろうか。バフチンの考えをふまえて、読者の立場になって考えてみよう。

 モノローグ的な小説では、読者は作品から響いてくる作者の声と対峙することになる。それは一対一で話をするようなもので、考えがかけ離れていたり、相手を受け止めるだけの素養がなければ、読者にとってその場はきっと重苦しいものになってしまうだろう。

 一方で、ポリフォニー小説とは、いわば車座になった多くの人々の談笑や議論の場である。読者はリラックスしてその対話に加わることができるだろう。さまざまな声のなかには共感(ときには反論)できるものもあるだろうし、場合によってはただ他の人物たちの語らいに耳を傾けているだけでもよいのだから(余談だが、ドストエフスキー作品についての座談会を何度か開いてきて印象に残っているのは、じつに生き生きと考えを述べ合う参加者たちの姿である)。

 文学作品は対話する力を養い、その鍛錬の場となる。とりわけドストエフスキーのポリフォニー小説では、窓口がいくつも開かれていて読者を対話へといざなっているのだ。 近年では人間関係が希薄になってきて、対話する力や相手を想像する力の欠如が指摘されてきている。重い内容の長編小説であるにもかかわらずドストエフスキーの作品が支持されるのは、それが他者との対話を望んでいる現代の人々の心の処方箋として、豊かな人間関係を希求するしるしとして機能しているからではないだろうか。
(分量の関係上取り上げることができなかったが、『罪と罰』を貫いているキリスト教モチーフや、作品を生み出した19世紀ロシアの矛盾に満ちた社会、さらにはドストエフスキーの周辺の作家たちにも興味を持っていただければ幸いである)

坂庭 淳史(さかにわ・あつし)/早稲田大学文学学術院専任講師

1972年東京生まれ。1996年早稲田大学第一文学部ロシア文学専修卒業。2002年同大学大学院文学研究科ロシヤ文学専攻博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。早稲田大学文学部助手を経て、2008年より現職。専攻は19世紀ロシア詩・思想。著書に『フョードル・チュッチェフ研究:十九世紀ロシアの自己意識』(マニュアルハウス、2007年)、『現代ロシアのジェスチャー』(東洋書店、2003年)、訳書にアルセーニー・タルコフスキー『雪が降るまえに』(鳥影社、2007年)、アレクサンドル・ソルジェニーツィン『廃墟のなかのロシア』(共訳/草思社、2000年)がある。