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飯野 公一(いいの・まさかず)早稲田大学国際学術院教授 略歴はこちらから

英語公用語化論を再考する
―言語政策の国家的議論を

飯野 公一/早稲田大学国際学術院教授

 2010年夏、楽天やファーストリテイリング(ユニクロ)といった企業で英語公用語化を推進するというニュースが話題を呼んでいる。これまでにも、1999年12月に故小渕首相の委嘱による「21世紀日本の構想」懇談会の報告書では英語第二公用語化の議論の必要性についても言及され、当時大きくメディアで取り上げられたり、外国人がトップを務める日産自動車などでは役員会を英語で行ったりという動きはあった。また、来年度より正式に導入されることになった小学校での英語教育など、21世紀に入ってから日本における英語の地位をめぐる議論が目立つようになってきた。こうした議論はしばしば賛成派と反対派に分かれ、あたかもグローバル社会で日本が生き残るには社会インフラとしての英語が不可欠とする「開国派」と、英語崇拝は美しい日本語、日本文化を退廃させる国賊ものであるとする「攘夷派」の両極が感情的な綱引きをするという構図になっているようにも見える。

社会の中での「ことば」の役割

 人間にとって今まで使っていたことばが変わるというのは一大事である。大言壮語を振りかざしていた政治家が異言語環境で黙ってニヤニヤ笑いを浮かべることしかできない風景をどこかで見たことはないだろうか。言語の変更は権力関係の変更につながる。これまでの使用言語という既得権が脅かされたグループからの反発は強い。これは言語が簡単には習得、置き換えできないスキルであり、人々がアイデンティティの拠り所としている象徴的な証でもあるからである。特定の言語に社会の中でどのような役割を与えるかを考える学術領域に社会言語学あるいは言語政策学という分野がある。もともとは戦争や植民地支配の下、統治の形態としてどの言語に特別の地位を与えるか、国家が独立した時期には民族語を含め何語を公用語とするか、また、文字をもたない言語に対して、その表記方法をどうするか、さらにその政策を国民に浸透させるための教育施策はどうするか、といったきわめて政治的かつ実務的な計画を立案する必要から生まれた。ことばはしばしば民族のアイデンティティという民族意識と強烈に結びつき、紛争をもたらす原因となることもある。例えば、マレーシア、シンガポール、インドなどの国々で複数の言語が公的な地位を与えられているのは民族紛争を避けるための方策であったという歴史に起因する。また、カナダではケベック州においてフランス語話者の住民が分離独立を求める運動が行われたり、米国においては、流入し続ける移民たちにどのような教育をほどこすか、英語オンリーでいくのか、税金を投入してバイリンガル教育を行うのか、といったアジェンダ(政策課題)は選挙時の争点にもなっている。

 日本においては、日本人への英語教育のありかたについての議論のほかにも、最近増加傾向にある海外からの定住者の言語をとりまく問題、EPA (Economic Partnership Agreement, 経済連携協定)を通じた介護、看護人材の受入時のことばの問題、新常用漢字をめぐる表記のあり方などが話題となっているが、いずれも社会、文化、教育というジャンルで扱われ、政治の問題という視点が欠如しているように見受けられる。

共通語としての英語

 言語政策は国家レベルでの(国連での公用語の選定など超国家レベルのものもあるが)話ばかりではない。企業の会議を何語で行うか、大学の授業を何語で行うか、駅の案内板を何語で書くか、といった私的あるいは公共の場においても言語選択の問題は避けて通れない。例えば、2004年に開設された早稲田大学国際教養学部ではほとんどの科目が英語で行われ、日本の高等教育において大きな変化をもたらすきっかけとなった。2008年に策定された「留学生30万人計画」実現に向けて、全国の拠点大学に英語のみで卒業できる大学課程を設置する「国際化拠点整備事業」、いわゆるG(グローバル)30プログラムが目下整備されつつある。日本においても一部の高等教育機関においてはすでに日本人と海外からの学生が英語を共通語として授業で議論をし、英語で論文を書き、口頭発表するというのが当たり前の風景となってきた。海外を見渡しても、EU域内で大学生の流動化を目指して取り組まれているエラスムス計画の進展によって英語でのプログラムが整備されてきており、またアジア圏においても韓国延世大学、タイチュラロンコン大学などの名門校でも英語で受講、卒業できるプログラムが最近創設された。このように非英語圏における英語による高等教育の広がりが世界規模で展開されつつあり、その結果、学生の国際移動が可能となってきている。

 言語学者カチュル(Kachru)によれば、世界には英語を母語として使っている地域(英国、米国など)、社会のなかで第二言語として使っている地域(インド、シンガポールなど)、また外国語として使っている地域(中国、韓国、日本など)があるとされる。とりわけ中国、インドを牽引役として経済の急成長をとげるアジア圏では英語はもはやデファクトスタンダード(事実上の標準)な共通語(リンガフランカ)となって、社会的資源としての役割を担っている。グローバリゼーションが英語を普及させ、逆に英語がグローバリゼーションを加速させる、という双方向の力が働いている。英語ほど多くの非母語話者に話されている言語は人類史上なかったともいわれており、中国語人気のなかでも英語の汎用性はしばらく続くと考えられる。

「使い分け」実現のための議論を

 こうしたなか、日本では保守的な言語観が根強く、英語を小学校から導入すれば日本語ができなくなる、日本文化が瓦解する、という言説が創出されてきた。グローバル化ということばだけがもてはやされる一方、政治や公教育の場においては市場の開放や知の開国に危機感を募らせる「抵抗勢力」との対立も顕在化した。日本が「失われた20年」を経験するなか、近隣の国、地域では急速に英語化政策を導入しており、その結果、とくに海外のエリート層と比較して、日本人の英語力が極めて低いというのは実感させられるところである。日本語の言語構造が英語と異なる、日本では日本語だけで生きていける、日本の英語教育が悪いと理屈を並べたてても、一番の問題は日本人の意識にあるのかもしれない。

 今回の企業内での英語公用語化(あるいは第二公用語化)推進の動きは単なる一過性のパフォーマンスで終わることなくしっかりと具現化していくことをあえて期待したい。海外勤務を希望しない若者も増えているという日本の状況を見たとき、この事例は世界で活躍できるバイタリティあふれる人材の育成がいかに急務であるかを示しており、日本社会が直面する危機への警鐘とも解釈できる。すでにグローバル社会において、多くの人々にとって「読み書き、そろばん」と同様一般常識として英語を構えずに使いこなしていくときが来ている。英語がつなぐ世界の広がりを多くの人々が直接享受する社会も開かれよう。英語公用語化ということを制度として堅く規定していくよりも、どのような状況で誰が参加するかという「場」に応じて日本語と英語(あるいは他の言語)をうまく使い分けていくことができるよう人々が慣れていくことが必要となり、またそれに対応した教育のあり方が求められているのではないだろうか。その実現に向けて、言語政策の国家的議論が今必要となっている。

飯野 公一(いいの・まさかず)/早稲田大学国際学術院教授

【略歴】
早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、日本銀行勤務。ペンシルベニア大学大学院修士、博士課程修了(Ph.D.取得)。カリフォルニア州立大学ロスアンジェルス校、桜美林大学助教授、早稲田大学政治経済学部教授、などを経て現職。日本言語政策学会理事。専門は社会言語学。主な近著に“Language Idealism and Realism in Globalization: Exploring Homogeneity Beliefs in Japan,” in Globalization of Language and Culture in Asia, edited by V. Vaish, Continuum International Publishing Group: London (2010), “Norms of Interaction in a Japanese Homestay Setting: Toward a Two-Way Flow of Linguistic and Cultural Resources,” in Language Learners in Study Abroad Contexts, edited by M. DuFon and E. Churchill, Multilingual Matters: Clevedon (2006), “Current Japanese Reforms in English Language Education: The 2003 “Action Plan,” Y. Butler 共著 in Language Policy (2005)、「新世代の言語学 - 社会・文化・人をつなぐもの」編著、くろしお出版 (2003)。