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鶴見 太郎(つるみ・たろう)早稲田大学文学学術院教授 略歴はこちらから

『遠野物語』をどう読むか
―刊行から100年を経て―

鶴見 太郎/早稲田大学文学学術院教授

 100周年ということから、今年は『遠野物語』について種々の本が上梓されたほか、柳田国男についても、いくつかの新しい論考が登場した。柳田国男その人の行程を考える上で、やはり『遠野物語』はひとつの結節点に位置するものであり、表題の通り、これを直截に事実を集めた「物語」として受け止めると、そこに秘められた諸相を見過ごすことになってしまう。専門分化が進んだ現在の学問編成では、捉えがたい部分を『遠野物語』は含んでいるからである。例えばそれは、同書が成立する以前の柳田を跡付ければ、おのずから明らかとなる。

柳田国男

 もともと柳田は農村の生活改善を志して、大学卒業後農商務省に入省した。しかし、ほどなく異動によって、法制局参事官に転出する。その頃、柳田に与えられた仕事のひとつに、特赦に関わる仕事があった。主たる業務は、再犯の可能性が薄いと判断される受刑者を選考することであり、過去にさかのぼって、犯罪記録、予審調書をはじめとするおびただしい資料を渉猟し、特赦の対象となる人物、事件について細かく吟味した。その途上、岐阜県で起こった或る事件の記録に柳田は強く引き込まれた。その概要は次のようなものである。

 西美濃の山中深くにある炭焼を生業にしていた50歳ほどの男が晩秋の或る日、いくら里へ降りても、炭が売れず、貧苦のあまり二人の子供を鉞で切り殺した。その日も男は里に出たものの、全く売れずに空手で戻ってこざるを得ず、帰ってからしばらく横になり、目を覚ましたところ、夕陽の指す場所で二人の子供が一心に鉞を研いでいた。そしてこれで自分たちを殺してくれ、と言った。そして二人は入口の材木を枕にして仰向けになった。その光景を見て男は茫然自失し、ついに事に及んだ。自身は死に切れずに、牢につながれることとなった。

遠野物語の初版本表紙

 のちに「山に埋もれたる人生あること」と題して『山の人生』(1926年)の冒頭に据えられた話である。 この凄惨、かつほとんど絶望的な貧困を伝える逸話に柳田は強く引き付けられた。1900年代当時、次第に文壇を席巻しつつあった自然主義文学よりも、人間そのものの姿を捉える上で、柳田にとってこの話の方がはるかに重大な問題を投げかけていると思われたからである。とりわけ柳田が十代の頃からの文学仲間であり、いまや自然主義の旗手となっていた田山花袋が赤裸々に身辺事象を綴り、それを自然主義文学とすることに対し、柳田は強い不満を抱いていた。1908年に発表された花袋の「蒲団」に代表されるように、微に入り細を穿つように人の内面を細かく暴きたてたところで、果たしてそれはその後ろにある社会の持つうねり、あるいはそこに胚胎される問題を捉えているだろうか、というのが柳田の自然主義文学観だった。

 それまで柳田はいくつか仕事の中で出会った資料の中で、これは、というものを花袋に紹介し、花袋もまた、それらを実際に小説の素材として使うことがあった。そして今回も柳田はこの記録のあらましを花袋に伝えた。花袋ならばもしかすると、この記録に隠された問題性に気付く素地をまだ残しているかも知れないという柳田なりの期待があったともいえる。

 しかし、花袋の反応は意外なほど冷淡なものだった。すなわち、小説とするには余りに内容が深刻に過ぎるというのである。すでに相違があったとはいえ、両者の亀裂はこれで決定的なものとなった。柳田にしてみれば、深刻であるからこそ、そこに取り上げるべき必然があるのであって、いたずらに内面だけを掘り下げて対象を描ききったところで、それが果たして自然主義とするに足る価値を持っているのか、という問いかけが底の方に伏在していた。

遠野の全景(デンデラ野)

 1910年6月の『遠野物語』は、まさにこの緊張関係を背景の一部としながら誕生した。そこで展開されるのは、一点の内面描写もない、あくまで記述的な世界である。しかもそれら直截な言葉がもたらす印象は静かな迫力を湛えている。さらに、「物語」の形をかりて遠野郷の生活そのものを写しだそうとする柳田の構成力には、生活事象をその淵源から知ろうとする農政官僚としての眼差しすら感じられる。『遠野物語』とは、政治と文学が渾然と一体になった作品なのである。

鶴見 太郎(つるみ・たろう)/早稲田大学文学学術院教授

【略歴】
1965年生。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。国立民族学博物館外来研究員を経て2003年本学着任。専攻は日本近現代史。