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村田 薫(むらた・かおる)早稲田大学文学学術院教授 略歴はこちらから

マーク・トウェイン『自伝』とハック
―自由に語る声を探して―

村田 薫/早稲田大学文学学術院教授

 2010年はマーク・トウェイン(1835-1910 本名サミュエル・クレメンズ)の生誕175年、死後100年に当たる。『マーク・トウェイン自伝』は、著者が死後100年間の公開を禁じたものだが、11月中旬に詳細な注解をつけて第1巻(全3巻の予定)がカリフォルニア大学から刊行された。ただし、今回の『自伝』で初めて公開される文章は実際にはそう多くなく、すでにその大半は活字になっている。

 書籍の刊行と同時に、注解を含めて、本文すべてがオンラインで公開になった(注1)。100年間非公開という前提で書きためた『自伝』が、一瞬にして世界中の人が読めるようになって、さぞかしトウェインも苦笑しているに違いない。それにしても作品の多くがほとんど自伝的だと自認するトウェインが、なぜこれほど膨大な『自伝』を必要としたのか。まるでサミュエル・クレメンズに起きたことをすべて語ることで、虚構の人物マーク・トウェインを無数のエピソードに支えられた永遠の存在にしようとしたかのようだ。

筆名・仮名を使うことで得る自由

 『自伝』の公開を100年後としたのは、揶揄・批判の対象となっている人たちへの配慮からであった。興味深いのはタイトルに実名を使わなかったことのいきさつで、そこには楽屋裏的な苦心談があった。自伝を書くには、本名を離れることが不可欠だとトウェインは考えていた。手紙で、「聴き手がいるという意識は一切排除し…(略)語りかける相手は自分自身だけ…(略)本名も使ってはならない。本名を使えば恥ずかしい話は書けなくなる」と述べている。筆名のもたらす自由が彼の自伝には必要だったのだ。仮名のもとで語りだすと、トウェインの想像力がいかに自由闊達に動き出すか――この実例にハックルベリー・フィンほどふさわしい人物はいない。トウェインはハックという名前を借りることで、まさに文学的事件ともいうべき作品を作り出したのである。

抑圧としての他者の声

 『自伝』執筆の苦心が示すように、自分の心の自由な声を引きだすことにトウェインは並々ならぬ関心を持っていた。『ハックルベリー・フィンの冒険』はトウェインの最高傑作だが、自由な声の問題は、心に入り込んだ他者の声が自己検閲の装置になるというかたちで、この作品の最も重要な箇所に現れる。

 黒人奴隷ジムの逃亡を助けて(当時は重罪)ミシシッピー川を筏で下るハックもついに追い詰められ、ジムの居場所を密告しようかと考え始める(第31章)。頭の中では奴隷の逃亡に加担したことを責める「良心」の声がわんわんと響き、どうしようもなくなったハックはその声に屈してジムの居所を知らせる手紙を書く。しかし、書き終えた途端、ジムこそが自分にとってかけがえのない人間であることに気づき、「地獄なんか、怖かねえや!」と、その手紙を破り捨てる。

 ハックを責め立てた「良心」の声は、実はハック自身の声ではない。生まれ育った町の大人たち、すなわち奴隷の逃亡を許さない他者の「良心」の声である。しかし、そういう区別立てができるのは読者であってハックではない。

 おそらくだれもが無数の自己検閲の声を内部に持っているが、そのどれが他者のものでどれが自分のものかを明確に区別することはほとんど不可能である。そもそも自分の声とは何か、自分の言葉とは何か? だれが容易に答えうるであろう。

言語の冒険がもたらす自由

 『ハックルベリー・フィンの冒険』は、奴隷制度や人種差別への批判を主題にした文学として読まれてきた。しかし、それは作品のごく一部にすぎない。ハックを悩ます多様な「声」に注目して読むと、自分の声と言葉とを獲得していく過程そのものもまさに冒険譚なのだ。アル中の父親の罵詈雑言とその巧みなレトリック、養い親の退屈な聖書教育、教会の日曜学校、冒険小説の知識で少年たちを支配するトムの言語、筏乗り達のほら話、詐欺師たちの嘘――ハックはその毒に当てられながらも、かろうじて自分の言葉を見つけて切り抜けていく。

 町を脱出するだけではハックは自由になれない。彼を本当に縛っているのは言葉の荒縄だ。その縄をふりほどかなければ自由などありえない。そして、こうした暴力・支配・管理・操作・陰謀の言語との戦いから彼を救いだすのは逃亡奴隷ジムであり、彼らはたがいに救い、救われる関係にある。ハックがいかに多くをジムから学んだかは明瞭には語られない。それはハックが語り手だからに過ぎず、読み手に多くが託されている。

 ハックは、ミシシッピー川という大自然 wilderness に身をあずける過程で多くを学び、観察や認識を言葉に置き換える喜びに彼の語りは陶酔感を帯びる。ミシシッピー川は、いわば広大無辺の独学の場だ。夜半の嵐、雷鳴、夜明け、川の流れの変化など、新しい体験のすべてをハックは言語化していく。

 そして、筏での逃亡という、いつ終わるともしれない〈ホームレス〉の状態の危険と不安と退屈――いずれもハックという少年が少年として〈成熟〉するのに不可欠の試練だ。

 この作品が後世に与えた影響で最大のものは、何よりも言語表現の可能性で、単音節語が自由に世界を切り開いていくさまは圧巻である。無一物のハックがだれよりも自由であることは、まさに彼の語りのスタイルに現れている(注2)。そこには言語表現を与えられて初めて今まで気づかなかったことが見えてくるという人間の原初の言語体験が、新鮮なかたちで再現されている。

 全篇ハックが語り手をつとめる物語だから作品には饒舌な印象があるが、ハックはあちこちでふと満ち足りたふうに口を閉ざす。そのときハックは、言葉と世界とのあわいにとどまって、つかの間、全身で自由を吸い込んでいるようにみえる。

(注1)http://www.marktwainproject.org/homepage.html
(注2)ひとつ挙げれば第19章の冒頭の一節。ぜひ原文にふれていただきたい。 http://etext.lib.virginia.edu/railtonはマーク・トウェインについての最良のサイトのひとつ。

村田 薫(むらた・かおる)/早稲田大学文学学術院教授

【略歴】
1953年福島県いわき市生まれ。早稲田大学大学院文学研究科英文学専攻修了。現在、文学学術院(文化構想学部・多元文化論系)教授。授業では、アメリカ南部文学・文化論、日米関係論、アメリカ映画・音楽などを扱う。

共著『ロックを生んだアメリカ南部』(NHKブックス)
共編『アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書』(ジャパンブックス)
共編著『マージナリア-隠れた文学/隠された文学』(音羽書房鶴見書店)ほか