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中島 国彦(なかじま・くにひこ)早稲田大学文学学術院教授(日本近代文学) 略歴はこちらから

地図を手に森鷗外と東京を歩く

中島 国彦/早稲田大学文学学術院教授(日本近代文学)

二次元の風景を読み替える

 1880年代の後半(明治10年代末)、坪内逍遙が文学革新の試みを続けていた頃、自由民権運動を背景とした「政治小説」と言われるものが書かれた。その代表作の一つ、末広鉄腸『雪中梅』(1886)は、明治173年(2040年!)の国会の祝日の折、「先日の大雨で上野博物館の後に当る鴬谷の崖が崩れると其中から一の石碑が出ました」というエピソードから始まる。国会開設に挺身した人物の記念の石碑で、その人の事蹟を書いた物語を「上野の書籍館」でやっと見つけ、以下に紹介する、という手の込んだ導入である。学生の頃初めて読んで、「崖」から不思議なものが出て来るという設定を、面白く思った。

 日本の近代小説に東京を描いた作品は多いが、その多彩な面白さは、たくさんの地名が出て来て、その風景描写がふんだんに現われるということだけにあるのではない。風景が作品の構造に深く関わり、それを読み解く冒険の楽しみが存在するのである。森鷗外(1862~1922)にも東京を描いた作品は多いが、作品の冒頭に、地方から初めて上京したにもかかわらず、『東京方眼図』を手にしてすいすい街を歩く小説家志望の小泉純一を登場させた長篇『青年』(1910~1911)は、記憶に残る。実は、『東京方眼図』(1909)は、鷗外自身が西洋の都市地図を学んで考案したもので、大きな一枚図と、町名から場所が引ける索引も付いた帖仕立ての本からなっており、わたくしなどは、明治の小説を読む時に手放せないものなのである(かつて日本近代文学館から複刻版が出た)。

 『青年』の冒頭を読み、主人公と一緒に本郷台を歩くのは楽しいが、『東京方眼図』では土地の高低が記されておらず、時折残念な思いがする。確かに、ヨーロッパの主要都市は、余り高低はなく、中心部と周辺の発展した場所の関係がモニュメントの所在からわかるが、作品に描かれた東京を知るには、ぜひとも高低がわかる地図がほしい。きちんと等高線が記された、当時の参謀本部の5千分の1地形図、陸地測量部の1万分の1地形図のたたずまいが、思い出される。小泉純一は、根津神社から団子坂の方に向かい、周囲の光景を観察しながら歩く。いろいろなものが眼に入るということは、心身が安定しているのだ。「ふいと左側の籠塀のある家を見ると、毛利某といふ門札が目に付」き、「これが鷗村の家だな」と覗いたりするのである。鷗外は1892年以来亡くなるまで住むことになる自身の家を、このように自作に書き込んだわけだ。作品は、その後純一の心情の揺れが描かれ、風景も変容していく。

 今年(2012)は、鷗外生誕150年の年で、11月に文京区はこの地に記念館をリニューアルオープンする。団子坂上という場所も大切だが、わたくしの関心はその場所周辺の地理的条件にほかならない。本郷台地のはずれ、坂の上、周辺の崖と、条件をいくつか思い浮かべることで、頭の中に三次元のCGのような画像が浮かび、その中に鷗外や作中人物が生き生きと現出するのである。東京は、思った以上に起伏がある都市である。起伏があることで、何かドラマが生まれるのではないか。折しも、皆川典久『東京「スリバチ」地形散歩』(2012)や、「東京人」の特集号「東京地形散歩」(2012・8)も出た。風景の新しい読み替えが、求められているように思う。

鷗外と荷風をつなぐもの

 鷗外の命日は7月9日で、その墓は、桜桃忌でにぎわった三鷹禅林寺の太宰治の墓の眼の前にある。その日は奇しくも、ヨーロッパ詩の見事な翻訳で知られる上田敏の命日と同じだった。この二人を敬愛する永井荷風は、自分も同じ日に鬼籍に入りたいと日記『断腸亭日乗』に記した。その永井荷風も、東京の地形に対する敏感な感性を持っていた。「一名東京散策記」と記された、大正初めの随筆『日和下駄』(1915)は、荷風が愛惜する東京の地名に満ちているが、その独特の場所の分類に、「崖」の一項があるのは興味深い。「上野から道灌山飛鳥山へかけての高地の側面」を、「崖の最も絵画的な実例」とし、さらに「根津権現の方から団子坂の上へと通ずる一条の路」の味わいを見事に描き出す。そして、語られるのが、その路の先にある、千駄木町21番地の鷗外の住居「観潮楼」での思い出なのである。荷風が、「二階の欄干に彳むと市中の屋根を越して遥に海が見える」と記すように、鷗外の階上の書斎「観潮楼」は、風景を高所から領略する場所であると同時に、日本近代の文化を統御する特異な場でもあった。そこで開かれた歌会には、与謝野寛・佐佐木信綱を始め、石川啄木・斎藤茂吉まで参加するのである。

 永井荷風は、1920年から麻布市兵衛町の家「偏奇館」に住んだ。地下鉄「六本木一丁目」駅横の泉ガーデンタワーの裏手で、新しい道路が作られ今は全くその面影が無くなったが、眼下に街を望む高所なのである。起伏は、心理的な感情を生み出す。崖の下方の低地は、実は昔は貧民窟のはずれであった。名作『濹東綺譚』(1937)にも、主人公が玉ノ井を土手の上から見下ろすシーンもある。どうやら、こうした俯瞰の視線を、荷風は鷗外から学んだようだ。が、鷗外も荷風も、そうした高所にあって、精神の緊張を無くしていたわけではない。身近な土地の落差の光景、そこに潜む「崖」の存在は、文学者たちに極度の緊張感を生み出すものでもある。何故なら、空間の「崖」は、いつ心理的な「崖」に変わり、自分を脅かすものをもたらすかも知れないのである。日本の近代文学は、言わばこうした人間の内面における「崖」なるものの存在を敏感に感じ取り、それとの絶えざる格闘を試みた軌跡に他ならないように思う。

中島 国彦(なかじま・くにひこ)/早稲田大学文学学術院教授(日本近代文学)

【略歴】
1946年東京生まれ。早稲田大学大学院博士課程修了、博士(文学)。現在、早稲田大学文学学術院教授、日本近代文学館理事。近代文学を、美術・音楽など諸芸術との相関で分析する。著書に、『近代文学にみる感受性』(筑摩書房、やまなし文学賞)、『夏目漱石の手紙』(共著、大修館書店)などがある。岩波書店版『白秋全集』『荷風全集』編集委員。