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橋本 一径(はしもと・かずみち)早稲田大学文学学術院准教授 略歴はこちらから

分類から検索へ――「指紋」から始まる新たな知のシステム?

橋本 一径/早稲田大学文学学術院准教授

 「検索」が学問のツールとして必要不可欠のものとなってから、どれくらいの年月が経つのだろう。図書館などのデータベースで目当ての著書や論文を検索するというのはもちろんのこと、全文がデジタル化されている論文や著作ならば、検索によって本文の中のキーワードやフレーズにもたどり着くことができる。「検索」によらない調査では到底見つけることのできなかったような記述に出会うことも増えたし、調査の方法自体が、これまでとは根本的に異なるものになろうとしているようにも思える。

 学問だけに限られた話ではない。わからない言葉に出会えば、とりあえずブラウザの検索窓にその言葉を打ち込んでみるというのが、私を含めた多くの人の行動パターンとして、すっかり定着してしまっているようである。あるいはツイッターなどのSNSにおいては、友人同士に向けたつもりでつぶやいた一言が、検索により第三者に補足され、「炎上」に至るという事件が繰り返されている。それを恐れるかのような、略語や隠語を用いての「検索逃れ」も一般化するなど、今や「検索」は、良くも悪くも私たちの日常に深く根を張り、多かれ少なかれその行動を左右しているようだ。

 「検索」が幅を利かせるようになる以前は、人々が膨大な資料や情報の中から目当てのものを探し出すために用いていたのは、「分類」という方法だった。図書館の分類システムが典型的なように、蔵書はジャンルなどにより幾層もの下位区分に分類され、利用者はその区分にしたがって、書棚や目録の中から特定の本を探し当てる。もちろん「分類」と「検索」は必ずしも相反するものであったわけではなく、むしろ対象となる母体の数をあらかじめ制限して、「検索」をしやすくするのが「分類」だった。ところが近年の情報処理技術の進化は、もはや「分類」という過程を経ずとも「検索」することを可能にしてしまった。たとえば、卑近な例で恐縮だが、いつの頃からか私は、自分のパソコン内にデータを保存する際に、それを様々なフォルダに分類することをやめてしまった。検索しやすいファイル名をつけて、それをすべて同じフォルダに放り込んでおけば、あとはそのフォルダ内を検索すればすむ話で、細かく分類する必要はないのである。

 「分類」とは、単なる書籍や資料の整理術にとどまるものではなかった。リンネによる生物の分類体系がそうであったように、分類とは人類が世界を切り分け、理解するための手がかりであり、人類の思想そのものであったと言っても過言ではないだろう。その「分類」が「検索」に取って代わられるとすれば、それは思想史上の重大な転回であると言えるのではないだろうか。そしてそのような転回の嚆矢をなしたのが、指紋による身元確認法の登場に他ならないのである。

 指紋法とはもともと、警察が保管する膨大な犯罪者の記録の整理のために導入されたものだ。そして指紋の前にその役割を担っていたのが、アルフォンス・ベルティヨンの考案した人体測定法であった。この人体測定法とは、犯罪者の手足や頭、耳などのサイズを測定して、それぞれを大、中、小に分け、たとえば「手…大、足…大、頭…中」というようなカテゴリーにその者の記録を分類しておく、というものだった。同じ人物が再逮捕された際には、再び計測を行えば、当該の記録が見つけ出せるという仕組みである。人体測定法が各国で導入され始めた頃には、すでに指紋法も知られていたのだが、それでも人体測定法が好まれたのは、分類が容易だったからに他ならない。もちろん指紋も当初は独自の指標により分類されていたのであり、分類を経ずに検索によって特定が可能になるのは、コンピュータによる検索システムの確立以後のことだが、分類法として優れていた人体測定法が、20世紀初頭に指紋法によって取って代わられたのは、「分類」から「検索」への転回を象徴する出来事だったと言ってよいだろう。

 2010年に拙著『指紋論』(青土社)を上梓したとき、身元確認の手段としての指紋が提起する問題系については、曲がりなりにも網羅したつもりでいた。ところがその後、指紋と「検索」の問題の深い結び付きに気づくに及び、再度指紋に立ち返って、そこに始まる「検索」の思想史をたどり直す必要があるとの思いは、日に日に強くなっている。しかし「検索」は「分類」と同様に、何らかの思想を生み出しうるものなのだろうか? たとえば検索によってデータベースからふるい分けられる書物や論文は、せいぜい数個のキーワードのみを共有する他は何の関連性も持たず、そこには無秩序しか見出すことができないようにも見える。

 ガストン・バシュラールが『近似的認識試論』(国文社、1982年)において述べていることは、この点で興味深い。この書の中で彼は、分類による体系化によって到達できる真理とは別の、もう一つの真理の存在に言及しているからである(309頁)。彼がこの真理を「細部」と関連付けている点も示唆的である。指紋がそうであるように、検索とは多くの場合、細部に関係する事柄だからだ。しかしフランスで1927年に初版の刊行されている同書に、インターネットの出現と「検索」の全面化を射程に収めた議論を期待するのは、もちろん無理があろう。「検索」は人類にいかなる知をもたらしうるのか。この問いを問うための準備は、まだ始まったばかりである。

橋本 一径(はしもと・かずみち)/早稲田大学文学学術院准教授

1974年生まれ。東京大学文学部思想文化学科卒業。フランス・ナント大学理工学部DEA課程修了。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。愛知工科大学講師を経て、2012年より現職。専攻は表象文化論。著書に『指紋論――心霊主義から生体認証まで』(青土社、2010年)、訳書にジョルジュ・ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお』(平凡社、2006年)、ジョルジュ・ヴィガレロ編『身体の歴史 1』(共訳、藤原書店、2010年)、ピエール・ルジャンドル『同一性の謎――知ることと主体の闇』(以文社、2012年)などがある。