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石原 千秋(いしはら・ちあき)/早稲田大学教育・総合科学学術院教授 略歴はこちらから

受験科目における「国語」の意義
~そこから個性は生まれるのか?~

石原 千秋/早稲田大学教育・総合科学学術院教授

 入試国語は学校教育における「国語」とどのような関係にあるのだろうか。

 義務教育課程においては、活字になっているもの、すなわち入試国語と教科書国語はある程度の共通点がある。それはどちらも大枠において「道徳的」だということである。これは大量の中学入試国語と高校入試国語、それに小学校国語と中学校国語の教科書を分析して得た結論である。

 たとえば小説問題では、登場人物の「気持ち」がよく問われる。しかし、小説は自由に読んでいいジャンルだから、「気持ち」の読み方も十人十色だろう。それでも試験会場で「正解」が一つに決まるのは、「道徳的に正しい選択肢だけが正解」という見えないルールが働いているからだ。すなわち、入試国語は小説がいかによく読めるかを問うているのではない。「社会の常識を身につけている度合い」や「学校空間への適応力」を試しているのである。言葉を換えて言えば、入試国語は受験勉強を教えやすく、生活指導も少なくてすむような、「良い子」を選別しているのである。

 国語教科書はどうだろうか。高校国語の教科書なら20年ほど編集した経験がある。そこですぐに学んだのは、暴力、セックス、新興宗教、天皇制、差別問題、身体障害などに関する教材はまず編集会議に提案されないし、万が一提案されてもまちがいなく却下されるということだ。「良識」が働くわけだ(『国語教科書の思想』ちくま新書、2005・10)。こういう「危ない」テーマを避ければ、「社会の常識」の枠内に収まるような文章しか国語教科書には再録できない。そういう教科書で国語を勉強すれば、めでたく「良い子」が出来上がるかもしれない。これが、入試国語と教科書国語の共通点である。

 もちろん、日常の授業はそれなりの自由度がある。特に国立や私立の学校の自由度は、公立の学校と比べて相対的に高い。だから「国語教育は道徳教育だ」と言うと、「いや、私は教科書を教えてはいない、教科書で教えているのだ」とか、端的に「現場を知らない」と反論されることがある。しかし、学校にも試験がある。〈国語教科書→授業→試験〉という流れの中で、試験に日常の授業の営みが反映できているのだろうか。教育学部に所属しているから教え子には教員も多いし、現場の教員の話を聞く機会も少なくない。誠実な教員ほど、「正解」を「国語教科書の思想」に沿って一つに決めなければならない試験で悩んでいる。

 それに話をすると、「良い子の作文を書くように心がけていた」とか、「良い子の作文を書く自分がとてもいやだった」と告白する学生がいかに多いことか。自由度の高いはずの授業でも、「自由」ではないのだ。もちろん、大学の授業もこういう「見えない拘束」から逃れられているわけではない。「現場を知らない」のはいったい誰なのだろうか。

 大学受験国語と高校国語(現代文)は少し事情が違ってくる。高校国語の評論では、自己や社会について再考するきっかけになるような教材が多い。その結果、「近代批判」や「常識批判」をテーマとした教材が中心になる。よく言われる「自分の頭で考える」ための思考方法を身につけてほしいからだ。大学受験国語もこの思想をほぼ共有しているから、現状肯定の評論が出題されることはほとんどない。評論問題を解くときには、こういう大前提をまず踏まえておかなければならない。ところが大学1年生ぐらいだと、思考が「社会の常識」に寄り添っている学生がほとんどである。たとえば、小説を読んでも「ふつうそう読むでしょ」というレベルがほとんどなのだ。せっかくの評論問題の勉強を受験技術論で終わらせるのではなく、大学に入学しても忘れないことだ。

 やっかいなのが、小説問題である。書かれていない「心情」を問われることが多いからだ。ここで注意すべきなのは、受験の小説問題は受験生の個性を試したいのではないということだ。大学受験国語でも、試したいのは「社会の最大公約数的な感じ方を理解しているか」だけだ。ただし、それには大前提がある。それは、「心情」はある出来事の結果であり、出来事に対応して生まれるものだという思想である。

 受験国語ではどうやって「心情」に言葉を与えるのだろうか。この点については、犯罪が起きたときのことを考えてみればいい。

 犯人が捕まって、裁判が始まったとしよう。裁判では、犯罪がどのような動機で行われたのかをしつこく追究する。今後の犯罪の防止につながるという建前のもとにである。犯罪の動機は、現実社会とはまったく無関係な完全に内的なものではないと考えられているから、裁判ではその動機を探るのである。仮に動機が完全に内的なものだとしたら、それは「狂気」と呼ぶことになるだろう。そこで、過去の生い立ちに遡ってまで、動機を探ろうとする。ここには、原因(犯人に関わる現実の社会で起きた出来事)と結果(動機)という因果関係がある。こうして、社会と動機とが手を組むことになる。人々は、現実社会に原因があり、その結果として彼または彼女に動機が生まれ、さらにその結果、犯罪に及んだのだと理解する。話を単純化すれば、「殴られたから(原因)、頭に来て(動機)、殴り返した(その結果)」という具合になる。この動機を「心情」に置き換えれば、それがすなわち受験国語の小説問題作成の思想である。

 したがって小説問題の選択肢は、小説中の出来事を要約した前半と、それと関わる登場人物の心情を言葉にした後半の組み合わせからできているのがふつうだ。「正解」を導くには、まず前半の要約にまちがいがないかを点検すればいい。多くの場合、これで選択肢を二つにまで絞り込めるはずだ。そのあと、「社会の最大公約数的な感じ方」を心情として言葉にしているものを絞り込めばいい。これもふつう二つの選択肢がピックアップできるだろう。要約が正しくて、かつ、「社会の最大公約数的な感じ方」が示されている選択肢は一つしかない。それが「正解」だ。

 記述式の場合も、以上のような受験国語の小説問題作成の思想に従えばいい。それは、「解答」の前半に7割ほど小説中の出来事を原因としてまとめ、後半で3割ほどその結果生じた「心情」を書き込めばいいということである。

 こういう受験国語でこれからの世界を生き抜いていくような人材を見抜けるかといえば、「否」と言うほかない。特にこうした問題作成の思想をよく理解しないのに「勉強しなくても受験国語ができる」受験生は、それだけ社会への順応性が高いから、新しい個性にはなりにくい。受験国語は「社会の常識」を試すイニシエーションだと割り切って距離を置き、問題作成の思想をメタ・レベルから眺めるほどの知的な思考を持つ者が、これからの世界を生き抜いていく個性ではないだろうか。受験国語の意義の中心はここにしかない。したがって、受験勉強の意義の中心もここにしかない。

 そしてもし、これからの日本には新しい個性が求められているのだとすれば、いま議論されている「道徳の教科化」は、「ゆとり教育」がもたらした以上の、深刻な結果をもたらすだろう。「道徳」の内容がナショナリズムに染め上げられる可能性が高いことはひとまず置くとしよう。最大の問題は、「道徳」が人間の世界に対する態度を一つに決めてしまうことにある。そういう教育から新しい個性は生まれにくい。これが受験国語問題作成の思想が炙り出す結論だ。

石原 千秋(いしはら・ちあき)/早稲田大学教育・総合科学学術院教授

【略歴】
1955年生まれ。成城大学文芸学部文芸学科卒業、同大学院文学研究科国文学専攻修士課程修了、同博士課程中退。東横学園女子短期大学専任講師・助教授、成城大学文芸学部助教授・教授を経て、2003年4月より現職。

【主な著書】
『反転する漱石』(青土社、1997年11月)
『秘伝 中学入試国語読解法』(新潮選書、1999年3月)
『漱石の記号学』(講談社選書メチエ、1999年4月)
『教養としての大学受験国語』(ちくま新書、2000年7月)
『小説入門のための高校入試国語』(HNKブックス、2002年4月)
『大学受験のための小説講義』(ちくま新書、2002年10月)
『テクストはまちがわない』(筑摩書房、2004年3月)
『漱石と三人の読者』(講談社現代新書、2004年10月)
『評論入門のための高校入試国語』(NHKブックス、2005年3月)
『国語教科書の思想』(ちくま新書、2005年10月)
『百年前の私たち』(講談社現代新書、2007年3月)
『秘伝 大学受験の国語力』(2007年7月)
『謎とき 村上春樹』(光文社新書、2007年10月)
『中学入試国語のルール』(講談社現代新書、2008年3月)
『国語教科書の中の「日本」』(ちくま新書、2009年9月)
『名作の書き出し 漱石から春樹まで』(光文社新書、2009年9月)
『読者はどこにいるのか 書物の中の私たち』(河出ブックス、2009年10月)
『あの作家の隠れた名作』(PHP新書、2009年11月)
『漱石はどう読まれてきたか』(新潮選書、2010年5月)ほか。
『近代という教養 文学が背負った課題』(筑摩選書、2013年1月)
『『こころ』で読みなおす漱石文学 大人になれなかった先生』(朝日文庫、2013年6月)
『教養として読む現代文学』(朝日選書、2013年10月)