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守中 高明(もりなか・たかあき) 早稲田大学法学学術院教授  略歴はこちらから

≪秘密≫の系譜学
――来たるべき民主主義へむけて

守中 高明/早稲田大学法学学術院教授

 現代社会を生きる市民にとって、秘密とはどのような位置を占め、どのような価値を持つ概念なのか。これはいっけん素朴な問い、あるいは自明の答えのある問いと映るかも知れない。しかし今日、秘密ほど多層的な意味を持ち、高い負荷を帯びた概念はない。それがどのように保持され機能しているかによってある社会の成熟度が測られるほど、秘密は重要な概念なのである。だが、それはいったいどのような意味においてか。

 何よりもまず、心的価値としての秘密がある。人間は誰でも心ないし内面を持ち、そこには他者に知られたくない領域として秘密がある、というのが一般的理解であるだろう。だが、そのような図式そのものが、ヨーロッパの歴史上に明確な日付を持つ文化的形成物であるという点に注意しよう。この点について最も組織的な分析を加えたのがミシェル・フーコーである。講演『〈性〉と権力』(1978年)のフーコーは、秘密が近代的主体に構造的に組み込まれた契機をキリスト教における「牧人=司祭型権力」の確立のうちに見る。この宗教的制度において「牧人=司祭」は、羊の群れとしての諸個人の救済のために「個人のすべてを知り、それを監視」し「絶えざる管理の力」を及ぼす特権的な役割を演ずる。その役割は、教会堂における告解室という装置のうちに具体的に見て取ることができるだろう。人はそこで、「真理の教師」としての「牧人=司祭」にむけて「魂の内密の部分で起きたすべてのことを言う義務」を負う。しかしそのとき、ある決定的な錯覚がそれと意識されぬまま生じているのだとフーコーは指摘する。人は「告白」する。そこでは「すでにあった何か」が表現され聴き取られているかに見える。だが、そこで生じているのは、実のところ表現という行為によってその「何か」がはじめて形成され意識されるという事態、すなわち、「魂の教導」による「罪」という次元の、したがって主体の「真実=真理」という次元の産出という出来事であり、ヨーロッパ近代を特徴づける「内面」「自己意識」「主観性」とは、この宗教的=歴史的装置の効果にほかならない、とフーコーは結論する。

 ここから出発して、われわれはさまざまな社会的制度を批判的に捉え返すことができるだろう。たとえば、義務教育の「国語」の時間における作文という訓練。われわれの誰もが幼い頃、教室で先生に「心に感じたこと、思っていることをそのまま書いてごらん」と「指導」された経験があるはずだ。しかし、この作業を通して(先生がたの善意の如何にかかわらず)生じていることこそは、幼い主体における「心」や「内面」の形成であり、それを意識化させることによる「主観性」の構築である、とフーコーなら言うだろう。誰も見たことのない「心」や「内面」をそのとき幼い主体ははじめて「作成」するのだ。

 あるいは、精神分析ないしその平俗化された臨床心理学が「牧人=司祭型権力」の現代的形態であることは見やすい。分析治療や面接において、被分析者は医師やカウンセラーを聴き手としてまさに「内面」を、それも最も深層にあり秘められた経験領域(と信じられているもの)を意識化し言語化することを通して、それまで無意識であったがゆえに病因とみなされる心的問題を克服することが期待される。苦しむ人にとってその作業が意味を持つこと自体を私も否定しようとは思わない。だが、この制度が人を結局のところ社会的規範に適度に順応するよう「教導」する性質のものであることは留意されるべきである。

 こうしたすべてを踏まえるとき、自然で無条件で万人に共通のものであるどころか、明確に歴史的かつ文化的な形成物である「内面」、そしてそれが保つ「秘密」という心的価値をめぐって、今日われわれはあらためて何を熟考すべきだろうか。

 ジャック・デリダはその著書『パッション』(1993年)において、ある別の次元の≪秘密≫、こう言ってよければ存在論的次元における≪秘密≫を考察している。それは「ヴェールを剥がして露出」させ「告白しなければならないような〔…〕一つの私的な内面性ではない」。反対にそれは、主体の「内面」には属さず、つねにすでにそれと名指されないまま「外」に開かれている、そんな自己固有化不能な次元である。主体自身にとってもいかなる仕方でも「分析」も「表現」もできぬ謎のままにとどまり、しかし主体の存立を根底で規定している、そんな≪秘密≫。それはいわば「内面」以上の何か、「思想及び良心の自由」(『日本国憲法』第一九条)以上の何かである。そしてそれこそが「民主主義の、ある誇張法的な条件」をなすのだ、とデリダは言う。すなわち、一定の条件が整えば踏み込まれ、操作され、誘導される危険を遮断できない「内面」から溢れ出し、決して情報化されぬ主体の還元不可能な特異性の刻印であり続ける≪秘密≫。それを保持し、互いにそれを尊重し合うとき、われわれは真の民主主義の到来を約束することができるだろう……。

 それ自体秘密めいた困難な提言かも知れぬ。だが、国家による「特定秘密保護」と心を整流化する「道徳」教育が推進されつつある現在、このような≪秘密≫概念は、たとえ理念としてそれを確保しておくだけでも、有益な倫理的‐政治的抵抗の根拠となるはずだ。

守中 高明(もりなか・たかあき)/早稲田大学法学学術院教授

【略歴】

1960年東京都生まれ。学習院大学、多摩美術大学等の兼任講師を経て、2001年に早稲田大学法学部助教授、2006年より現職。専門は現代フランス文学・思想。主な著書に『脱構築』(岩波書店、1999年)、『存在と灰――ツェラン、そしてデリダ以後』(人文書院、2004年)、『法』(岩波書店、2005年)、『終わりなきパッション――デリダ、ブランショ、ドゥルーズ』(未来社、2012年)など。主な共著に『思考のフロンティア 変成する思考――グローバル・ファシズムに抗して』(岩波書店、2005年)、『思考のフロンティア 壊れゆく世界と時代の課題』(同前、2009年)など。主な翻訳にデリダ『コーラ プラトンの場』(未来社、2004年)、ドゥルーズ『批評と臨床』(共訳、河出文庫、2010年)など。主な創作に『守中高明詩集』(思潮社、現代詩文庫、1999年)など。