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蒲谷 宏(かばや・ひろし) 早稲田大学国際学術院教授  略歴はこちらから

敬語から敬語コミュニケーションへ
——新年度に役立つ 敬語の本質

蒲谷 宏/早稲田大学国際学術院教授

敬語の三つの基本

 敬語を上手に使いこなしてみたいと思う人は多いだろう。日本社会の言語生活において、敬語はなくてはならない重要な要素であり、敬語が使いこなせるかどうかで、一人前の社会人であるか学生気分が抜けない未熟な者かが区別されたり、日本語の上手下手が判断されたりする場合もある。それだけに、敬語を学ぶことの価値もあるといえるわけである。

 その一方で、敬語は複雑で難しいと感じることも多いだろう。しかし、言葉としての敬語の習得自体は、それほど難しくはない。敬語の性質をすべて理解しなければ敬語が使えないわけではなく、その中の重要な点を押さえ、それを理解することによって、敬語を使うことへの抵抗感も少なくなる。

 敬語には様々な性質があるわけだが、まずは敬語に関する三つの基本ということで、「いらっしゃる」や「なさる」などの「高くする敬語」、「まいる」や「いたす」などの「改まりの敬語」、「いただく」や「くださる」などの「恩恵を表す敬語」について、理解を深めておくとよいだろう。「また敬語の分類の話か」と思われるかもしれないが、敬語を分類することが目的ではない。それぞれの敬語は、日常的に用いる慣用的な表現の中にも含まれているわけで、例えば、「いらっしゃいませ」には「高くする敬語」が、「行ってまいります」には「改まりの敬語」が、「いただきます」には「恩恵を表す敬語」が含まれていることに気づけば、普段から当たり前の使い分けをしていることに気づくだろう。

敬語に罪はない

 敬語は日本の伝統的な美しい言葉である、いや封建的な上下意識に基づく古臭い言葉に過ぎない、というように、敬語の是非が論じられる場合もある。それぞれの主張の背景にある価値観に基づく問題でもあるだけに、議論を一層難しくしているようにも思える。

 しかしながら、敬語を肯定するにしても、敬語を否定的に捉えるにしても、それは、言葉としての敬語自体の問題ではなく、実は、敬語を使う人の問題、敬語を使ってコミュニケーションをすることの問題なのである。その観点を抜きにして敬語の良し悪しを論じても、あまり意味がないだろう。敬語自体に罪はないのである。

敬語を超えて

 言葉としての敬語を学ぶことも大切ではあるが、それだけでは、敬語を使いこなすことはできない。敬語の本当の姿を明らかにするためには、敬語が使われるコミュニケーションそのものに着目する必要がある。それは、敬語だけではなく、敬語を使って表現する人、その表現を理解する人に目を向けること、敬語を使って(あるいは、敬語を使わずに)コミュニケーションするのはどういうことなのか、という観点を持つことである。つまり、敬語を超えた「敬語コミュニケーション」(より正確には「待遇コミュニケーション」)として捉えることが重要になるわけである。

敬語コミュニケーションとは何か

 「敬語コミュニケーション」を考えるためには、表現する人、理解する人が、自分と相手や第三者との関係(「人間関係」)をどう認識し、その表現に伴う経緯、そのときの状況や雰囲気(「場」)をどう捉え、どのような「意識」を持ち、どのような「内容」で、どのような「形式」でコミュニケーションするのか、という枠組みを用いるとわかりやすくなる。これは、「だれが、だれに、だれのことを」、「いつ、どこで」、「どういうきもちで」、「どういうなかみについて」、「どういうかたちで」、表現し、理解するのかといった常識的な捉え方に基づくものである。

 「人間関係」は、上位者か同位者か下位者かといった「上下関係」だけでなく、親しいか親しくないかといった「親疎関係」や、上司と部下、店員と客といった「立場・役割」なども含むものである。「場」は、「改まり」や「くだけ」の意識ともつながる。「場の空気を読む」ことだけでなく、その空気を変えていくことなども重要な観点になる。「意識(きもち)」は、尊敬や謙譲や丁寧といった敬語に関する基本的な意識だけではなく、親しみの気持ちや配慮、「おもてなし」の心などとも関係するものであり、それらが、「内容(なかみ)」や、「形式(かたち)」(言葉としての敬語はここに含まれる)と連動しつつ、コミュニケーションが成り立つと考えられる。

 大切なお客様をお迎えするという気持ちがあるからこそ、お客様を高くする「いらっしゃいませ」という表現につながるのであり、仕事や学業に向け心を引き締める思いがあるからこそ「行ってまいります」と改まった表現を選ぶのであり、その食べ物や作ってくれた人への感謝の気持ちがあるからこそ心を込めて「いただきます」と言えるわけである。

 しかし、常にそのような「形式(かたち)」を選ばなければならないというわけではない。「人間関係」や「場」や「意識(きもち)」に応じて、「ようこそお出でくださいました」でも「よく来たね」でもよいのであって、それこそが敬語を上手に使いこなすことにつながるのである。

 このような枠組みで考えていくと、それはもはや敬語の問題を超えて、さらに広い観点からのコミュニケーションの問題につながることがわかるだろう。言葉としての敬語だけにこだわるのでなく、こうした敬語コミュニケーションとして考えることで、日本語だけではなくすべての言語に共通する課題として捉え直すことができるようになるわけである。敬語コミュニケーションについて考えるのは、面倒なことかもしれない。しかし、それは、人が社会の中で生きていくことの意味を考える上で、大切な課題だといえるのである。

蒲谷 宏(かばや・ひろし)/早稲田大学国際学術院教授

【略歴】

早稲田大学第一文学部卒業、同大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。早稲田大学国際学術院(大学院日本語教育研究科)教授。大学院日本語教育研究科長、文化審議会国語分科会委員等を務める。
著書に、『敬語表現』、『敬語表現教育の方法』、『敬語表現ハンドブック』、『待遇コミュニケーション論』、『敬語マスター』以上大修館書店、『大人の敬語コミュニケーション』(ちくま新書)、『敬語コミュニケーション』、『日本語教育学序説』以上朝倉書店、『敬語使い方辞典』新日本法規出版、監修に、『楽しく演じて敬語の達人』(全3巻)光村教育図書、『こどもマナーとけいご絵じてん』三省堂、などがある。