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ゲイ ローリー(Gaye Rowley) 早稲田大学法学学術院教授 略歴はこちらから

「受験の題材」から「愛読すべき小説」へ
受験題材よりも魅力的な小説『源氏物語』の世界

ゲイ ローリー(Gaye Rowley)/早稲田大学法学学術院教授

 今年の1月10日のことであった。友人宅で毎月行われている、旧尾張徳川家所蔵の『河内本源氏物語』影印本(全10巻、八木書店2010〜2013年刊)を輪読する会に出席していた。物語の解釈を一切話題にせず、延々と続く変体仮名をただ読むことが会の趣旨である。昨年からようやく『源氏物語』後半の「宇治十帖」に入り、その日は「総角」の巻を出席者が順番に四ページずつ読んでいた。友人の番になり、物語では宇治の大君(おおいぎみ)が病に伏せて、薫は「法華経を不断に読ませ」て、大君が寝る「几帳をひき上げて、少しすべり入りて」姫宮を拝見する。

(薫)などか御こゑをだにきかせ給はぬとて、御てをとらへておどろかしきこえ給へば、(姫宮)心地には覚ながらものいふがいとくるしくてなん。ひごろをとづれ給はざりつれば、おぼつかなくてすぎ侍りぬべきにやとくちをしくこそ侍つれと、いきのしたにのたまふ。(薫)かくまたれたてまつるほどまでまいりこざりけることとて、さくりもよゝとなきたまふ。御くしなどすこしあつくにおはしける。 i

 ここまでかろうじて読み上げることができたものの、あまりにもつらい場面のようで、友人の目には涙が浮かんで頬にこぼれ、文字が見えずに声も出せないようであった。私の方はというと、変体仮名を十分に習得していないこともあり、薫と大君が交わす言葉を完全に理解したとは言い難いが、その友人が泣いているのにつられて涙をこぼしてしまう。そこで友人が涙をこらえて言ったことが印象深い。「これほど古い小説を、今でも泣けるって他にないよね。」

 その友人の言うとおりかもしれない。千年も昔に、ある女性が書き記した膨大な物語。何百年もの間に幾千もの人に読み継がれ、現代人にも小説として愛読されている例は、他にない。

 私が『源氏物語』を初めて読んだのは大学2年生の時だった。もちろん当時は英訳で読んだ。夢中になって初めて読んだのは30年以上も前だが、それ以降、『源氏物語』を様々な形で何度も読んできた。それなのに全く飽きることもなく、また、未だ知り尽くすこともできず、今でも読み続けている。

 学生に『源氏物語』の話をすると、多くの場合、部分的にしか知っておらず、それも「読んだ」というよりは大学受験のために「勉強した」ことに驚かされる。世界的な傑作に対するこうしたつまらない接し方は、正直に言うと悲劇としか思えない。『源氏物語』は「勉強しなければならない教材」よりはるかにおもしろい。輪読会で涙をこぼした哀しい場面だけではない。「帚木」の巻で登場する博士の娘や「常夏」の巻に現れる近江の君など、微笑ましい登場人物もいる。また、源氏との恋愛関係から秘められた情熱を燃やす朧月夜という右大臣の娘は、読者を惹きつけるとともに、彼女の後の生き方からは芯の強さを感じることもできる。

 このように、『源氏物語』の魅力を書き出すと実にきりがない。原文でなくてもよいから、現代語訳や外国語訳のうちの一つ、自分に合っていそうなものを選んで是非とも全文を読んで欲しい。日本語訳では与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子による訳はもちろん、橋本治や瀬戸内寂聴の訳も文庫版で出ており、求めやすい。外国語訳では欧米言語の英、仏、独、伊、露、蘭の全訳があり、中国語や韓国語もそれぞれ2つの全訳がある。(詳細はhttp://www.gayerowley.com/teaching/genji-bibliography/をご覧下さい。)

 別世界でありながら、私たちに今でも何かを語り続けている『源氏物語』である。もうすぐ春になる。試験や受験が終わり、時間ができたら『源氏物語』を読んでみてはどうだろうか。語り手の声に耳を傾けることで、きっと自分だけの「何か」を発見するだろう。

源氏物語(袖珍巻子本)』より四十七帖「総角」(早稲田大学図書館所蔵)

与謝野晶子の『新訳源氏物語』(1912-1913初版)では以下のように訳されている:

「何故声だけでも聞かせて下さらないの」といって、薫の君は手をとらえた。
「おいでになったことは分かっているのですが、物をいうのが苦しくってね。私はね、暫くおいでがなかったものですからね、お目にかかれないで死ぬのかと思ってましたの」
聞きわけられないような声で女はいった。
「あなたを待たせるほど長く私の来なかったのが残念です」
声を立てて男は泣いた。手に触れる女の髪は熱で少し熱かった。

ゲイ ローリー(Gaye Rowley)/早稲田大学法学学術院教授

【略歴】
オーストラリア生まれ。1984年オーストラリア国立大学アジア研究学部卒業、1987年日本女子大学日本文学研究科博士課程前期課程終了後、英国ケンブリッジ大学東洋学部で勉強、1995年同大学博士号取得後、2001年に早稲田大学法学部助教授を経て現職。専門は日本文学、特に『源氏物語』受容史および女性史。主な著書に『Yosano Akiko and The Tale of Genji』(2000年)、『The Female as Subject: Reading and Writing in Early Modern Japan』(共編著、2010年)『An Imperial Concubine’s Tale』(2013年)などがある。