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檜皮 瑞樹(ひわ・みずき)早稲田大学大学史資料センター助教 略歴はこちらから

早稲田大学最初の留学生

檜皮 瑞樹/早稲田大学大学史資料センター助教

 今から131年前の1884年(明治17)10月、東京専門学校(早稲田大学の前身)は最初の留学生を受け入れる。朝鮮人留学生である申載永(1864-1931)と嚴柱興(1858-1908)の二名である。1882年(明治15)の開校から僅か2年後のことであった。さらに翌1885年(明治18)には金漢琦(生没年不明)が入学している。彼らはどのような経緯をたどって東京専門学校に入学し、そして帰国後はどのようなキャリアを歩んだのだろうか。

朝鮮王朝の留学生派遣事業

 当時の留学生をめぐる歴史的背景について触れておく。近代以降、日本の教育機関への本格的な留学生派遣は、1883年(明治16)5月と7月に来日した60名余りの朝鮮人学生に始まる。この留学生派遣事業は福澤諭吉と金玉均の尽力により実現したものであり、東京専門学校へ入学した3人の学生もこの時日本へ留学した。慶応義塾の関係者・牛場卓三や松尾三代太郎に率いられた朝鮮人学生たちは、はじめ慶応義塾に下宿し基礎的な教育を受けたのち、より専門的な教育機関へと入学した。詳細は不明だが、一部の学生は陸軍戸山学校で軍事教育を受けている。この学生のなかには、のちに朝鮮独立運動で活躍する徐載弼の名前もある。

 そもそもこの事業を推進したのは、当時朝鮮王朝内で朝鮮社会の近代化を目論んだ金玉均や朴泳孝などの、いわゆる開化派青年貴族たちであった。陸軍戸山学校で学んだ学生を中心とした約20名の留学生は1884年7月朝鮮へ帰国したが、その後1884年12月に開化派による軍事クーデター・甲申政変が勃発すると、留学生の多くがこれに参加した。甲申政変は開化派の敗北におわり、留学生の多くはクーデター中に殺害、あるいはクーデター後に処刑され、生き残った徐載弼や鄭蘭教などは金玉均とともに日本へ亡命した。

 開化派の失脚後、日本への留学生派遣事業は中止され、朝鮮政府は日本への留学生に帰国を命じた。命令を受けた留学生の多くは帰国後に処罰されることを危惧し、政府からの命令に背いて、その後も日本での留学を継続した。

東京専門学校への留学生

 さて、東京専門学校への最初の留学生たちの事情をみてみよう。申載永と嚴柱興は、日本への留学当初に慶応義塾や税関などで学んだのち東京専門学校へと進んだ。1884年10月、申載永は政治経済学科に、嚴柱興は法律学科に入学した。しかし甲申政変によって彼らの日本留学も中止され、1885年1月に二人は東京専門学校を退学する。申載永と嚴柱興が東京専門学校で学んだのは僅か四ヶ月であった。その後、嚴柱興はみずから帰国を申出で、甲申政変後の外交交渉のため日本に派遣された徐相雨使節とともに同年3月帰国した。申載永の帰国時期に関する記録は残されていないが、おそらくは徐相雨使節と同時期に帰国したと考えられる。

 これに対して金漢琦は帰国命令を拒否して日本での留学を継続した。1883年9月に慶応義塾に予科の正規学生として入学した金漢琦は、1885年7月まで在籍したのち、1885年10月に東京専門学校英学科に入学した。しかし入学から五か月後の1886年2月頃、金漢琦は東京専門学校を退学し、同年5月に帰国した。

帰国後の留学生たち

1887(明治20)年7月 東京専門学校卒業記念。
校舎入口に大隈重信の姿がみえる。大学史資料センター所蔵。

 帰国後、彼らはどのようなキャリアを歩んだのであろうか。申載永と嚴柱興は外交実務を担当する統理交渉通商事務衙門に就職したが、のちに数年間流刑される。両者ともに甲午改革期に復職していることを鑑みれば、開化派との関係によって処分された、と考えてよいだろう。

 1890年代半ば以降、申載永は法部検事局長や公訴院判事など、司法官僚としてキャリアを形成した。1910年(明治43)の「韓国」併合以後も司法官僚としてのキャリアを継続し、判事として義兵運動に対する取り締まりや義兵関連裁判に深く関わるなど、地方官吏として生涯を終えた。嚴柱興も復帰後は税務視察官などをつとめたが、1908年に50歳で逝去した。

 一方、金漢琦の帰国後における活動は全く不明であるものの、開化派との関係から処刑されたことが多くの研究で指摘されている。

 今から100年以上前の東京専門学校への朝鮮人留学生たちの生涯は、当時の東アジア情勢に大きく左右されるものであった。いうまでもなく、現在の留学生をめぐる環境とはまったく事情が異なっているものの、大きな政治的奔流に巻き込まれてゆく留学生たちの姿と現在の留学生の苦悩を重ね合わせることも不可能ではない。

 また、創立直後の東京専門学校が既に留学生を受け入れていたという事実、また1900年には学苑による留学生派遣事業が開始されたことは、アジアに開かれた早稲田大学の歴史を考えるうえで多くの示唆を与えてくれる。

檜皮 瑞樹(ひわ・みずき)/早稲田大学大学史資料センター助教

【略歴】
神奈川県立公文書館非常勤嘱託、早稲田大学大学史資料センター助手を経て現職。博士(文学)。専門は日本近世・近代史、北方史。著書に『仁政イデオロギーとアイヌ統治』(2014年)。