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池田 雅之(いけだ・まさゆき)早稲田大学教授・同国際言語文化研究所所長  略歴はこちらから

幽霊と妖怪からのメッセージ
―小泉八雲と井上円了の妖怪観を巡って―

池田 雅之/早稲田大学教授・同国際言語文化研究所所長

幽霊と妖怪の本領は、その恐さにある

 昨今、妖怪ブームだそうである。妖怪たちは年中無休で出没しているというのに、妖怪ブームというのも妙な話である。それも、人間に親しみやすいキャラの妖怪たちが、メディアに登場するようになった。本来は、人間をおどかし、恐怖に陥れるのが妖怪の生きがいであったはずが、最近は人間に身近な「仲良しキャラ」が喜ばれているらしい。

 それでは妖怪たちの堕落ではないかと思うのだが、人間たちは心優しい癒しの妖怪キャラを求めているようだ。妖怪と人間の前代未聞の妥協が、起きているらしい。

 一方、幽霊の方も夏場になると急に出番がふえるとみえて、夜な夜な暗闇に乗じてあちこちに出没している。しかし、幽霊も一年中忙しいはずなのに、季節労働者の扱いを受けている。しかも、都内では真っ暗な闇夜が少なくなったせいか、幽霊たちはどうも遠慮ぎみで、いつ出たらよいのか、誰に取りついたらよいのか、そのタイミングと対象を見定めかねている様子だ。

 昔は幽霊は本当に恐い存在だったが、近年はなんだか迫力を欠き、妖怪とおなじく「ゆるキャラ」の運命を辿りつつあるよう感じる。しかし、彼らの存在価値は、ひとえに人間どもに恐怖を与えることにあるのだ。

 幽霊も妖怪もあくまで自然という外界の現象、一つの顕現(あらわれ)であるから、人間が勝手に彼らを手なずけ、親しみやすいキャラにかえようとするのは無理がある。彼らの根源的な恐怖的存在感を人間が思いのままに手なずけ、「仲良くしましょう」というのは、誠に人間の勝手としか言いようがない。

 幽霊と妖怪たちの重要な任務は、人間たちを恐怖のどん底に引きずり込むことによって、何か奥深い気づきやメッセージを人間たちに送りつづけることにある。人間たちを心底怯えさせながらも、「お前はそれでいいのか」と問いかけているのだ。人間たちはそれゆえ、恐がらずに彼らにきちんと向き合わなければいけないのだ。

霊的なものの響き合い

 それでは、なぜ人間は、そうした幽霊や妖怪などのものの化に敏感に感応するのであろうか。まず言えるのは、どんな民族、いかなる人種であれ、人間が身体に深く宿しているのは自然への恐怖心であり、それは人間の集団的無意識の記憶となっている。個々の人間は、したがって、恐怖として感受する霊的なものを身体に宿しているといえる。外界の霊的存在である妖怪や幽霊が、個々人の内にある霊的なものと響きあうからこそ、私たち人間は恐怖の戦慄におののくのである。

 それでは、私たちの内奥に、外界の現象物たる幽霊や妖怪に感応する共鳴器があるとするなら、人間もまた一個の霊的(ghostly)な存在といえるのではなかろうか。つまり、八雲の考えるように、人間もまた一個の幽霊であり、妖怪であるといいかえてもよかろう。普段、目に見えないもの、ものの化を人間が幻視してしまうというのは、視覚を通して、何かのヴィジョンあるいは幻影の出現に立ち会ってしまうことに他ならない。

幽霊と妖怪は実在するのか

 そういう意味において、幽霊も妖怪も実在するいえるのではなかろうか。私自身は実在すると考えている。しかし、それは人間や動物のような生命体として、幽霊や妖怪がこの世に存在しているという意味ではない。それはあくまで、人間の内なる霊的な(ghostly)ヴイジョンが、外界に投影された一種の幻影(イルージョン)ではないか、と私は思っている。妖怪や幽霊は生きものとして、集落を地上のどこかに作り、生活を営んでいるわけではない。あくまで人間の内奥が作りだす幻影や幻像として、実在するのである。

 私にも幽霊体験はある。しかし、その幽霊は私と見つめ合うだけで、話をしたり、握手をすることもなく、数分間現れては、姿を消した。しかし、その出現は何かの顕現であり、何らかのメッセージを私に伝えようとするものである、と私は感じた。私は15年ほど前のこの体験を今でも反芻し、その意味を考え続けている。つまり、それをどう受け止めてゆくかは、意外と人生にとって大事なことのように、私には思われるのである。

 妖怪博士の井上円了が、幽霊や妖怪の実在性を否定したことは、よく知られている。彼は幼いころから、幽霊や妖怪の話をきいて育ったし、その体験もしている。それゆえ、彼はその不思議の謎を解こうと考えた。そして、妖怪は、普通の道理をもってしても説明できないものなので、理法外の「不思議」に属するもの、と円了は論じた。そして、円了は庶民の妖怪の存在に対する盲信を正し、妖怪とは何か、その正体を究明することに努めたのであった。円了の妖怪学の使命は、庶民を迷信から解放するための啓蒙活動といえるものであった。

井上円了と小泉八雲の幽霊・妖怪観

八雲が描いた妖怪たち

 一方、「怪談」を書いた小泉八雲は、幽霊や妖怪の実在性を信じていた。八雲は5歳の頃から、幽霊やお化けにつきまとわれ、もて遊ばれた体験をもっていた。八雲はその幽霊体験を「夢魔の感触」Nightmare-Touchという自伝的作品の中で告白している。そして、幽霊に身体を触れられるという恐怖感は、「ちょうど子どもが暗闇を怖がるように、生まれる前から受け継がれた恐怖である」と八雲は述べている。だから、私たちが幽霊や妖怪が恐わいというのは、過去の個人的体験を超えて、民族的体験の記憶からも生まれてくる、と八雲は考えたのである。

 円了は、近代化にむかって歩む日本人の無知や非科学性を気づかせるために、妖怪研究に打ち込んだといえる。しかし、八雲の方は幼年期のトラウマとしての幽霊・妖怪体験を癒すために、怪談を次々に書き継いでいったのである。

 今、私は円了は幽霊や妖怪の実在性を否定したが、八雲はその実在性を認めていたと述べた。しかし、私がここで「幽霊や妖怪は実在する」と主張しているには、それらが、生命体として存在しているといっているのではなく、一個の幻像(vision)、あるいは幻想(illusion)として「実在」しているといっているにすぎない。

 そう考えてゆくと、円了の幽霊や妖怪の「非実在説」も、八雲の「実在説」も、結局は同じ考え方であることに、私たちは気づく。八雲は一つのイリュージョンとして、幽霊や妖怪の実在を信じていたのかもしれないが、人間や動物と同じような生命体として存在しているかどうか、疑わしく思っていたのではなかろうか。

 円了も八雲も幽霊と妖怪へのアプローチこそ違うが、ほぼ近い立場に立っているように思う。しかし、あえて二人の立場の違いを指摘するなら、円了が学者として、人々が幽霊や妖怪の存在を信ずることを迷信として退けたのに対して、八雲は作家として、その存在を想像力の源泉としていたといえる。

 ちなみに、円了と八雲は同時代人で、実際直接会ったことがあるようだ。もちろん、二人は、妖怪談義に花を咲かせたであろうが、両人が自分の立場にこだわって激論を闘わせたという記録は残っていない。二人は同じく幽霊や妖怪に関心を寄せる同好の徒として、互いに好意を抱いたことだろう。

幽霊や妖怪と付き合う法

小泉八雲

 一般には、もともと人間であった幽霊は、狙い定めたある特定の人間の前にのみ現れるという。幽霊というものは、恨みをいだいた人間に生前の怨念を晴らすために出現するというのが定番である。その場合、幽霊はたいがいが女性で、生前自分をだました男性に取りつくのである。女の幽霊は、男を殺すこともあるが、男の改心と償いによって、姿を消すケースもある。

 一方、妖怪となると、人間以外の動物の化身も多く、脅かす相手の人間は不特定多数となり、誰でもおかまいなしに現れるケースが多い。相手が善人であろうが、悪人であろうが、出現しては、恐怖心を与える。

 しかし、実際のところ、幽霊と妖怪の区別というか、線引きは、かなり曖昧といえる。あまり厳密に定義できないように思う。幽霊と妖怪はきわめて霊的な存在であり、人間の幻想や想像力が生み出した、世界共通の歴史的産物であるからである。この貴重な存在を実証的かつ科学的に存在証明が出来ないからといって、歴史の舞台から消してもいいということにはならない。幽霊も妖怪も、人間が生み出した文化遺産なのである。

 それからもう一つ付け加えなければならない点は、幽霊と妖怪のもつ両義性、つまりプラスの面である。私はこの両者の人間への否定的で破壊的な側面に言及してきたが、好意的で肯定的な側面にも触れておかなければならない。それは、幽霊と妖怪が人を助けたり、導いたりするという側面である。

 これには、人間側が、幽霊や妖怪の現れを何の前触れかを察知し、そこから気づきや導きの糸をたぐりよせることができるかにかかっている。幽霊や妖怪の存在は、目に見えない世界から現世の私たち人間にたいして、何か重要なメッセージをなげかけているからである。そういう意味で、八雲は目に見えない霊的存在、幽霊や妖怪からのメッセージを真摯に受け止めることのできた類稀な作家の一人といえよう。私などは、むしろ人間の方がよっぽど恐くて、理不尽な存在だと思っている。

 幽霊と妖怪とどのように向き合い、お付き合いするのか、そこには、もう一つの人生の深い意味が隠されているように思われる。

池田 雅之/早稲田大学教授・同国際言語文化研究所所長

【略歴】
三重県に生まれる。現在、早稲田大学社会科学総合学術院教授・同国際言語文化研究所所長。専門は比較文学、比較基層文化論。NPO法人鎌倉てらこや顧問。その社会貢献活動により、2007年博報賞、文部科学大臣奨励賞、2011年正力松太郎賞、共生・地域・文化大賞受賞。著書に『ラフカディオ・ハーンの日本』(角川選書)、『想像力の比較文学』『複眼の比較文化』(以上、成文堂)、『100分de名著 小泉八雲 日本の面影』(NHK出版) ほか。編著に『古事記と小泉八雲』『お伊勢参りと熊野詣』(かまくら春秋社)、『共生と循環のコスモロジー』『比較文化のすすめ』『てらこや教育が日本を変える』(以上、成文堂)。翻訳に『新編 日本の面影』『新編 日本の面影Ⅱ』『新編 日本の怪談』(角川ソフィア文庫)、『キャッツ』『妖怪・妖精譚』(ちくま文庫)ほか。