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池原 舞(いけはら・まい)/早稲田大学グローバルエデュケーションセンター助教  略歴はこちらから

現代音楽が放つ魅力――体験して実感される瞬間の煌き

池原 舞/早稲田大学グローバルエデュケーションセンター助教

「現代音楽」という自由な海原で――何を探しに出かけ、どこを面白がって、どんなふうに表現するのか

 現代音楽とか現代アートとか、「現代」がつくと途端になんだか難しい、というイメージがあるようだ。「どこが面白いの?」と聞かれると、私はだいたいこんなふうに答えている。「それはもう、やってる人たちが素敵!考え方が斬新!感じ方が活き活きしてる!」

 この記事では、現代音楽が放つ魅力について2つの曲を取り上げて、私の言葉で綴ってみたい。

「西洋音楽史」と題されている書物で「現代音楽」なる項目は、だいたい20世紀初頭、調性崩壊という現象とともに説明される。調性とは、ハ短調とか変イ長調とかいう音高組織のシステムのことだが、この調性の枠組みがあるからこそ、ある曲に対してある程度一様に明るいとか暗いとかいった印象を作ることができる。モーツァルトもベートーヴェンもショパンも、皆、この基盤の上で作曲してきた。ところが、そこに「もうちょっと奇抜な音を混ぜてみたい!」という人たちが出てくる。それが20世紀初頭のこと。

 これを皮切りに、それまでの芸術において崇高とされてきた概念だとか、それを伝えるための文法だとか、そういうものが音を立てて一気に崩れていった。常識なんて覆しちゃえ!ルールなんか無視してやれ!とでも言わんばかりに。

 こうして一旦、過去からのしがらみを放棄することで、自由を手にした。そう、現代音楽は、この自由な海原のなかで、何を探しに出かけ、どこを面白がって、どんなふうに表現するのか、そういう枠組みを問うところから始まるのだ。

エリック・サティの《グノシェンヌ第1番》――「舌の上で」を解釈する

 現代音楽界切っての変人といわれるエリック・サティ(1866-1925)を紹介しよう。ベルベットのスーツを7着購入して7年間着続けるだとか、自ら司祭且つただ一人の会員である秘教を自宅に創設して会員誌を発行するだとか、演奏会場にて雨傘で決闘して警察に留置されるだとか、その人となりにまつわる逸話は絶えない。そんな人が書いた作品なのだから、やっぱりどこかおかしい。1分くらいの奇妙なフレーズを840回繰り返すことで総演奏時間が20時間を超える羽目になる《ヴェクサシオン》などは、ストイックな彼の思想が炸裂した代表作といえるだろう――ちなみに私はこの作品の異常っぷりを少しでも体感したくて、1時間だけこの曲を弾いたことがあるが、身体の中心軸が取れなくなっていく不思議な陶酔感があった――。

 現実世界ではちょっと避けてしまいたくなる人なのだが、ひとたび楽譜を開くと、とてつもない力で引き寄せられてしまいそうになるのがこの人。というのも、サティの、言葉に対する感性の鋭さといったら!

 まず、題名がへんてこりん。《(犬のための)ぶよぶよした本当の前奏曲》とか、《右と左に見えるもの(眼鏡なしで)》とか。でも、なんといっても奏者をワクワクさせるのは、楽譜のなかに書かれた楽語だ。楽語というのは、音量を指示する「f(フォルテ)=強く」や、速度を指定する「Allegro(アレグロ)=速く」や、弾き方のニュアンスを示す「Cantabile(カンタービレ)=歌うように」といった表情記号などのこと。サティの楽譜には、これまでに見たこともない表情記号がたくさん散りばめられているのだ。例えば、彼の初期の作品である《グノシェンヌ第1番》。

 まず、最初に現れる表情記号「Trés luisant」は、「とても輝いて」という意味。まぁ、これはわかる。キラキラ弾けばよい。変なのは、次の「Questionnez=問いかけて」である。何を誰に問いかけろというのだ、とこっちが問いたくなる。以降、「De bout du la pensée=思考の端から」、「Postulez en vous-même=自分自身を頼りに」、「Pas á Pas=一歩一歩」というふうに、わかるようなわからないような言葉が続いていく。そして極めつけはこの曲の最後の部分に出てくる「Sur la langue=舌の上で」という表記(【図1】)。

【図1】サティ《グノシェンヌ第1番》最後の部分
©Eric Satie, Gnossiennes.

「舌の上で」と聞いたときに、あなたは何を想像するだろうか。冷たいアイスクリームがじわじわと溶けていく感じ? あるいは、飴玉をコロコロ転がす感じ? いずれにしても、舌の上で何をどうするのかは楽譜に一切書かれていないし、まさか舌で弾くわけにもいかない。

 仮に、アイスクリームが溶けていく感じで弾いてみるとしよう。口に入れたとき、アイスクリームはまだ固くて冷たい。だから、このフレーズの最初は、硬質な音で、テンポをきっちり守って弾くのがいいかもしれない。アイスクリームがだんだんと溶けていく感じを表すには、徐々にテンポを緩めていってもいいかもしれない。形状がなくなっていく感じは、音量を弱くしていくことで表現できるかもしれない。そうして完全に溶けてしまったときに突然おとずれる自分の舌の温かさを表すには、じわりと柔らかいタッチで打鍵して、最後はゆっくりと指を放すのがいいかもしれない。さぁ、うまく弾けただろうか。

 こうやって考えることが面白いと感じたなら、あなたはもうほとんどサティの虜だ。かつての表情記号は、「こう弾いてね」という作曲家からのメッセージだった。それに対しサティは、奏者に「あなたが考えたら?」という謎かけを出してきたのだ。

ジョン・ケージの《4分33秒》――「聴く」と「聞く」

 謎かけといえば、もう一人、ジョン・ケージ(1912-1992)の名前を挙げないわけにはいかないだろう。サティをさらに上回る自由人だ。ピアノの弦の間に釘や木片を挟んで音を変質させるプリペアド・ピアノを発明したり、占いをして出た音をただただ繋げて作曲していくチャンス・オペレーションズという方法を打ち立てたり。どれもこれも思わず異議を申し立てずにはいられない。

 そんな人騒がせなケージからの最大の挑戦状は、4分33秒のあいだ何も演奏されない《4分33秒》という曲だろう。そもそも「曲」と言っていいのだろうか。何も演奏されないのだから切れ目もへったくれもないのだが、一応、3楽章に分かれている。楽譜もちゃんとある(【図2】)。

【図2】ケージ《4分33秒》(100周年記念版の楽譜の表紙)
©John Cage, 4’33’’, C. F. Peters Musikverlag.
※ちなみに、この記念版には、3種類の書き方による《4分33秒》が入っています。この作品の主旨をどうやって楽譜にして伝えるか、ケージが悩んだのがよくわかります。

 1952年にこの作品が初演されたとき、観客は戸惑ったに違いない。ピアニストが出てきてピアノの前に座ったにもかかわらず、4分33秒のあいだピアノの鍵盤には一切触れなかったのだから――楽章間を示すために、ピアノの蓋を開け閉めした、とはいえ――。最初は静かだった会場が、観客のざわめきで満ちていく。

 ケージは、この曲で何を伝えたかったのだろうか。この曲について語った、ケージの言葉を引いてみよう。

第1楽章は、外でそよぐ風の音を、君は聴いたはずだ。第2楽章では、屋根を叩き始める雨の音を。第3楽章では、聴衆たちが、話したり歩いたりする音を。

 この世界は、音で満ちているよ、と。ケージはたぶんそう言いたかったのだろう。「音楽」ってもっと広いんじゃないの、と。LISTENする(聴く)んじゃなくて、何気なくHEARして(聞いて)いる音にも耳を傾けてみようよ、と。

 HEARからLISTENに変換する瞬間には、何が起こるんだろうか。

 よし!やってみよう。今、ここで。《4分33秒》を体験してみよう。あなたも一緒に。せっかくだから、スマートフォンか何かで録音しながら。時間を測るためにも。

――4分33秒経過――

 さぁ、どうだろうか。

 今、私は深夜の研究室でパソコンに向かっている。なんだか蝉の声が近い(私は蝉が嫌い)。パソコンの駆動音も聞こえる。こんな深夜なのに、いや、深夜だからこそ、普段聞こえていないようないろんな音が、静寂のなかに響きわたっている。でもそれは、私がそういう音たちに耳を澄ませてみたから、感じられたことなのだろう。

 あなたには何が聞こえただろうか。あなたがもし線路のそばに住んでいたなら、ガタンゴトンと電車の走る音が聞こえたかもしれない。途中で誰かがあなたの部屋をノックしたなら、トントンとドアを叩く音が聞こえたかもしれない。あるいは、座り直したときにギィーッと椅子の軋む音が聞こえたかもしれない。今のあなたの生活を取り巻く音、今のあなたから偶然発せられた音、そのすべてが、4分33秒という時間枠のなかで、今、起こった出来事なのだ。

 では次にここで、さっき録音した音を再生してみよう。

――再び、4分33秒経過――

 さぁ、今度は何が聞こえるだろうか。さっきとは違うだろうか。

 私は、今、録音を聴きながら、クッキーを食べ始めたので、ポリポリとクッキーをかじる音が聞こえている。そして……ポリポリ、ミーンミンミン、ポリポリ、ミーンミンミンミン。スマートフォンから聞こえてくるさっきの蝉の鳴き声と、今、私がクッキーを食べる音が、混ざっている。俺にもクッキーくれよ、って言ってるみたい。クッキーと蝉の協奏曲。

 そう、今の4分33秒間を使って、さっき録音した4分33秒間を聴くということは、2重の《4分33秒》を体感することになるのだ。録音を再生しようと私が言ったので、あなたは、スマートフォンから聞こえてくる音だけに注意を向けていたかもしれないけれども、実はその外側で、他にもたくさんの音が鳴っている。

 もちろんケージがこんな聴き方を想定していたかどうかはわからない。おそらく全然想定していなかっただろう。だけれども、こういうことにハッと気づく、その感じを、きっとケージという人はとても大事にしていたのだ。

音楽の一回性――体験して、実感すること

 ケージが作った《4分33秒》という作品は、こんなふうに、気にしなければ過ぎ去ってしまうかもしれない音に、耳を傾けさせてくれる。これは、「音楽の一回性」、つまり、その一回を今ここで今の私が聴くという行為の大切さと結びつく。もしかするとケージは私たちに、音楽を超えて、一回きりの出来事と大切に向き合うきっかけを与えてくれているのかもしれない。

 ケージだけでなくサティも、そして現代音楽の作曲家たちは、とても意識的に、私たちが音楽や音と向き合う方法に注意を促してくれる。日常のふとした何気ない瞬間や、意識しなければ引っかからないような出来事が、本当はもっと輝いていて、もしかしたら意味のあることかもしれない、と教えてくれているような気がするのだ。そしてこうした気づきは、体験して実感することでこそ、真に、私たちの目の前に迫ってくる。

 現代音楽は、決して机上のものではない。瞬間瞬間の煌きを感じていく、喜びに満ちた芸術なのだ。

池原 舞(いけはら・まい)/早稲田大学グローバルエデュケーションセンター助教

桐朋女子高等学校演奏科ピアノ専攻、桐朋学園大学音楽学部演奏学科ピアノ専攻を経て、同大学作曲理論学科音楽学専攻に転科の後に、同大学研究科を修了。国立音楽大学博士後期課程を経て、博士号(音楽学)を取得。現職は、早稲田大学グローバルエデュケーションセンター助教。国立音楽大学音楽研究所「20世紀アメリカ音楽研究部門」客員所員。
専門は、20世紀のロシアの作曲家イーゴル・ストラヴィンスキーの自筆譜研究だが、現代音楽全般に広く関心をもつ。自らの演奏経験を活かし、ピアノを弾きながら説明する講義が好評を博す。2015年度秋学期早稲田大学ティーチングアワード総長賞受賞。